市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

歪んだ社会の風景を届けているのは誰だ


先日「マスコミ各社に警告する」という文章を書いた。
現在ではテレビを見れば、ニュースとワイドショーの境が曖昧になっている。
ニュースにおけるファクトチェックは、その素材を売るプロの作業としては生命線だろう。刹那的な視聴率(購買数)は、耳目を引くセンセーショナルで理解しやすい単純な構図が好まれるのだろう。が、しかし、そればかりを求めてメディアの信憑性が失われれば、結果として生命を失う。

マスコミの誤解は、市民の誤解に繋がる。市民の誤解はすなわち、歪んだ民意を生み出す。

EU離脱を決定したイギリスでは、その住民投票の結果を受けて再議論が起きた。トランプ大統領誕生の裏で「嘘ニュースサイト」の存在が注目された。

こうした時代であるからこそ、「事実に基づいた議論や思考、社会の運用が重要だと説得し続けること。加えてウソを暴き続ける。そうした愚直な作業が、ポスト真実の時代には大切」(名古屋大学 日比准教授の発言 平成28年12月17日 中日新聞)である。

私は平時では普通の生活をしている。出来る限り政治的発言や議論もしないように心がけている。そうした中で、名古屋市民の誤解に出会う。マスコミにおける事実の提示が足りないのではないかと思われる事柄だろう、それを幾つかを挙げてみる。


「議会は(名古屋市会は)突然、議員報酬を上げた」のか。

このテーマに行く前に次のような誤解もある「議員報酬の議論は、名古屋の市政にとって重要な課題である」

名古屋の市政とは、名古屋市民の生活を支える行政事業の在り方の議論ではないのか?

そもそも議員報酬の在り方が、市民の生活にどう影響するというのだろうか?

議員報酬というのはせいぜい20億円程度のものではないだろうか。(報酬半減で6億円の歳費が浮いたと言われているので、その伝で言えば、16億円程度ということだろう)

河村市長の言うように、名古屋市会の議員を全て無料のボランティアにしてしまっても、それで浮かせられる議員報酬はせいぜい20億円程度ということになる。(議会事務局などはボランティア議員ばかりでも必要だろう)つまり、職業議員を全て否定したところで、捻出できる費用はたかだか20億円ぐらいということになる。では、そのボランティア議員でどの程度の活動ができるのだろうか。単なる市当局の追認機関に成り下がるのは目に見えている。健全な議会を維持することこそ、名古屋市民の生活に資するであろうことは議論するまでもない。(そのために、一定比率の「どうしようもない議員」が居ることは容認せざるを得ない。なんとなれば市民生活のほうが優先度が高いからだ。集団というものは、常に一定程度の「歩留まり」を求めるものだ)

つまりともあれ、議員報酬の議論というものは、最大で20億円程度のインパクトしか持たない。

では、名古屋市政全体のボリュームはどの程度か。ざっと、2兆円と言われている。そして、これは名古屋港管理とか名古屋競馬などの外部の経営体を加えてはいないボリュームだ。

2兆円の中での20億円の問題が重要課題だろうか。

たった0.1%の問題が。



さて、議員報酬は本来議員自身が議論するようなものではない。自分たちの報酬を自分たちで議論しろといって、客観的な議論になるわけはない。その為の第三者機関を議会は求めていた。しかし、河村市長はそうした要請に諮問をし予算を付けなかった。

 名古屋市:市会だより第150号 2月定例会特集号(市会情報)

そもそも、名古屋市会の議員報酬は条例で明確に定められている。

この条例も民主的な手続きに沿って定められたものだ。これに異なる事をすれば、それは違法行為ということになる。(この条例は昭和31年に定められている。60年間に渡って疑われることなく使われてきた条例だ(額の減額はある)これを疑うということは、今までの人々を疑うということであり、この60年間の常識を疑うことだ。しかし、それは疑う方に常識がないからのではないのだろうか?)

