市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

さよならテレビ

年明けの3日に名古屋シネマテークでやっと 東海テレビ制作のドキュメンタリー「さよならテレビ」の映画版を見ることができました。予期せぬことで、監督の土方さんやプロデゥーサーの阿武野さんの挨拶や質疑応答もあり、楽しい視聴となりました。

f:id:ichi-nagoyajin:20200103115548j:plain
舞台挨拶
eiga.com

また、たぶんご本人たちはご存じないような形で知り合いの方々が映り込んでいるシーンもあり、今度、その人たちに会ったときに伝えるのが楽しみです。

作品は、東海テレビのディレクターであり、「やくざと憲法」を作成された土方監督が、自身の所属する東海テレビの内部をドキュメンタリーの対象として取材するという作品で、衰退が予感されていたり、その在り方が時に社会の批判を受けるテレビの現場における今日的在り方を問うもので、その射程は、マスコミやメディアの在り方を論点とするだけではなく、働き方改革など、労働時間の短縮が要請される中で、視聴率という数字目標は揺るがされることがないという矛盾が露呈されたり、コンプライアンスという枠組みがより厳しくなっていたりと、今日的な「労働とは何か」とか、そうしたコスト重視の帰結として導入される「契約社員」の増加から「契約労働」といったものの在り方も抉り出している。

上映後の質疑応答の中で、作品に出ている3人の主要な対象の内、2人は契約社員(契約記者)であり、1人はアナウンサー(社員/出役)であり、一般の正社員が対象となっていなかったのは何故か、特に会社の上層部にもインタビューは行われていたそうだが、それらの素材が使われていなかったのは何故かとの質問に、土方監督が「契約社員を素材にしたのではないかという批判も受けた」と吐露され、「正社員を取材する際に、どうしても本当のことを話してくれない。彼らもメディアの人間なので、何が使われ、何が使われないか計算もしているし、なかなか本音を語ってくれない。正社員の素材を見ても、自分はそこに『本当』があるようには見えなかった。そんなものを視聴者にお見せしても、またメディアの人間が自分たちの都合のいいように『良い話』をでっちあげているようにしか見てもらえないような気がした」というような話をされ、契約社員の澤村記者や渡辺記者については、その言動から「本当」が感じられ、こういった構成になったというような話がされました。

また、この作品は最後になかなか「攻めた」内容が含まれているのですが、そこについても制作メンバー内で議論があり、この最後の部分の為に賞を逃したのではないかという意見もあったとも披露されました。

「やくざと憲法」でも感じましたが、この土方監督というのはなかなかクレバーで一筋縄ではいかなさそうな人ですね。

作品からはいくつもの論点が汲み取れると思うのですが、その中の主要な論点である「メディアの在り方」について、作品の中でも「テレビの闇」という表現が使われ、上映後のお二人の質疑応答でもテーマとなりました。

メディアを作っている人々が、こうした自問自答や呻吟をもって事に当たっている姿は、誠実で良いことだろうと感じます。しかし、人が自分の行動に対して、確たる確信を抱けないということは、ある意味では非常に「しんどい」ことであり、どうしても何かに仮託したり、責任回避の言葉に逃げ込んだりしてしまいがちですが、最前線に立つものが、こうした誤魔化しをしてしまえばその仕事はどんどん無責任で厚みのないものに堕していくことでしょう。

100%の確信のない中でも提示し続ける勇気や、成果に対する責任を引き受ける覚悟がなければ、価値ある仕事は成立しないでしょう。

逆に、ご自分の仕事に100%の確信を持っている人が居たら、その人には「それは過信なのではないか」と問いたいものです。単に確信を揺るがすような要素を無視しているがために、100%の確信が成立しているように見えるだけなのではないか。

「テレビの闇」について考察する際に、阿武野プロデゥーサーが質疑応答で面白い話をされた。「映画の中で出てくる、●●の部屋、あれはセットです」「東海テレビの制作室として出てきた部屋、あれもセットです」「映画の中の●●君も、役者で、最後のあのセリフも私が書いたものです」これらの発言に一瞬会場はざわつきましたが、もちろんこれらは「嘘」です。

思考実験の為に出した話に過ぎません。が、実は私には、この言葉を否定するだけの材料を持っているわけではない。つまり、阿武野プロデゥーサーが言ったことが事実で、ドキュメンタリーであるとした「事実」が全くの虚構である可能性もあるわけだ。

私はここに「テレビの闇」はあると思う。

ラジオはその誕生とともに政治的プロパガンダに利用された。戦前の日本でもそうだったし、世界史的にも最もラジオの普及に熱心だったのがナチスであったということを考えれば、ラジオというメディアが、特定の意思を持った政治勢力に使われないと考える方が異常だろう。H.G.ウェルズ宇宙戦争という騒動(1938年)を引き合いに出すまでもなく、ラジオというメディアは「嘘」の物語を「本当」と信じ込ませる悪魔的な魅力を持つ。
つまり、歪んだ政治的意図や宗教的偏見でも、人々を信じ込ませ、動かしてしまう。
こうした、悪魔の牙は様々な場面で散見され、最近でもルワンダ虐殺における「千の丘自由ラジオ」における扇動(1994年/被害者推計50万人~100万人)という形で現出している。


ラジオの拡張であるテレビも同様であって、こちらは映像を率いているだけにより事態は深刻となる。

今も、トランプ・アメリカ大統領によるイラクのソレイマニ将軍暗殺についての報道や、その直後に起こったイランでの旅客機墜落事故について、それがイランによる攻撃であったのか否か、様々な言葉が飛び交っている。(米国の中東における軍事行動の言葉を、頭から信じるヒトってなんなのだろう。<あの>パウエルでさえ、国連において散々捏造報告(2003年)をしたわけだ。それをトランプの発言を信じる?)

