市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

豊洲の空洞とアジア大会の200億円


 東京の豊洲が大騒ぎになっている。

 小池知事の手柄という声もあるが、そもそも暴き出したのは都議会共産党だったのではないのだろうか?
 あの「空洞」が言われるほど問題があるのか、少々疑問に感じる。
 確かに、いまも舛添氏が知事で、共産党が空洞を暴いた場合、都の当局からマスコミにレクが入り、騒ぎは沈静化されていた可能性もある。紙面に書きもしない新聞社も有りそうだ。

 石原慎太郎都知事の関与も話題になっている。石原氏は<また>良く判らない事に鼻を突っ込んだのだろう。考えてみれば石原慎太郎という人物は、低い見識と半可通な知識をひけらかす事が多い。都立大学改革も銀行に対する外形標準課税も、その後の新銀行東京の設置も。どれもこれも確たる哲学や信念もなく「改革」を行ってみて、莫大な損失を生み出している。

(私は、石原慎太郎という人物の作文能力も疑っているのですけどね
 http://web.archive.org/web/20060114070045/http://www.chiran1945.jp/ )

 
 それはともかく。

 あの「空洞」が言われるほど問題があるのか、少々疑問に感じている。
 ただ、あの「空洞」と同じようなものは、霞が関や各地方自治体にもありそうな気はしている。

 そもそも東京都が「盛り土」をせずに「空洞」を作ったことで、工費をケチったとして、そのお金が東京都の役人様の懐に入ったわけではないだろう。都の役人やら、都議会のドンと呼ばれるような人たちが、一般に言われるような「公共事業による利益の配分」に預かれるのだとしたら(有ったとしたなら)工事費用は莫大に膨れ上がった方が良いだろう。「盛り土」を「空洞」にした経緯は不明だが、工費か工期を圧縮させるために、方針変更したのではないだろうか。問題は、その方針変更に担保をかけずにいたって事だろう。仄聞するに技術委員会とかいうところで方針変更をレクるなり、それが間に合わなかったのであれば、検討会議ぐらい再構成できなかったのだろうか?
 その辺りは、長い石原都政で都当局者もボケていた(横着になっていた?)ということなんだろうか。

 なんにせよ、首長が3期12年も居続けると、良い事は起きないという事か。


 豊洲移転問題は、土壌問題で、その土壌に関してはそんなヤバい物質を土にばらまいていた事業者がどこまでも責任を持つべきだろう。なぜ、そんな当たり前の話が出ずに、土壌改良の責任者が都であるということになっているのか、不思議でならない。

 土地取得の際、そのような責任を都が引き受けるということにしたのであれば、その事業者に対してはとんでもないほどの利益供与を行っているということだろうか。

 そして、その事業者がマスコミの大スポンサーであれば、そこは誰も追求しないという事なのだろうか。

 また、豊洲移転というのは同時に築地の跡地利用という話題でもある。

 東京都の一等地、築地に巨大な穴が開くわけで、この開発が1月でも遅れれば、そこにかかる金利負担だけでも膨大なものになる。

 遅延に伴う損失を生み出した者は、荒川にでも浮かんで、APを1mm程度上げることになるのかもしれない。(ブラックだなぁ、久しぶりのわりに)

 なんにせよ、豊洲の地下の「空洞」を生み出し、それが生まれた経緯も今更説明しにくいような構図にしてしまったのは、工費か工期の圧縮圧力ではなかったのだろうか。

 日本の社会では、公共事業、公的セクタの事業に対するこうした圧力は当たり前のようにあり、霞が関や各地方自治体においても人に言えない「空洞」を数々生み出しているのではと思えてならない。


 日本社会は2つの勘違いに束縛されている。

 一つは、「人口が減少すれば経済も縮小する」という思い込みだ。

 そして、実際に、日本の社会が人口減少に向かうにあたって、経済が縮小するという恐怖から、「公的セクタの債務は国民が負担しなければならない」という思い込みが暴力的な結果を生み出している。


 以前ご紹介したMMT(モダン・マネタリー・セオリー)によれば、国や地方、公的セクタを賄っているのは「税金」ではない。公的セクタのオーナーは納税者などではない。

(あえて言えば、すべての国民が公的セクタのオーナーである。であるから、公務員は全体の奉仕者と言えるのだ。全体の内の誰が納税義務を負うかは、税制の問題でしかない。また、国や地方という公的セクタは、納税者の「おかげ」で存続している訳ではない。逆に言えば、納税者の為に、公的セクタがその負担を軽減するというような考え方は誤っている。その酷薄な例は以前に掲げた、ナチスが行った障碍者に対する排除であり、先日起きた相模原の事件ではないか)

