相模原で悲惨な事件が起きた。
私はこうした逸脱が発生すると、被害者や被害者家族の立場より、加害者が何を考えていたのかが気になって仕方がない。そして時には自分自身の中にある加害者と同じ要素や考え方、または加害者と自分自身を隔てている壁の薄さに愕然とする。
ちょうど「葛城事件」という映画が公開されている。
映画『葛城事件』公式サイト (映画のサイトだけあって、動画が再生され、音が鳴る可能性があるのでリンク先に飛ぶ際にはご注意を)
元は演劇のためのフィクションだが、作者で監督の赤堀氏は「附属池田小学校事件」「土浦連続殺傷事件」「秋葉原通り魔事件」「池袋通り魔事件」など6つの実在の無差別殺人事件をモチーフにしたと述べている。
「家族という地獄」という言葉が付けられるだけあって、家族という濃密な人間関係の中で、常に起こりうる破綻を描いているともいえる。
日本でも続発する連続無差別殺人。米国や欧州でも起きているテロ。
こうした背景には自己への肯定感が得られない若者が、自己を投げ捨ててしまうという「自殺の変形としての無差別殺人」という構図があるのかもしれない。(作中でもこうした考え方が示されて作者は一考を求めているように見える)
こうした構造については赤木智弘氏が貴重な論考を述べている。
持つ者は戦争によってそれを失うことにおびえを抱くが、持たざる者は戦争によって何かを得ることを望む。持つ者と持たざる者がハッキリと分かれ、そこに流動性が存在しない格差社会においては、もはや戦争はタブーではない。それどころか、反戦平和というスローガンこそが、我々を一生貧困の中に押しとどめる「持つ者」の傲慢であると受け止められるのである。
「丸山眞男」をひっぱたきたい
若者が逸脱を起こし、社会を変えていくという姿は、一端では肯定されるべきものなのかもしれない(勿論、無差別殺人などの暴力にまで至った逸脱は肯定することなどできない)。また、ドストエフスキーなどもそういった姿を描いているところなどを見ると、「持たざる若者の逸脱」については、単に今日的な課題なのではなく、常に社会に内在する問題なのだろう。
(戦後民主主義は、この若者のモチベーションを上手に解消してきたように思えるが、それにつては論点がずれるのでこの程度で)
しかし、今回の相模原のケースは、これまでの無差別殺傷事件とは少々趣が異なる。
それをやはり赤木氏が次のように指摘している。
彼のことを昔から知る人達はこう話しているようだ。
「明るくて」「おとなしくて」「人に優しくて」「親切」「気に食わない人にはキレやすい」(*3)
記事には「残忍な犯行と繋がらない友人たちの印象」とあるが、僕にはこのいかにも優等生的な印象が、この犯行とぴったり繋がるのである。つまり彼は何事も自分の思い通りにできると思っていたフシがある。
ここ数年、ネットでこうした人をよく見かけるようになった。「◯◯民族を追い出せば日本は良くなる」「◯◯スピーチを禁止すれば日本は良くなる」「あの党がなくなれば日本は良くなる」こんな言説ばかりを主張している人たちがいる。実際、容疑者のものらしきTwitterアカウントには、そうしたうわずった言説でお金を稼ぐ人たちがたくさんフォローされていた。
こうした言説を見ていると、さも自分が行動することによって、日本を良くすることができそうな気分になる。だからそうした人たちは人気がある。彼らを真似して安直な言説に希望を見出す人は少なくないのだ。彼もそうした類の人に見える。
相模原の事件は親切心によって引き起こされた
現代の日本には誤った優生思想がはびこっている。渡部昇一の「神聖なる義務」( 参照 )問題やら。
石原慎太郎の一連の発言だ。
障害者に対して石原慎太郎都知事が言ったと思われること全文 - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)
(この記事は当時の「今」を誠実に追及している事は理解できるが、石原慎太郎を理解する上では「時系列を切り取っている」に過ぎない。
ここに示されたような、環境庁長官時の舌禍事件を踏まえないと、都知事となってからの府中療育センターの発言は正確に理解できないだろう。)
保守や右翼でもない、ウヨクとも言えない。単なる排外主義者、国粋主義者はすぐ短絡的に「優生思想」に飛びつく。何故か、簡単だ、バカだからだ。
この世の中が「弱肉強食である」と誤って理解しているのだ。バカだから。(誤ったことに確信をもって信じ、疑いもしなければそれは「バカ」と表現する以外にない)
今回の事件を契機に次のような優れた論考に出会えた。
<質問>
(略)自然界では弱肉強食という単語通り、弱い者が強い者に捕食される。
でも人間の社会では何故それが行われないのでしょうか?