また、日産のゴーン国外逃亡についても、様々な意見が飛び交っている。

つい先日も、ある場所で隣のテーブルに座っていたサラリーマン3人が、ビールを飲みながら政治談義に花を咲かせていたようだが、口を突いて出てくる言葉は、どこかで聞いたような言葉ばかりが並んでいた。

テレビの闇、ラジオの闇、そして活字メディアの闇。すべてのマスコミの闇はここにある。

私たちは、こうしたメディアを通して様々な事柄を知る。遠く離れた、見たこともない国や地域のことを知り、逢ったこともない人々の行動や言葉を知ることもできる。人間の活動域が有限であれば、それを拡張するメディアの力は、素晴らしい恩恵だろう。

しかし、私たちはこうした情報に触れる際に、非常に大切な前提を忘れてしまう。

それは、それらを事実として、頭から信じてはならない。という、実は当たり前のことだ。

ヒトが触れる情報は「事実」と「嘘」の二元論ではない。その前に膨大な「保留」があるはずだ。ヒトはこれを忘れてしまう。数学(小学校における算数や、高校程度の数学)ですら公理を前提とした「保留すべき事実」の中での(限定的な)「事実」でしかない。・・・しかし、現実には有用な事実である。

インターネットの世界では有名な匿名掲示板である「2ちゃんねる」の創設者とされている「ひろゆき」が「嘘は嘘であると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」と言ったそうだが、そもそも彼自身「嘘は嘘であると見抜け」なかったために、自身の座を追われたのだろう。数多の詐欺被害というのは、その大部分が「自分だけは、嘘は嘘であると見抜ける」と思った末の末路であって、彼らが特段の愚か者であったわけではない。ヒトは本質的に「嘘を嘘であると見抜け」ない。

重要なのは、自分が「嘘」と断定したものを「嘘と見抜いた」と信じてしまうのではなく、「保留すべき嘘」と「保留すべき事実」を置くこと。そして(生きるためには)時としてこの「保留すべき事柄」に全体重をかける「必要」があると知ることである。

こうした前提にたてば偏頗な排斥主義にも陥らないし、短絡的な狂信からも自らを律することができる。難しく言うなら、こうした「保留」を成立させることが「知性」であろう。好きな作家である杉浦日向子の描く江戸前でいうなら「よしやがれ、しゃれにならねぇ」ということだ。この「しゃれ」が判らない、「やぼ」が多いから、こちらも敢えて「やぼ」を承知でグダグダと駄文を書かねばならないのだ。


・テレビで映し出される映像は本当に「真実」なのだろうか。そしてそれを「真実」として(慌てて)確信する必要があるのだろうか?
・よく知りもしないヒトを「許さない」と排除する言葉には、どのような根拠があるのだろうか。
・果たして私たちは、トランプの言葉を信じる事ができるのだろうか、逆に、それを嘘と断じる根拠がどこにあるのだろうか。
・果たして名古屋市が行っている減税政策は、市内に1000億円の経済効果をもたらしたのだろうか。
・一国の首相が国費で「桜を見る会」を開いて、そこに地元後援会の人々を大挙招き、飲食を饗応する行為を容認する社会は正常なのだろうか。
・果たして「昭和天皇の肖像を焼いた」という作品は存在するのだろうか。
名古屋市民の内、どの程度の比率で名古屋城を木造化したいと願っているのだろうか。
・ゴーンは単なるコストカッターで、私的には会社の公費を流用もしていた、挙句の果てにそうした企業を他国に売り飛ばそうとしていたのか。また、かといって彼に対する司法の対応は正しかったのか。
・本当に名古屋農林総合庁舎は移動するのか(笑)。

実は、私たちは色々なことを「知らない」のではないのだろうか。しかし「知らない」事を忘れてしまい、「知っている」と勘違いしてしまう。

最近の脳研究で、人間は様々な事柄を聞いて、それについて好悪、善悪、真偽の判断をするのではなく、脳は予め判断を下しており、後に得られた情報は、その判断を元に「受け入れる/拒否する」という手順を踏んでいるという報告がある。*1テレビの出演者がなぜ身なりを整えるのか。ラジオの出演者にとって声のトーンがどのような意味を持つのか。つまり、画面の「絵面」が受け入れがたい場合、そこで語られた言葉をヒトは受け入れ難い。

実は、各メディアは事実を構築しない。事実を再構築するのではなく、すでにある事実(思い込み)を強化補強するに過ぎないのではないのか。「千の丘自由ラジオ」は人々の恐怖を言語化し、その漠然とした意志を具体化したに過ぎないのではないか。

「テレビの闇」というのは、テレビの中ではなく、それを見る者の中にあるのではないか。


*1:演芸における、いわゆる「あるあるネタ」も、こうした「受け入れる」情報と、観客の自己肯定(立川談志は「業の肯定」と呼んだ)が弛緩を生み、笑いを誘う