今、民主的に、合法的に定められた事柄を(そして、60年に渡る常識を)曲げようとする場合、そこには相当の理由が必要だろう。特に、どのようなものであれ、なにかの報酬を半減にするような場合は、相当の理由が必要なはずだ。(普通のサラリーマンであれば、給与を半減することは違法行為となる場合がある。懲罰として半減するにしても、相当の理由がなければ司法の場で認められないこともあるだろう)

果たして名古屋市会の議員報酬半減について、相当の理由というものがあったのだろうか?

河村市長は議員報酬半減を強く要望しているが、その理由についてはほとんど何も語っていないに等しい。「市民並み給与」と言われても意味がわからない。市内の平均的就労者の給与(報酬)と同程度にすることと、名古屋市会の議員の報酬とはバランスが取れているのだろうか。よしんば、それによって名古屋市内の平均的な市民が議会を構成することになったとしても、それは上で述べたボランティア議員のように、市当局の追認機関以上になるとは思えない。また、河村市長は「議員報酬が半減化されたから、名古屋市民がこぞって市会議員になろうとするでしょう」とも語っていた。先の市会議員選挙は河村市長の言うような報酬になって初めて行われた選挙であったが、市民がこぞって立候補したということもない。もっとも、報酬が下げられたような職種に、希望者が殺到するというような倒錯した主張を信じられるわけがないが。


さて、ともあれ、では議員報酬は突然引き上げられたのだろうか。

名古屋市会は議員報酬を含めた議会の在り方を議論する場として「議会改革推進会議」(平成24年1月設置 浅井康正座長(減税日本ゴヤ))と「議会改革推進協議会」(平成27年5月設置 中川貴元座長(自民党))という会議体を構成している。

 名古屋市:議会改革推進会議について(市会情報)
 名古屋市:議会改革推進協議会(平成27年度設置)(市会情報)

 特に、減税日本ゴヤによって仕切られた会議は尻切れになっている。これは当時の減税日本ゴヤの委員が突然、会議の公開を求め始め、それに対して座長である浅井氏が反論するという混乱の中で、結局再開がなされなかったものである。議論したくなかったのは減税日本ゴヤの市議だったのではないだろうか。

条例に定められ、勿論民主的な手続きで定められており。社会的常識に照らしても異常とは思えない。そのような報酬を半減する。(常識的な報酬を半減するというのは、非常識な行為だろう)それに対して市民が(または、市民の一部が)賛意を表明している。こうした倒錯した議論の中でリコールが行われて成立した。それを受けて、名古屋市会の市議は言われるように報酬を半減化してみた。

しかし、河村市長の言うような効果は得られなかった(候補者が増えたという事実もない)また、約束であった第三者委員会も設置されない。予算化されない。

議会における議員報酬半減を求める議員は議論を逃げている。報酬半減の理由について説明はない。

このような状況であれば、それ以上報酬を半減化し続けて、議員としての活動を低下させておく必要があるだろうか?(ここは特に、共産党名古屋市議団の議員にお伺いしたいところだ)


確かに、以上のような事情を知らない市民が大部分だ。上記の会議体の活動など、それを伝えたメディアも殆どなかった。マスコミが伝えなければ市民は知らない。知らないから無かったかのように思ってしまう。しかし、見ようとすればこうやってHPに情報はあり、「市会だより」にも記事は掲載されている。市民が見なかっただけだ。市民が見なかったからといって、存在しないわけではない。

議会が議論もせずに、唐突に議員報酬を「上げた」ように思えてしまう。
しかし事実は、議論を積み重ね、報酬半減を求めた者の方が、説得力のある理由を提示できなかったことから、議員報酬を適正に戻しただけだ。

こうした事実を踏まえても、まだ「名古屋市会は議員報酬を<突然引き上げた>」というメディアがあるのであれば、その報道は事実を元にしたといえるだろうか。

社会を歪める行為である。


「行政はスリム化すべきである」か。

まず、現在の日本は十分にスリムな行政を実現している。(まあ、なんとも生真面目な国民性でしょうね)世界的に比較しても小さく、公務員も少ない行政機構になっている。

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いったいこれ以上に何も求めるのだろうか?

