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一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

原理/プリンシプル

げん‐り【原理】
1 事物・事象が依拠する根本法則。基本法則。「てこの原理」「民主主義の原理」
2 哲学で、他のものを規定するが、それ自身は他に依存しない根本的、根源的なもの。

原理とは - Weblio辞書

あいちトリエンナーレにおける「表現の不自由展」についての問題や。その後の知事リコールに関連する問題。また、河村たかし名古屋市長に係る名古屋市政の問題など、政治的議論を行う上で、人それぞれに言葉や、その言葉の意味する事柄、概念が異なっているようで議論の困難を感じる。

例えば「右翼」という言葉にしても、「自分は右翼ではない、単なる国を愛する普通の日本人だ」という言明がある。「愛国心」については肯定し、「右翼」という言葉には否定的に捉え、自分を「右翼」から離そうとする言明だろう。かと思えば、自身を右翼と自認する人もいる。「右翼」という言葉に対して肯定的に捉える人もいれば、「国という権威にしがみついて、自我を肥大化させているだけではないか」と否定的に捉える人もいる。

またそもそもここで語られている「国」という言葉、概念にしても、それが「国家行政機構」を指すのか、生まれた郷土や、それにまつわるコミュニティーまでを含むものなのか、はたまた地域的な民族概念まで含んだ、いわゆる「日本人」「日本民族」を仮置した上での「民族の領地」を指すものなのか、議論によって曖昧に扱われている。

特に、よく言われることだが、誰しも郷土に対しては、愛着を持つ。当然の事だ。こうした郷土に対する愛着を「国家」に対する忠誠と混同させて、「国家行政機構」や、社会の上部層 --つまり、権力を持つ一部支配者-- の統治原理として回収するという在り方もあって、第二次世界大戦における日本社会に満ちた「戦争協力」という世論の形成には、この混同が大きな役割を果たしたようだ。孫氏に習うまでもなく、争とは最後の手段であり、郷土を守るためには、これを回避すべき知性が必要であっただろうに、「郷土に対する愛情」というエモーショナルな世論形成(感情的、情動的な判断)が、冷静な議論を押し流し、性急な結論、開戦を選ばせてしまったと言えなくもない。

興味深いのは、こうした国家と郷土という議論が行われた頃(昭和だね)、所謂「戦争大作映画」と言われる作品が日本国内で作られた。「二百三髙地」や「大日本帝国」といったところが東映の戦争大作となるのだろうが、こうした映画で必ず使われるのが「日本の美しい四季」のカットバックだ。

春の桜、夏祭りの様子。田植えや小川のせせらぎ、秋の夕暮れ、すすきの川原、一面の雪景色。日本に生まれたものであれば、誰しも美しいと感じ愛着を持つだろう風景が連続で提示され、「戦いで死んでいった人たちは、こうした風景、郷土に対する愛情に身を捧げたのだ」というような文脈が構築される。私も映画を見ている時には、製作者のそうした意図にのって物語を堪能はするが、ここで突き動かされる感情と、政治的判断とは仕分けされなければならない。政治的判断、特に戦争に対するそれがエモーショナルに行われた場合、歴史的に良い結果を生み出す例は少ない。

この議論についてはここで留めておくが、「国」「国家」という、議論の基本になるだろう言葉、概念においてすら、こういった多義性(いろいろな意味のとり方)がある。ましてや「民族」やら「国体」などという概念に至っては百人が百通りの理解をしていそうで、議論が混乱するのも無理はない。

そこでここでは、一度。誰もがうなずけるような「原理」を置いて、「あいちトリエンナーレ・表現の不自由展」に対する考え方を再点検してみようと思う。もちろん、途中でうなずけない部分が出てきたり、この「原理」自体に異論がある方もいると思う。そうした異論も下の投稿欄からご意見をいただければありがたい。ここからは、特にむつかしい言葉は使わない。

「社会」つまり、あなたも含めた様々な人々が生活し、生きていく場所を成り立たせている「原理」とはなんだろう。

人とひとが生きていく基本的な規則、きまりというのは。

「何をしても自由」ということだろうと思う。

ひとが一人で生きているのなら、間違いなく「何をしても自由」だろう。ただ一人離れ小島ででも生きていこうとするなら、そこで何をしようと、裸で過ごそうと、一日中寝ていようと構わない。テレビ番組で放映されるような狩猟生活を行うことも可能だろう。

