市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

属性を愛すること

この世の中は、この世の中の誰か特定の一人のものではない。

王も君主も、すべての支配者など現代社会では存在しない。

この社会は納税者のお陰で成立しているわけでもない。

納税者が社会を支え、年金生活者や生活保護受給者は、社会に寄生しているだけ、フリーライダーである。などという考え方は全く間違っている。

納税者は、社会が定めた法律に従って税を収めているのであって、それをなさなければ法に定められた罰が下されるだけだ。納税者はこの社会を支えるために納税を行っているのではなく、この罰によって被る不利益を回避するために税を支払っているのである。(これを「義務」という)

年金生活者や生活保護受給者がこの「義務」を課されていないのは法に定められているからであって、何もこれらの人々が恣意的に回避しているわけではない。

税の負担を誰に求めるのかは、法が定めるのであり、もとよりこの制度設計を行うことが行政であり、立法の権能である。

税の負担と社会のあり方、社会の存在理由などはまったく関係はない。
社会のあり方の一部が税の負担のあり方でしかないのだ。
(税の負担のあり方で、社会のあり方が定められる。というようないびつな社会を想像してみればいい!)

本質的にこの世は、この世にある全ての人々のために在るのであって、全ての人々は、歳をとって働けなくなろうと、体を壊して、または何らかの事情があって生活保護を受ける立場になろうとも、全ての人々のために在るこの世に存在しうる。

全ての人々のためにこの社会は在るのである。

社会から、特定の誰かを排除する考え方は、常に間違っている。

それゆえ社会に従事する公務員は、一人の王のために存在するのではない。
また、納税者に雇われているわけでもない。

「すべて公務員は全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」

この日本国憲法十五条の条文は、優れてこの社会の在りかたを、我々に高らかに語りかけてくる。

社会から、特定の誰かを排除する考え方は、常に間違っている。
全ての人々のためにこの社会は在るのである。

国民を納税者と非納税者に分別し、「納税者の為の政治」などと主張するものは、公職者、公務員たる資格はない!

このような主張に賛同する者は、およそ民主主義のなんたるかを心得ていない。
そして、民主主義国家を破壊する醜く歪んだ考え方である。

人は誰しも体を壊しうる。歳とともに老いるのは自然の摂理だ。
働けなくなったとき、他者の助けが必要となったとき、社会がその者を排除するとしたら、ヒトはそのような社会に安心して存在し続けることができるだろうか。

できはしない。

年金生活者に、生活保護受給者にもっと厳しくしろ、と、声を荒げる者は、自身がその立場になるであろう可能性に思いが至らない、視野狭窄でしかない。

つまり、バカなのだ。

今働いている納税者。

健康な体を持ち、高い能力に恵まれ、努力を怠らない。それによって高い収入と社会的地位を与えられ、広く社会に貢献できる。これは素晴らしいことだ。

しかし、それらはその人個人の成果だろうか。

何より親や育ててくれた人々の影響は無視できまい。
そしてその能力を発揮できる、今のこの社会も重要な要素だろう。

今、ヨーロッパを流浪するシリア難民の中にも、高い教育を受けながら仕事を失った人々がいる。彼らは国際社会の影響で自らの能力を発揮する場所を奪われているのだ。

白熱教室で有名になったマイケル・サンデルは、こうした個人と社会との関係を米国NBAのバスケット選手を例にして語っている。日本で言えば、ACミランで活躍している本田圭佑ドルトムント香川真司などは推定年収が7億5000万円だそうだ(2015年の推定値)
彼らの能力や努力を疑うものではない、しかし、その昔、Jリーグ以前、日本サッカー史上最高のストライカ釜本邦茂の収入はどの程度だったのだろう。たぶん、本田や香川の1/10に満たないだろう。では、釜本の能力や努力が、本田や香川と比較して1/10だったのだろうか。

本田や香川の成功は、勿論、彼らの能力や努力は必要条件であるにせよ、Jリーグという存在を起点とした、日本国内における、サッカーをめぐる環境の変化が要因として大きな割合を占めていることは疑いをいれない。