国や地方の財政状況が赤字であるから?

国や地方自治体は個人の家計や私企業とは異なる。利益を上げることを目的とした組織ではないし、地方自治体の赤字は職員のせいでもない。職員が生産性を上げたところで赤字は解消などしない。(義務的社会扶助費の支出は職員が処理能力を上げれば上昇するだろう。つまり、地方自治体では職員が一生懸命働けば赤字幅は増えることが予想される。理由は後述)

国や地方公共団体の赤字というのは、その国のお金(流動性)がどこ(公的セクタか、私的セクタか)にあるのかという事を表しているに過ぎない。そして、それは一夜にして消すことすらできる。

信じない人がいるようなので、思い出していただきましょう。その昔「電話加入権」というものがあった。当初は電話線を架設するための設置代金と引き換えに、電話設置の権利を渡すという性格のものであり、質権設定が合法化されると借入金の担保や抵当として利用され、加入権を持つ者にとっては資産となっていた。しかし、電電公社が民営化し、この権利は「施設設置負担金」と呼ばれるようになり、そして一夜にして消えた。

その昔、当時衆議院議員二期目の河村代議士と、私はこの件で議論したことがある。議論というよりも、電電公社の民営化で、電話債券はどうなるのかは誰しも興味を持っていた話題だった。永田町での観測の一旦でも聞けるかと、当時名古屋市内の(愛知1区)各区で「議会報告会」を開いていた河村代議士に質問をぶつけてみたものだ。

その時の回答も覚えている「これは難しい問題だ。下手なことは言えない。今はまだ何も言えない」と、思わせぶりな発言をしていた。しかし、実のところは、何も言えないのは、何も理解していなかったからではないかと今では疑っている。まったく、無駄な時間だったわけだ。


まあ、それはさておき。

最近、某地方自治体で、窓口職員が「生活保護舐めるな」というような文字の入ったジャンパーを作り、着用したという事例が世間を騒がせた。これを期にまた「生活保護バッシング」がまき起こっている。

もう、生活保護に対するこの社会の厳しさは異常だ。
ちょうど、「アイヒマン実験」を題材にした映画が2月に公開される。




「”本当の悪は平凡な人間が行う”ハンナ・アーレントの衝撃の提言は科学でも実証される」

日本には生真面目で凡庸な人間が多すぎる。


まず、生活保護の不正受給というものがどの程度のものか 日本弁護士連合会の資料がある。



生活保護Q&A 日本弁護士連合会


それによると、不正受給は件数で 1.8% 金額では 0.38% だ。
つまり十分レアなケースと見ても良いのではないのだろうか。確かに窓口は大変だろう。けれども、小説や映画で描かれるような粗暴な場面なら警察が対応する問題だろうし、窓口の職員が高いストレスを感じるとすれば、それはこうした不正受給者という違法者の存在の為とは思えない。

いわゆる「水際作戦」という言葉があった。不正受給を見抜き、生活保護費を(国民の税金を)一円も無駄にしないというような考え方だったのだろう。

その傾向はやがて、生活保護申請のちょっとした手続きの瑕疵を捉えて、保護の必要な者への受給をも阻害し、生活保護を必要とする者に対しても窓口を敷居の高いものにしていくこととなったようだ。

つまり、「国や地方自治体の財政状況が悪化している」という勘違いから「税金を一円も無駄にしてはいけない」という生真面目な方針が設定され、「水際作戦」という倒錯した考えが生まれたのだろう。これは窓口の職員にとっては強いストレスとなる。なにせ、自身の業務自体を否定する行為なのだから。(生活保護受給受付窓口は、生活保護を必要とする者が、その手続をするためにあるのであって、それを潰す場ではない)

