市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

表現の不自由展・その起点

注意喚起

昨日、あいちトリエンナーレの一企画展である、「表現の不自由展・その後」の展示取りやめに抗議する集会に参加させていただいた。
その中で河村たかし名古屋市長への批判は激烈だった。(非常に気分がよかった)
しかし、「少女像」をめぐる政治的議論や、表現の自由を軸とした議論で、彼を批判することは得策とは言えない。
それは、南京事件をめぐる河村市長の「否定発言」問題をトレースしてきた立場として明確に言える。

この「少女像」(「旧日本軍の慰安婦を象徴した少女像」)は、特に先鋭化している日韓関係において極めて明白な政治マターとなっており、肯定派も否定派も相互に「聞く耳」を持っているとは思えない。様々な情報が錯綜しており、この議論にコミットすることは泥沼に足を突っ込むような徒労を感じる。

つまり、「少女像」を政治的に捉えて肯定する立場から、「表現の自由」などを論点として河村市長を批判しても、この「水掛け論」を繰り返すだけで、河村市長を支援する者には「効かない」

しかし、今回のことでもわかるように、そして他の事々でも理解できるように、河村たかし名古屋市長は民主主義を理解していない。(本来であれば市長や市当局の施策を検証、監視すべき市会議員に「市長を助ける男/女」と言わせていること一つをとってみても、民主主義の一つの形態である二元代表制、地方自治の在り方を理解していないことは明白である)

河村たかし名古屋市長にとって、「民意」とは「自分に都合のいいこと」「自分を肯定すること」「自分をほめること」であって、「自分に都合の悪い意見」や「自分を否定する言葉、批判する言葉」は耳に入らない。民意として認めない。その結果、名古屋市政のあちこちにへんてこな歪みが起きている。

すでに10年以上の長きにわたって河村たかし名古屋市長を続けたせいで、名古屋市政における制度的問題はあちこちで深刻な事態を引き越してもいる(ここでは何が深刻であるかは言わない)

ゆえに、私は河村たかし名古屋市長の座から追い落す行動には、その政治的志向の左右を問わず賛同し、協力を惜しまない。*1

しかし、河村たかし名古屋市長の座から追い落すためには、彼と相対して議論することは得策ではない。
彼にとっては、南京事件の問題も、なんら学習もせず、なんら覚悟もない行動であって、自身の人気(票)につながれば、コミットもするが、問題となればさっさと逃げだす「ネタ」に過ぎない。

今回の問題もそうした「ネタ」でしかない。(「たけしのTVタックル」に出演する際の「お題」と等価なんだ)

なので、批判にはとんでもないコストがかかるが、効果は期待できない。

つまり、河村たかし名古屋市長を、名古屋市長の座から追い落すためには、河村たかしに議論を求めても意味が無い。議論の対象は河村たかしではなく、河村たかしを支援する者たちに向けて行うべきだ。

河村たかしを支援する者が、なぜ河村たかしを支援するか。

彼は衆議院議員の頃、「議員特権」である、国会議員宿舎や国会議員年金を批判したから人気を博したのだ。そうした「既得権打破*2の姿勢」が彼の人気を作ってきたのだろう。その彼は自らの国会議員年金について「一円も受け取らない」と明言していた。

しかし現在、70歳を過ぎ、年金受給年齢に至って、国会議員年金を受け取っている。
河村たかしは国会議員年金を受け取っている。

本人は「通帳に預かっているだけ」と言っているが、本当に受け取るつもりがないのであれば、「一括受け取り」を行い、それを寄付するなり、供託することもできるはずだ。こうした手続きと、情報公開が無い状態で「一円も受け取らない」と明言していた前言を翻している。この「事実」を広く広めることが、彼の支援者を離反させ、市長の座を追い落すことにつながる。

表現の不自由展・その起点

ここから先は「河村たかし」の「か」の字も出てこない。
純粋に、表現の自由を論点とした議論である。そういう意味では私の私見を述べるだけで、意味は無いかもしれない。*3

「表現の不自由展・その後」の騒動の中で、「少女像」と共に大きな議論を引き起こしている作品に「昭和天皇の写真を燃やす作品」がある。嶋田美子さんの「焼かれるべき絵」である。

censorship.social

昭和天皇の写真を燃やすとは、不敬だ」という批判があるが、これは文脈を切り取った視野狭窄の批判だ。
(前後の文脈を把握しなければ理解できないようなものは芸術ではない、な~んて幼稚な事は言わないことだ。すべての芸術は前後の文脈を持ち、それを把握しなければ作者の真の意図は理解できない。そうした意図をくみ取らなくても鑑賞に堪えうる作品は確かにあるだろう。それは「作品の鑑賞」であって「作品の理解」ではない)

いわゆる、「ネトウヨ」や一部「左翼人士」にもみられる、昨今の悲しい現実。情報があふれ、それが手に持ったスマホで易々と手に入るにもかかわらず、情報から疎外されている。視野狭窄に至る。または、全くのフェイクに騙される。

心が開かれていなければ、見えども見れず、聞けども聞こえない。

せっかく一度しかない人生なのに、なぜそうした閉塞した状態で居られるのか。残念でもったいないことだ。

嶋田美子さんは、なぜ「昭和天皇のご真影」が「焼かれるべき絵」であると言っているのか。
果たして「誰」が「ご真影」を焼いているのか。

それを理解せずに批判をしているのであれば、その批判は当たらない。


その起点は1986年、富山県立近代美術館において収蔵された大浦信行氏の作品「遠近を抱えて」を巡る騒動である。

昭和天皇の写真を作品に取り込んだ、いわゆる「天皇コラージュ」作品であり、表現の自由と肖像権の侵害。天皇を政治的な存在と見る者と、宗教的存在と見る者との確執もあらわにしている。