一人の人間や、一つの企業の上げる収益は、その人間や企業の能力や努力だけに依るものではない。不条理な運の結果や、社会的な環境の偶然によって、つまりその時々の社会との関係の中で築き上げられていくものだ。

自身や自社の得た収益が全て、自らの働きかけの結果であると誤認し、その収益は自分のものであると考える者は、視野狭窄に陥っている。そして自身は成功者であり、収益を挙げられないものを無能者や怠惰なものと決めつけるとすれば、現実が見えていない。

つまり、思い上がったバカでしかない。

けれども、少なくない企業経営者がこうしたバカな考えを持っており、そうした偏頗な考え方を堂々と披瀝したりもしている。これははしなくも、企業経営成功の偶然性を証明してもいる。つまり、バカでも儲かるときには儲かるのであり、企業も回っていくのだ。



ジョン・ロールズは「無知のベール」という概念を提示している。

すべての人が自らの立場、能力、背景を知らず、社会のルールを定めれば立場や背景を元にした利己的な主張は引っ込み、誰もが誰にとっても損の最も少ないルールを選ぶ。

すべての人が被害を最小にするようにする。公平で公正な「正義の選択」がなされる様になるという考え方だ。

自然の運の結果や、社会的環境の偶然という不条理を乗り越える一つの原理だろう。

人間には様々な属性が備わっている。
健康、知的能力、美醜、門地、性質や考え方、習慣。
それらは大きく偶然の産物だ。そして当人には修正不能の事柄も多い。
(門地、民族、人種など、当人では変えられないような属性をあげつらい、批判する事を「ヘイトスピーチ」という。そしてこれらを殊更言挙げする者を「差別主義者」という)


こうした偶然の結果、他者に負担を求めなければ生きていけない者もいる。
身体の深刻な障害や、精神や知的な条件によって、自立し得ない人がいるのもまた、自然の不条理であり偶然の結果だ。その責任は親にもなければ当人にもない。(そこに何か因果関係が在るかのように解くオカルト、腐った宗教は立ち腐れればいい。釈尊もキリストも、そのような事は説いてはいない!)


自分が今あるのに理由などない。自分は、今いる自分以外には何者にもなれないのであって、それをアレコレと考え悩むことは無駄なことである。変えられないことは受け入れる以外にない。

他者に対しても、また自身に対しても、こうした属性に振り回されることは悲しいことであり、貧しいことである。


男が女に恋をする。その女の美貌に引き寄せられる。それは自由にすればいい。しかしそれはおよそ愛ではない。美貌は歳とともに衰えていく、そしてその衰えとともに、その想いも萎んで行くのだとしたら、その想いはその程度のものだったのだ。

女が男に恋をする。その男の力強さや生活力に惹かれていく。しかしそれもやはりそれだけでは愛とは言い難い。金の切れ目が縁の切れ目。男の出目が外れていけば、やがて関係は壊れる。女は情熱を失い男から離れていく。しかし、気がつけば自らの美貌もまた、衰えてしまっていることに気がつき、行き場を失う。

ヒトの価値は機能や属性ではない。
いや、ヒトだけではない。親密の情を持つ故郷などに対しても、その故郷の属性で、親密の情が動くのだとすれば、そんなものはまやかしでしかない。

そもそも生まれ故郷や国に「プライド」を求めるなどという性根が卑しい。

日本人であることにプライドを持つのは自由だろうが、その人物にその他に、プライドたる何物もないとすれば、そのような人物に品格を認めることができるだろうか。そのような者は日本を傷つける者なのではないのだろうか。

プライドとは個々人がそれぞれ自分に対して持てば良いのであって、他者にひけらかすものでも比較するものでもない。

自身の外の事物にプライドを求める者は、自分自身の中にプライドとなるべき何物も積み上げてこなかった怠け者である。

私は「名古屋」と言われても正直今ひとつピンとこない。
しかし、自身の生まれた街には間違いなく愛着がある。

今ではこの街はすっかり様変わりしてしまって、どこにでも在るような小奇麗な街になってしまった。しかし、私には職安からアブレた男たちがワンカップを片手に所在なくふらつく街に愛着を感じずには居られなかった。それはその街の属性がなせる業などではない。一時はそのような街を嫌い、出て行った時もあった。しかし今になってみればその街を懐かしく想い出す。そして、今となってはそうした猥雑さが一掃され、属性があらかた取り払われてしまったにも関わらず、同様の親密さを感じる。

