市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

政治家たる条件

ヒューマニティとはなんだろうか。
何が「人間性」を示すのだろうか。

何が異なるときに、あるものは人間性を持っており、
あるものは人間性を持っていないとみなせるのだろうか。


デリカシー、同情心。または、他人の心を知ろうとする心。
こういったものが人間と獣を分ける証なのではないだろうか。

人間はどこまでいっても他人の痛みを本当に知ることはできない。
しかし、他人が痛がっているのを見れば、その痛みを我が事のように感じることはできる。

こうした心の動きはおよそ人間にしか認められていないように思う。

群れを構成して生きている人間、群れの中には社会がある。
そしてその社会を成立させ、調整する原理。
それこそがデリカシーであるとか同情心と呼ばれるものなのではないだろうか。

そして、この同情心やデリカシーこそが、政治の生まれる要因なのではないだろうか。

シリア難民やその原因となったISIS、さらにテロ。
中東エリアを一気に軟弱にした中東情勢。

ここには経済拡大に突き進む中国やインドといった巨大人口国の存在があり、
そうした各国の間で行われている資源の争奪戦、石油の争奪戦という一因がある。

そして、国際社会において石油の争奪戦が激しくなった背景には、
もちろん、日本における東電の原発事故が深い影を落としている。

(発電のための燃料としての石油はあまり重みを持っていない。発電(加熱)という直接的な利用に石油はあまりに高価で有用すぎる)

世界的にエネルギー源としての原発のポジションが揺らぐ中、
化石燃料の重要性がより一層重みを増し、そのポテンシャルがISISを生み出したという側面もある。

その淵源が日本にあり、東電にあるとしても、大部分の日本人はそのような自覚はないし、当然反省もしない。

それどころかシリア難民に対する日本社会の反応には吐き気を催す。

東京の住民が自分たちの電力を福島に依存しておいて、
東電の原発事故が起きれば「フクシマを繰り返さない」とくる。
福島になんの落ち度があるのだろうか。

繰り返すべきではないのは東電の在り方であり、東京の住民の無責任さではないのだろうか?
福島は一方的な被害者なのではないか。

この東京の住民に対する無責任さを追求する言説のあまりに少ない事。

人間は他人の痛みが分からない。

足を踏んでいるものは、踏まれている者の痛みは分からない。
それでも分かろうとする者と、その他人の痛みを理解しようとしないものとの間には、大きな隔たりがあるだろう。

人間性とはこの差をいうのであって、他人の痛みが分からないものは人間性に欠ける。

文明や知性とは、こういった他人の痛みを知るすべを、さまざまに用意することであって、
さまざまな書物、音楽、芸術に触れていても、こうした他人の痛みに対して開かれていない心のままでは、文明的な存在とはいえない。知性的な存在ともいえない。


ジョン・ロールズはこれを「無知のヴェール」と解釈した。

ヒトが、自分の属性、社会的立場に対して、無知であるならば(自己の社会的立場を無知のヴェールで覆い隠すならば)ヒトはすべての人の被害が最小になる選択を行う。これが社会的な正義の姿だ。


たとえば、自分が労働者であるのか資本家であるのか、無知のヴェールによって自己の社会的立場を覆い隠したならば、その人は自分が被るかもしれないひどい労働条件には同意できない。また、自分が資本家であるかもしれないとすれば、あまりにひどい課税も選択しないだろう。


つまり、自分が労働者なのか、資産家なのか、それを知らないまま、社会的な選択を行うという事は、そうした者の身に自分を一旦置いてみるという事である。自分の立場を他者と交換してみるという事である。交換の可能性を考慮すれば、他人の立場を尊重し、お互いがお互いを忖度するデリカシーに開かれ、そうした者はあまりにひどい選択は行わなくなる。それこそが文明的な人間の姿だろう。

(江戸の「粋」というものもこうした感覚に近い。日本にも自然発生的、伝統的に同等の考え方はあったのだろう)


いま、戦火に追われているシリアの難民がいる。自分がこの立場に立ったなら、いったいどうすべきなのだろうか。

しばらく前に日本の奨学金制度に改革を求めた女学生がいた。それに対してSNSの一部からは「学ぶことは義務ではないのだから、借金を負うのが嫌なら、学ばなければいいじゃないか」というような「自己責任論」が投げつけられた。

学ぼうとする若者の学ぶ姿勢を自己責任の内に収めてしまうような社会が発展できるわけが無い。

特に、資源に乏しい日本という国において、国民が高い教育を身に付け
付加価値の高い労働や
まったく新しい価値を創出しなければ、国自体が立ち行かない。


こうした「自己責任論」はまた縮小均衡論でもあり、決定的に間違っている。


また近頃、ある社会労務士が、「社員をうつ病に追い込んで辞めさせる(リストラする)方法」なる一文をネット上に掲載していたことが話題となった。

この社労士は自分がその社員の立場に立ったらという可能性にあまりに無知だ。

そもそも、企業経営の原則は、経営資本の価値を高めることにある。経営資本とはヒト、モノ、カネであり、これらを効率的に、そして高付加価値に高めることが経営者の手腕だ。