しかし、日本の沿岸に近い離れ小島など、大抵は地権者が居り、そうした近海には地域の漁協が漁業権を持っている。テレビ番組などでは、そうした権利関係をクリアした上で、自由な空間を演出し収録されているのだろうことは想像に難くない。

ひとが一人で生きていくというのは、難しく、上で言う基本的な原理である「何をしても自由」という言葉も、「他人に迷惑をかけない範囲で、何をしても自由」と条件をつけなければならない。

社会を成り立たせている基本的な規則、「原理」というのは、実は至極当たり前な決まりであって、当たり前で理解しやすいからこそ、誰もが守れる、誰もが尊重できる規則、きまりであって、それは「他人に迷惑をかけない範囲で、何をしても自由」であると思われる。

しかし人の生活には、人間と人間の間だけの問題では収まりきらない事柄がある。例えば、転んで怪我をする、病に倒れる。そうした不幸が人を襲う。けれども、そうした出来事も「自己責任」であるとして、各個人の引き受けるべき不幸であって、他の者は預かり知らないという立場も取れる。また、周りの者達で支え合い、怪我や病気が癒えるまで周囲の者が助けるという手法も考えられる。

怪我や突然の病気というものは、「不条理な不幸」で確率によって、誰に降りかかるかわからないし、誰しもが襲われる可能性がある。こうした「不条理な不幸」を多数の人々の協力ではねのけようというのが、「文明」であって、「文明社会」「文明国家」というものは、こうした不意に降りかかる「不条理な不幸」に対して、人々が相互協力で対抗していこうという社会であり、国家と言える。


更に「他人に迷惑をかけない範囲で、何をしても自由」という原理についても、もう少し検討する必要がある。例えば、住宅環境が昔の農村のような姿、飛騨の白川郷に見られるような群落とか、映画「七人の侍」で描かれたような農耕村落であれば、家の中でどれほど騒いだところで「他人に迷惑をかけない」ところが現代のような隣接密集する住環境であれば、騒ぎようでは迷惑となる。それでも午後11時、夜中までならば、「受忍限度内」として法的に認められ、それ以降なら「他人に迷惑をかけない範囲の自由」ではなくなる。(例:「第一種低層住宅専用地域」では午前8時から午後6時までの時間帯における基準は50db、午後11時から午前6時までの時間帯における基準は40dbだそうだ)

つまり、単純明快な「他人に迷惑をかけない範囲で、何をしても自由」という原理について、その一面である「騒音」という事象について、誰しもが公平、公正に理解し、守れるように、適応される地域の範囲、時間、音の基準が具体的、客観的に決められており、こうした事柄を決めるのが政治であり法律とわかる。社会における明白で単純な原理のその一部を守るためにも、政治や法律が必要となってくる。


ここから寄り道

上で言う騒音の基準を決める法律は、「他人に迷惑をかけない範囲で、何をしても自由」だけど、ではどこまでが「他人に迷惑をかけない範囲」なのか決めましょうという考え方から決められたことに変わりがないけれど、「他人に迷惑をかけない~」という原理が、この言葉のまま意識されることはない。こうした法律の基盤は「憲法」に求められる。ここでいう原理の代わりとなった憲法の条文は第十一条になる。

第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

ここでいう「基本的人権」は(1)自由に生きる権利(2)平等の権利(3)人間らしく生きる権利、その他に、参政権、請求権などが認められている。読み替えると。

「国民は、すべての自由に生きる権利を妨げられない」となる。

さらに続く第十二条で

第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

という条件が付けられている。この2つの条文を簡単に読み解けば「他人に迷惑をかけない範囲で、何をしても自由」というここでいう原理そのものになる。

ここまで寄り道


さて、「他人に迷惑をかけない範囲で、何をしても自由」なのが、現代の社会における原理であって、あなたも他人に迷惑をかけないのであれば、何をしても自由であるし、他人が自由だからとあなたに迷惑をかけてきたのであれば、その侵害行為に苦情を言うこともできる。お互いが自由であることを尊重するために、お互いを尊重しましょう。というこの原理は、単純明快であり、誰しもが納得し、守り、守れる決まりであるとご理解いただけるだろう。