(略)今日の社会では弱者を税金だのなんだので、生かしてます。
優れた遺伝子が生き残るのが自然の摂理ではないのですか。
今の人間社会は理に適ってないのではないでしょうか。
<ベストアンサーに選ばれた回答 mexicot3さん (2011/6/118:19:42)>
自然界は「弱肉強食」ではありません(略)虎は兎より掛け値なしに強いですが、兎は世界中で繁栄し、虎は絶滅の危機に瀕しています
自然界の掟は、(略)種レベルでは「適者生存」です
この言葉は誤解されて広まってますが、決して「弱肉強食」の意味ではありません「強い者」が残るのではなく、「適した者」が残るんです(「残る」という意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味であることに注意)(略)「生存」が「子孫を残すこと」であり、「適応」の仕方が無数に可能性のあるものである以上、どのように「適応」するかはその生物の生存戦略次第ということになります
人間の生存戦略は、、、、「社会性」
高度に機能的な社会を作り、その互助作用でもって個体を保護する
個別的には長期の生存が不可能な個体(=つまり、質問主さんがおっしゃる"弱者"です)も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化する、、、、という戦略ですどれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の"弱者"を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します人類は文明を発展させることで、前時代では生かすことが出来なかった個体も生かすことができるようになりました
生物の生存戦略としては大成功でしょう(略)
「優秀な遺伝子」ってものは無いんですよ
あるのは「ある特定の環境において、有効であるかもしれない遺伝子」です遺伝子によって発現されるどういう"形質"が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能です
例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれません
だから、可能であるならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となるんです(「生まれつき目が見えないことが、どういう状況で有利になるのか?」という質問をしないでくださいね。それこそ誰にも読めないことなんです。自然とは、無数の可能性の塊であって、全てを計算しきるのは神ならぬ人間には不可能ですから)
アマゾンのジャングルに一人で放置されて生き延びられる現代人はいませんね
ということは、「社会」というものが無い生の自然状態に置かれるなら、人間は全員「弱者」だということですその「弱者」たちが集まって、出来るだけ多くの「弱者」を生かすようにしたのが人間の生存戦略なんです
だから社会科学では、「闘争」も「協働」も人間社会の構成要素だが、どちらがより「人間社会」の本質かといえば「協働」である、と答えるんです
「闘争」がどれほど活発化しようが、最後は「協働」しないと人間は生き延びられないからです
我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンスの生存戦略だということです
弱者を抹殺する。不謹慎な質問ですが、疑問に思ったのでお答え頂けれ... - Yahoo!知恵袋
石原はへぼ文筆家として「ああいった生に意味はあるのか」なんて中二病的な疑問を持つ前に、現代生物学やシステム工学でも覗いてみれば良いんだろう。自分の考えがいかに浅はかで薄っぺらいか判ろうというものだ。
しかし排外主義者はトコトンバカで困った人たちのようだ。
こうした排外主義を社会全体で再考すべき出来事に突き当たって尚、排外主義を補強しようとする。
新しい歴史教科書をつくる会・藤岡信勝さんが相模原殺傷事件でも人種差別デマ「植松聖容疑者は在日」を - NAVER まとめ
藤岡信勝といえば、南京発言問題の際に、河村名古屋市長の発言を支援する為にわざわざ駆けつけた人物だ。
貴重な論考を引用していたりしている間に紙幅が尽きたようだ(この部分を要約しようと試みてこの文章を書き初めてからすでに一週間が経ってしまった)
この社会は「弱肉強食」の競争原理に晒されている訳ではない。(これについては後に補う)
人間は群れをなす生き物として、社会性を生存のための戦略に据えてきた。
ここで重要なのは多様性である。
しかし、こうした多様性を受け入れず、排外的な言説が今の社会でははびこっている。
日本だけではない、ISISを生んだ背景やトランプが米国大統領として受け入れられる背景に同じ「勘違い」が、現代人に社会を歪んで理解させている。
この「勘違い」を克服することが社会を真っ当に理解し、再構築する鍵なのではないかという観測をもつ。
現代人は一体何を勘違いし、それが、なぜ、こういった排外的な社会を作ってしまったのか。
そして、そういった排外性を克服し、人間の社会が多様性を取り戻し、人間らしい社会を再構築するためには何が必要なのか。
次回に続きます。
ヒントは「お金の価値はいつ生まれるのか」
現代人はこれを勘違いしている。