しかし、現在のような小泉・竹中改革以降の社会では「ヒト」があまりにも軽んじられている。
社員をどんどん追い詰めていって、搾り取り、それでも耐えられる高耐性の社員だけを残し、零れ落ちるものは切り捨てる。交換要員はいくらでもいる。このような事を広言してはばからない経営者もいる。

高耐性な社員というのは実は人間の一つの属性だ。一つの属性を偏って、先鋭的に選別し、それを集めて組織を作る。こうして出来上がった組織はその構成員に差異がなさすぎる。均一な要素で構成された組織は、環境の変化に対応しにくい。構成要素が対応できない問題が発生した時に、それに耐えられる部分が存在しないからだ。均一な組織は倒れるときには総崩れになる。

現代の日本社会は効率を求めるあまり、そして、短期的な成果を求めるあまり、こういった均一化に向かっているように思える。異体に対する排除の姿勢とは、社会全体を脆弱にするのだ。

中小企業などの場合、元々優位な人材を獲得することができない。獲得できた人員を、どう教育し、モチベーションを高め、企業運営に生かしていくのか。それが経営の醍醐味であって、「社員をうつ病に追い込む」などという考え方は理解できない。そして、こんな人物が社労士であるというこの社会の異常さを感じる。

あまりに貧しい。

というような事を仕事の合間や通勤の地下鉄の中で考えたり、書いたりしておりましたが。

・・・中区の補選についてです。



 減税日本河村たかしは、決定的に バカ ですなぁ。
と思いました。

今回の選挙戦で、河村たかしが訴えたことは
名古屋城木造化」と
「議員報酬」だけのようでした。

街宣車は「河村たかし」と候補者名を掲げ「よろしくお願いします」と訴えまわっているようでしたが。

アホ ですね。

今回の選挙で一番最初に訴えるべきは「候補者名」これはどんな選挙でも変わりません。
しかし、二番目に訴えるべきことは政策でも、政党名でもない。

それは「投票日」です。

もう一歩進めて、「期日前投票に、中区役所にお出かけください」という呼びかけです。

中区は小さな範囲なので、たいていの場所から中区役所、期日前投票所まで歩いて出かけられます。

そして、一週間程度の短期戦。
「よろしくお願いします」などと言っている場合ではなく、容赦なく即座に「一緒に期日前投票に行きましょう」と言わなければ追いつきません。


そもそも河村たかしの声で街宣をかけても、それが一体何であるのか。
それを理解している市民が少ない。

選挙している事自体知らないのです。


私がもし市長であるなら、
「民主主義発祥の地と言われながら、補欠選挙とはいえ投票率が20%を切り、10%代などという事はあってはならん事です」とか何とか言いながら、前例はありませんが、名古屋市16区のすべての選挙管理員会が持っている街宣車を中区に集中させて、中区中を走らせ、補欠選挙の告知でもすることでしょう。

中区役所の前なんぞ、街宣車を一台止めさせて、一日中、期日前投票を呼びかけますな。

市長が投票率を上げようというのだから、誰から文句を言われる筋合いがあるでしょうかね?

つまり、この補欠選挙投票率が全てです。

投票率が上がり、浮動票が投票行動を示せば、減税日本の候補は有利になるでしょう。

しかし、投票率が下がれば、組織票を持っている共産党自民党の候補が有利になります。


また、選挙の読みとして、私が以前書いたように状況が減税日本の候補に有利であるというのは、誰がどう見てもその通りなのでしょう。おかしなことに減税日本の中にこうした「楽勝ムード」があるようなので、それは結構な事です。

さて、この盛り上がらない補欠選挙

投票率が下がると面白い事がもう一つあります。

確かに、どんなに投票率が下がっても、減税日本の候補が勝ちあがってくる可能性はあるでしょう。
しかし、低投票率の中前市議の得票数、3,638票を上回ることができるのでしょうか?

議席を確保できるのか。

確保できたとして、得票数が退潮傾向に無いか。


すでに名古屋市民の中にも「減税日本」や「河村たかし」に対するネガティブな機運は広がっているように思えます。本日も熱田区で「名古屋城木造化タウンミーティング」が開かれるようですが、こんな話題で市民の関心が引けると思える発想が理解できません。

 http://www.city.nagoya.jp/shiminkeizai/page/0000075236.html


まあ、大いにやってください。

他人の痛みや苦しみを見ないまま、自分の興味があるSLやら名古屋城
それに白川公園を潰してサッカー場を作るだの、タワーを立てるだの。


バカ殿よろしく 巨大ハコモノ事業に突き進むなら、それが河村たかしの限界なのであり、名古屋市民の限界なのでしょう。

私から見ると、この選挙は名古屋市民の責任感を測るメルクマールに見えます。



追記:



さてさて、
残念ながらというか、なんというか。

中区の補選は
ほぼ先日書いたような結果になった。

名古屋市民は市民のための市議よりも、「市長を助ける男」を選んだということだ。

無責任なのは選ばれた市長や議員ではない。
無責任なのはそれを選んだ有権者だ。

国民は、自分たちに相応しい政治家しか選べない。
政治家が 滓であるとするなら、国民が滓であるからだ。

もう知ったことではない。