ヒトがヒトや故郷、そしてありとあらやる事共に親密さや愛着を感じる時、それはその属性に対して惹かれるのではない。その対象に向かって、自分自身の全てを投げだし、全てを当てた結果なのだ。

以前、科学と宗教の相違という話を書いた。

無条件に信じられること、信じることを起点とするのが宗教である。

これは例えば、吉本隆明などの言っていた「跳躍」や禅の教えにある「竿頭一歩」ともつながっている考え方であるように思う。

親密さや愛着に条件など要らないし、それは自身の中で(あるいは「プライド」と名付けても良い)なにがしかをしっかりと積み上げた人格が、何かの対象に向かって自身を投げ出す行為なのである。


もうしばらくすると「メッセージ」という映画がやってくる。(原題は「Arrival」)原作はテッド・チャンの短編小説「あなたの人生の物語」だ。

非常に難解なSF作品だ。

作品は間違いなくSFだが、その語ろうとしている射程は「時間」であり「人が生きるとは」ということに尽きる。

ここでも「この瞬間を抱きしめる事」の重要性が語られる。

それは属性ではない。どのような結果になろうとも「この瞬間を抱きしめる事」が重要なのだ。(ああ、こうやって書いていて泣きそうになる)

実は、このテーマを書いては消し書いては消ししてしまった。
それは昨年の末。12月29日に名古屋市緑区で不幸な事故(事件)が起きてしまったからだ。

伝えられるところでは、39歳の奥さんが11歳と8歳の子どもを殺し、自身も自殺したとされている。つまり、無理心中だ。この奥さんは子どもの病気を悲観していたとも伝えられる。(真相は知らないし、詮索する気もない)詮索する気はないが、もし、子どもの病気を悲観しての無理心中だとすれば、そこに相模原障害者施設殺傷事件や、それを取り巻く現代の日本の社会の劣化、つまり、ヒトに対してあまりに機能を求める風潮、ヒトの価値を属性に求める誤った考え方を感じずにはいられない。

そうした「価値の無い者」を排除しようとする、生き辛く、重苦しいこの日本社会の劣化を思わずにはいられないのだ。


確かに、日本の社会はこの先人口は減少する。

しかし、だからといって社会まで縮小することはない。経済は人口の増減とは関係なく拡大可能であり、人間の歴史はこの拡大の歴史である。

そして、確実に前進しうる社会において、今の政府財政など赤字で丁度いいのだ。

政府財政がバランスしなければならない通りなどないし、政府財政バランスなど単に社会のどこに流動性が(金が)在るかと言うだけの話であり、バランスを取ろうとすれば、なんなら一夜にしてそれはできるのだ。(国債に10割の課税をしてもいいし、財政がバランスできるだけ資産に課税してもいい)

行政や地方自治体の赤字を個人が気に病む必要はない。行政の「無駄を省く」などということは、間違いなく誰かへの手助けを切り捨てることであり、社会をより狭く生きづらくするだけである。(こうした考え方は、6万マルクのために「遺伝病患者」を排除しようとしたナチス・ドイツの優生思想と地続きの思想であると理解しなければならない!)

この世は生まれてきた者すべてのために在る。
すべての者が生きていくことに心を配ることが、経世済民といい、その手法を知恵の限り考え抜くことが経済学である。

そして、政治に志すものは誰をも排除せず、共生の社会を模索すべきだ。

そして、人々の間に溝を作るのではなく、出来上がった溝を越えられる者だけが、真の政治家と言うに相応しい。


2016-08-06 植松聖容疑者がすぐ隣にいる可能性

2016-08-07 植松聖を生み出したもの