こうした「自由」というものの中でも「心の自由」「精神の自由」というものがある。その昔、ヨーロッパの国々はキリスト教を信仰する人々が多く、国によってはキリスト教を守ることを国是、国の目的とまで掲げていたような地域もあった。そして東にはキリスト教とは異なるイスラム教を信仰する人々や国が存在し、その対立から幾度も戦争が行われた。いわゆる「十字軍の遠征」である。それだけではなく、キリスト教を信仰するヨーロッパの各国の間でも、カソリックプロテスタントという考え方の相違から対立が生まれ、壮絶な戦争が起きた。いわゆる「三十年戦争」と呼ばれる争乱である。(もちろん、十字軍にしても三十年戦争にしても、こうした思想対立だけから戦争が起きたわけではないが、その争乱を下支えする背景に宗教対立、思想対立があったことは間違いがない)

この「三十年戦争」の結果、ヨーロッパの人々は、「他人の精神、心を束縛しようとするのは無理」と気づく。やがてこうした考え方は、「三十年戦争」の講和条約である「ウェストファリア条約」に反映される。

ここにおいてヨーロッパの人々は、相互主義(自分が嫌なことは、他人も嫌で、自分に押し付けられたくないことは、他人にも押し付けるべきではないという考え方)に気が付き、自分の精神の自由を求めるのであれば、他者に対してもその自由を認めなければならない。という原理に行き着く。つまり「他人に迷惑をかけない範囲で、何をしても自由」を思想や心の問題として変形して。

「あなたの考え方(信仰)は、私には酷く歪んで醜悪に見える。しかし、私はあなたがその考え方(信仰)を続けることに、とやかく口出しはしない。それと同じように、あなたから見れば私の考え方(信仰)が醜く、歪んで見えようが、あなたに迷惑をかけないのであれば、口出しせず私の自由にさせてくれ」

私にはこの考え方は至極当たり前に見える。

例えば、最近多い(というか、すでに廃れだしたともいえる)「ヘイトスピーチ」について、そのカウンター(ヘイトスピーチを行う団体に対する対抗行動)を行う人の中には、「ヘイトスピーチ、差別主義は許されない、そうした行動を繰り返す人々を一同に集めて、教育を行う必要がある」というような考え方を持つ人もいる。しかし私はそうした考えには賛同できない。差別主義やら民族主義というものを持ってしまったのは、その人の選択であり、差別主義やヘイトスピーチ、自民族の優位思想に傾倒しているとするなら、そうした思想の行き場の無さに気が付かない思考停止に陥っているだけであって、ちゃんと視野を広げ、学習を続けていけば、そうした差別意識や優位思想の原因や理由も理解できるだろう。しかし、それを乗り越えるように押し付けても、当人が理解できる段階に至っていないのであれば、却って頑なに差別意識や優位思想に固執するだけだ。

差別というのは、差別される者に問題があるのではない。差別する側の人格の狭量の問題であって、個々人が自身で克服していかなければどうしようもない問題だ。更に、それを外部から抑圧すれば、差別意識や優位思想はいびつに歪んで肥大化しかねない。

人間は本来狭量なものであって、美醜、好悪の感情は必ず生まれる。私だってコンビニのレジ係がきれいな女性と、そうでない人の二択なら、きれいな女性に当たれば「当たり」と思ってしまうだろう。この程度の好悪は許容されるかも知れないが、これが企業における採用面接であれば、当事者の社会的存在にまで関わってくる問題であり、美醜の判断は許容されないかもしれない。こうした場面で私が思うことは、私には差別意識がないとか、私には公平公正な感覚がある。という思い込みではなく、常に自分の判断を疑う「開かれた姿勢」が必要だろうということだ。自分の中の歪んだ差別意識や、誤った優位思想に敏感に修正を加え、少しでも公平公正な意識に向かうこと、そうした努力が、社会をまっすぐに見ることにつながる。