 国の通貨は課税によって価値を生む。そして、国はその社会における富の偏在を課税によって調整すれば良いのだ。課税とはこの通貨の価値を生むためと、社会全体のバランスを整える為にあるのである。(こうした視点から見ると、河村流減税論がいかに幼稚でセコく。社会を歪めてしまうかが良く判る)


 国の財政を家計に例えるのは誤りであり、財政均衡論も誤りだ。

 国家財政政策は、財政そのものを均衡させるためにあるのではない、国民の生活を成立させるために先ず、あるべきである。

 昨日の中日新聞社説に「人口減にたじろぐ前に」との一文が載った。この社説に吉川洋氏の「人口と日本経済」という書籍が引用されている。残念ながら社説では論点を地方分権にひん曲げて結論があらぬ方を向いているが、吉川氏の主張は至極単純で明快だ。

 人口が減ったからといって、経済も縮小することはない。こうした「人口減少ペシミズム(悲観論)」こそが思い込みでしかない。

 ここに引用した表は同書の74ページに掲載されている表だが、1913年の人口と実質GDPを100として、1870年から1990年までの変動を比較したものだ。

 人口はあまり変わっていないのに、実質GDPが大きく伸びているのが判る。

 池田内閣の所得倍増の頃から、GDPは急激な拡大を見せている。

 吉川氏は経済を拡大させるものは人口ではなく、イノベーションだと訴える。イノベーションが一人当たりのGDPを拡大させ、全体の経済を拡大させる。

 私は現代はイノベーションが停滞している時だと思っている。
 しかし、すぐ間近に巨大なイノベーションの波が来るのを感じる。

 一つはバイオテクノロジーの拡大による一次産業の変革だ。
 もう一つはティシューエンジニアリングなどによる医療や薬業の変革だ。

 この両者とも、高度に知識集約的で付加価値の高い産業となるだろう。
 そして何より、今まで人間には許されなかったような欲望を満足させ、有史以来存在しなかったような市場が発生するだろう。つまり、まったく新しいニーズとウォンツを生み出すこともできるのだ。

 こうしたイノベーションがもたらされれば、どんなに人口が減ろうと気にすることは無い。また、こうしたイノベーションが人口自体を増やしていくだろう。(人口は増やさなくても、労働人口/消費人口を圧倒的に増やすかもしれない。そうした産業でもある)

 この図は同書の63ページに掲載されたものと同様の図表だ。
 ( 平成26年度予算案 ~ ここ四半世紀では社会保障関係費と国債費の伸びが顕著 - 霞が関政策総研Blog by 石川和男(社会保障経済研究所代表) )

 昭和35年と、平成26年の国家予算の規模感の差が良く判る。

 国家財政と同規模の赤字を抱える、または借金をしようと言えば、大騒ぎになるだろう。しかし、昭和35年に、国家予算と同規模の借金を抱えたとしても、それは1.7兆円でしかない。平成26年になってみれば、1.7兆円など、1.8%のインパクトしか持たない。
 平成28年の今、100兆円程度の赤字を抱えようと、借金を生み出そうとも、健全な経済成長さえ実現できれば、50年後には、この100兆円など同様の芥子粒になる可能性もある。


 人口減少にたじろいで、行政に鬆を生じさせ、説明不能の「空洞」を生む必要はない。

 なんでもこの度、アジア大会に対して、名古屋市は200億円という予算上限を求めたそうだ。
 今度はこの200億円という数字、マジック・ナンバーに振り回されてしまう事になる。

 もしも、アジア大会の開催が名古屋に本当に必要であるのなら、このようなキャップは必要ないだろう。逆に、そのようなキャップが掛けられる根拠を立証できるのだろうか?

 この制限値にしても、論理や哲学があって設けられたものでもないだろう。結局、市長と知事のお互いの鞘当てにしか見えない。

 必要であるのなら、堂々とお金をかければよいのだろうし、必要が無いのであれば止めればいいのだ。中途半端な200億円という数字に捉われて、「空洞」を残してはならない。

 しかし気になることが一つ2つある。この決定のプロセスに、市民の民意は計られているのだろうか?

追記:気になることは1つではなく、2つだった。
もう一つ気になることはあるけれど、あえて今は書かない。