結果として、日本では生活保護の利用率、捕捉率が世界的に見ても低い水準となった。


生活保護の不正受給は卑劣な行為である。それが他の、本当に生活保護を必要とする対象者を困らせ、受給を阻害するのだとしたらこんなに卑劣な行為はない。

ジャンパーを作った人たちの言うように、そんなヒト(生活保護を不正に受取り、本来社会が扶助すべきヒトを阻害する行為)は「カス」であり「悪」だろう。

しかし、それなら、窓口業務を厳しくし、申請を必要以上に困難にし、結果として利用率、捕捉率を下げる行為は、同様に「カス」であり「悪」ではないのか。

もう一度いう。地方自治体における生活保護申請の窓口業務の本来の目的は、そういった不遇な人々に社会的な扶助を講じて、生活を成り立たせるためにあるはずだ。

この窓口に座るものは、国や地方自治体の赤字など考慮する必要はない。
法に定められた条件を満たせば申請を受ければ良いのだ。(そして、それが虚偽、不正なものであったのなら摘発すればいい)

データを見れば日本における生活保護の利用率はたったの1.6%、捕捉率が15.3〜18%である。

100%の補足は無理にしても、他国、一番低いイギリスの最低値と比較しても、29〜31.7%は「取りこぼしている」ことになる。本当に生活保護が必要な人々に、その救いの手が届いていないのだ。

しかし、今の日本でこんな主張をすると「変わり者」に思われるのだろう。

「日本人は生活保護に頼らないんだ」とか「捕捉率が低いことによって税金が使われなくて良かったじゃないか」といったような声を本当に自分の耳が捉える。

まったく、他人(ヒト)の痛みがわからない/わかろうとしない「アイヒマン」だらけだ。「凡庸な悪」だらけではないか。



いわゆる「消えた年金」や郵政民営化財政投融資)の問題から、小泉・竹中的な、行政を家計や企業であるかのように捉える「誤った」経済学(?)が大手を振っている。

確かにこれらの問題は行政を疑わせるに十分だった。

しかし、行政が国民の為になっていないのであれば、その行政を潰したり、公務員の給与や報酬を減らせば良いのだろうか?

話は全く逆で、行政が国民の為になるように、方向性を変えていくのが本来あるべき姿であって、為すべき対策なのではないのか?


謂れもなく給与を下げたり、賞与を減額すれば職員はモチベーションを下げる。
こんなものは民間企業だろうと公務員だろうと代わりはない。

職員給与を下げたり、職員を非正規雇用で賄ったりすれば、行政サービスの質は下がりこそすれ上がることなどない。

こうして、より国民は行政に不信感を持ち、公務員バッシングに走り、バッシングを受けた公務員は更にモチベーションを下げ、国民は行政に不信感を持つ。(で、先頭に戻る)

そうして、行政職員は無条件に歳出を削減しようとする。

生活保護申請窓口の職員は、それを受けることが本来の仕事である。(上で言った「地方自治体では職員が一生懸命働けば赤字幅は増えることが予想される」といったのはこういったことだ。他にも、例えば上下水道管の異常を偶然に見つけても、責任がなければ漏出事故でも起きるまで放置しておいても大丈夫だろう。などと修繕を引き伸ばすかもしれない)

本来、行政職員に国や地方自治体の赤字の責任などない。

法に定めた基準を満たしているヒト全てに生活保護を届けて、社会扶助費が膨れ上がり財政が赤字になるのであれば、それは必要な歳出を賄うだけの歳入が施されていないという制度設計の瑕疵だ。逆に、そのような瑕疵が現にある中で、受け取るべき申請を受け取らず、歳出と歳入のバランスを取ろうとする行為は、弥縫策であって、過ちを過ちで打ち消すような行為だ。

こんな歪んだ姿はないだろう。

なぜ、国民はこんなにも歪んだ社会の見方をしてしまうようになったのだろうか。そのような歪んだ社会の風景を届けているのは一体誰なのだろう。