今、自分が見ている社会の姿は、本当にあるがままの社会の姿か、自分の見方が歪んでいる結果か、それは分からない。なんとか死ぬまでにはこうした自身の歪みが修正され、「あ、こういうことだったのか」と理解できる時が来ればいいと思っている。

差別意識にしても、それが心のなかで留まっているのであれば仕方がない。

しかし、そうした差別意識を昼日中、街頭で、まさに差別を受ける人々に向かってぶつけるような行為は許されるようなものではない。差別意識を持つひとが、自宅の中でテレビを見ながらブツクサいうぐらいなら問題はない。どこかひとが来ないような場所でデモや街頭宣伝をするのも問題はないだろう。しかし、わざわざ差別を受ける人々の前で、それも事実があやふやな揶揄を投げつける行為は「他人に迷惑をかけない範囲で、何をしても自由」という原理に反する。


この社会の原理は「他人に迷惑をかけない範囲で、何をしても自由」であって、自分の自由を守るのであれば、他者の自由をも守る必要がある。他者の心を束縛しようとしても無駄なことであり、心の持ち方、思想や精神についてあれこれと強要しようとしても無駄だ。

さて。あるひとたちが閉鎖され空間で、あなたが容認できないような表現行為を行った場合、あなたはそれを許容すべきだろうか、介入し、口をはさみ、それを停止させるべきだろうか。

もちろん、あいちトリエンナーレにおける「表現の不自由展」を想定しての問いかけになっている。

「表現の不自由展は、公費によって行われているから駄目だ」という意見があるようだが、それはすでに事実ではない。「表現の不自由展」の開催経費は寄付によって賄われている。それ以上にあいちトリエンナーレ自体、河村たかしネトウヨの皆さんのおかげで、宣伝効果があったらしく収支は黒字で、愛知県や名古屋市に利益までもたらしている。

よしんば、公費によるものだったとしよう。しかし、公費で賄われている県や市の図書館において様々な意見、表現行為というものは為されているのであって、今回「表現の不自由展」における表現以上に扇情的な表現行為ですらある。もっというと、「表現の不自由展」における表現行為に対する、作者の方々の主張とは異なり、一部の人々が曲解している。「天皇陛下を侮辱するものだ」とか「特攻隊で命を散らした人々を蔑むものだ」というような表現。(くどいようですが、作者の方々はそのような意図をもって表現されていませんし、そう主張される方々が解釈する表現行為の要素には事実誤認が多数含まれており、これはデマゴーグによる政治的扇動と言うべき事象です)であったとしよう。そうした政治的意図を持った扇動表現であったとしても、図書館にはそれ以上の扇動表現が公費で備えられている。

あなたが、そうした書籍に触れない限り、あなたには迷惑はかからないし、あなたの目に触れない限り、そうした書籍、表現行為はあなたに迷惑はかけない。同様に、「表現の不自由展」では、入場料を支払わなければ観覧できないし、入場までに数々の注意書きが据えられていた。また、会場では画像や動画の撮影を断っており、こうした表現行為を見るためには。

1.入場料を支払い
2.会場に出向き
3.注意書きに同意

した上でしか触れられなかった。

各表現行為、コンテンツについては、それらを勝手に切り取り、満足な注書き等もせずにユーチューブなどの一般的なインターネットコンテンツに並べたものや、それを地上波で放映したもの、さらにそうした画像をカラーチラシに印刷して個別配布したものなどの為に、本来目に触れなくても良い人々にまで届いたものであって、「表現の不自由展」の企画者や、その展示に様々な制限を設けた愛知県と、そうした表現の一部を切り取ってカラーチラシに仕立てて配布したものとでは、受け取る受容者への心遣いという文脈では、どちらが良識があるのだろうか。

例えば、日本人であるにも関わらず、日本社会が嫌いで、日本政府の転覆を日夜願っている、反日の活動家が居るとする。天皇制についても反対で、昭和天皇に対して戦争犯罪人だの何だのと揶揄を続けており、特攻隊は犬死だ。今の日本人は米国の犬だと騒ぐ左翼どもがいたとする。そうした偏った人々が、閉鎖された空間で、そうした人々が喜ぶ、表現行為を受容していたとして、それに高圧的に表現の停止や展示の中止を求める行為って、バカバカしくはないだろうか。

https://img.huffingtonpost.com/asset/5d9c18ea21000025043358e7.jpeg?cache=Yi825PEPMI&ops=scalefit_630_noupscale


もう一度原理に立ち戻ってみよう。

この社会の原理は「他人に迷惑をかけない範囲で、何をしても自由」であって、自分の自由を守るのであれば、他者の自由をも守る必要がある。他者の心を束縛しようとしても無駄なことであり、心の持ち方、思想や精神についてあれこれと強要しようとしても無駄だ。

「他人の精神、心を束縛しようとするのは無理」と理解できないとすれば、あまりに稚すぎる。

ここでもう少しこの問題を敷衍して、「旭日旗」の問題を考えてみたい。「旭日旗」というものは、不幸な意匠で、朝日新聞社は自社の社章に旭日を含めているし、海上自衛隊は私の理解では創立以来、旭日旗を使用している。(これには、日の丸よりも視認しやすいという実務的な効果もあったとも聞く)また知る人ぞ知る「ライドネス」というバンドは、旭日旗のイメージを使っていた。

https://lh3.googleusercontent.com/proxy/z_WatBDKQm9Hr_vHZbLctnJyrlXR8cSxABSI8bB2BN89RU-0i7E0B_e3bVDp_lZFGQj2YFCOj8bMorvkttWoWwJ-wLWCvcNnPCAcXx4mEs9Pkh2wPR-DfwrHRCwMydry

https://nikkan-spa.jp/wp-content/uploads/2018/05/28loudness-550x549.jpg

さらに、ハリウッド映画などでも当たり前に使われていた意匠だろうと私個人は思うのだが、なんだか日本と韓国の間で、主にサッカーの応援、観戦に絡んでだろうか、旭日旗を掲げることに一定の意味が生まれてしまい、ヘイトスピーチを繰り返す人々が喜んで使うようになってしまった。*1

https://pbs.twimg.com/media/EV01jaxUEAAzJTR.jpg

こうなるともういけない。もはや現在では「旭日旗」には一定の政治的メッセージが含まれるようになってしまう。

意匠には元々政治的メッセージや意図など無い、文脈がそうした政治的メッセージを刷り込み、意味をもたせてしまう。

支那」という言葉もそうだ。歴史的経緯から言えば、今でも普通に使われている China と 支那 は発音のブレ程度の違いしかなかったんだろう。しかし、1930年に正式に当時の中華民国から外交的に「今後日本側カ重ネテ斯ノ如キ無礼ノ字句ヲ使用スルトキハ我方ハ之ヲ返附スルト共ニ厳シク詰責シ以テ国家ヲ辱シメサルコトヲ期スヘシ」と主張され、それを受けて中国の呼称を常則として「中華民国」と閣議決定し、それ以降「支那」という言葉は使われていない。これも「支那」という言葉自体に揶揄する意味などない。それを使うものが揶揄を含んで使用していたがために揶揄する言葉とされてしまったに過ぎない。

「他人に迷惑をかけない範囲で、何をしても自由」という原理があるとすれば、相手が嫌と言っている事柄、「旭日旗を掲げる」「支那という言葉を使う」を敢えて行おうとするのは、なぜなのだろうか。

差別というのは、差別される者に問題があるのではない。差別する側の人格の狭量の問題であって、個々人が自身で克服していかなければどうしようもない問題だ。



追記:
この一文が、「肚に座る」という方は、こちらもぜひ合わせてお読みください。
ichi-nagoyajin.hatenablog.com

特に「従軍慰安婦は、朝日新聞の捏造」などと、いわゆる「吉田証言」を捉えて語る方。部分をもって全体を否定する歴史修正主義の誤りについて、説明しています。


*1:今回、この旭日旗のイメージを集めてみて気がついたが、旭日旗ナチスの鉤十字とは意味が異なるという主張をし、旭日旗のイメージを肯定的に捉えようとする意見があったが、旭日旗を鉤十字と同等のものとしてイメージづけしていたのは、このようにネトウヨの人士である