私は当時、表現の自由という立場から作品撤去を批判した。その際撤去支持派、天皇崇拝を肯定する民族派の論者から「自分が宗教的に崇拝し、尊重するものを、こうした形で利用されることには心を痛めるし、それを強要するのであれば許しがたい」という反論を受けた。後の「シャルリー・エプド事件」にも通ずる、表現の自由と宗教的確信の確執であり、今の私は「他者が宗教的に尊重するものを、おろそかに扱うには一定の配慮が必要である」という立場で居る。なので、例えば映画に「R指定」があるように「ここから先の展示には、昭和天皇の姿を批評的に扱った作品があります」などの事前警告を行ったうえで、閉鎖された空間で掲示されるのであれば「宗教的確信」を持つ者に対する配慮としては成立するのではないかと思う。

例えば「マホメッド」に対して、戯画的に表現する場合にも、こうした配慮は必要であろうし、こうしたコラージュや戯画を鑑賞して「喜んでいる者」に対して、「宗教的確信者」から見ると、「まつろわぬ、愚かな者」と看做されても仕方がない。というように思っている。

面白いのは上座仏教の教えでは、こうした「宗教的確信」に捉われること自体が否定されていることだ。西洋のユダヤ教を起源とする、キリスト教イスラムと、東洋の仏教(但し、南伝)の相違がここにあり、明治期に確立された「神道」の在り方が、西洋の文明を色濃く反映している傍証ともいえる。「神道」における「神棚」自体には本来「空」しかないのだが、各家庭は「ご真影」を掲げた。この「ご真影」をも含めて「神道」が確立されたとすれば、という事になるのだろう。

大浦信行氏の作品を巡る議論は、美術館から県議会に及び、様々な批判や「おどし」「脅迫」を呼び込み、展示を取りやめ、作品は第三者へと売却される。そしてその際、美術館が大浦氏の作品を紹介した図版は「焼却処分」された。作品を、その図版を「焼却処分」にするというのは何とも「焚書坑儒」を連想させる。こうした顛末を受けて、嶋田美子さんは「焼かれるべき絵」を生み出す。

「ご真影」を焼いているのは誰だろうか。

その後、こうした処分について訴訟が提起され、その判決も出ている。

法学館憲法研究所「天皇コラージュ事件」



まるで今の「あいちトリエンナーレ」を巡る騒動は、これをなぞっているように見えるし、この判決で示された司法判断は大村愛知県知事を支持するだろう。*4

つまり、この問題は昭和天皇ご自身が「人間宣言*5をされたからと言って、国民の中には宗教的確信を維持する人々がいて、こうした宗教的確信を他律的に解除させることはできないし、するべきことでもない。

また森元総理の「神の国発言」に示されるように、そうした宗教的確信を政治的に利用する人々もいるという事が、一つの表現行為によってあらわになったという事で、今日において、また、こういった問題が繰り返されているという事は、それ以降この議論は何ら前進を見ていないという事でもある。

今回は、この大浦信行さんの作品と嶋田美子さんの作品が並べて(というか、対面で)展示されていたのだが、その展示会場は固く閉ざされている。

censorship.social

追記:
headlines.yahoo.co.jp

追記:
www.youtube.com

少女像

この「少女像」の展示を受けて「心が押しつぶされそうになる」と感じた人がいるそうだ。

相当の人々がこの「少女像」を毛嫌いしている。

実は、私は以前ソウルを訪れた際に、日本総領事館日本大使館前を訪ね、そこに設置された「少女像」を見た。
見事に日本総領事館の真正面に設置され、周囲を厳重に警察が見回り、私たちはその像に近づくこともできなかった。

真正面に設置する事にも、ソウル市の警察の対応にも憤りを感じはしたが、ただそれだけだった。

この「少女像」を見て嫌悪を感ずる人。「心を押しつぶされる」と感ずる人は、いったい何を感じているのだろうか。戦争において(いや、戦争だけではない。戦争とは政治の一つの表現方法でしかないのだから、戦争において、とは政治においてと言い換えることも可能だ。「公権力」を持つとは、それほどの「力」なのだ)

戦争において、力もない女性が翻弄され、虐げられる事はほとんど常態となっている。

常に弱者が虐げられるのが戦争であり、政治である。公権力の行使である。

それだけに、その行使には十分な議論と、準備、そして手続きとチェックが必要だ。

けれども、こうしたチェックが緩くなるのも戦争における常態であって、残念ながら日本は先の大戦において周辺諸国に多大な被害をもたらした。それは事実だ。

それを一つの作品として示された時に、ヒトは謙虚に被害者たちの声に耳を傾けるべきではないのだろうか。

ピカソゲルニカを前にして、ドイツ人は、あるいは「心を押しつぶされる」かもしれないが、その情動は戦争の悲惨を思い起こしたからで、そうした情動から、戦争の重大性を再認識できる。

アウシュビッツの遺構と展示は、やはりドイツ人の心を揺り動かすだろう。しかし、それは同時に、すべての人間に、人間の醜さと、排外主義の悲惨を思い起こさせる。こうした展示に触れて、被害者の立場に立つことと同時に、加害者の立場に立つことも大切だ。映画「サウルの息子」はゾンダーコマンダーという、被害者であると同時に加害者でもある、悪魔でも目を背けたくなるだろう存在を描いている。そしてそれらの作品は、現代の「ドイツ人」を糾弾しているわけではない。「ナチス・ドイツ」という、「ホロコースト」という、ヒトの生み出した地獄が、なぜ生まれなければならなかったのかを問い、二度とそのような存在が生まれないように、すべての人類に訴えかけているのだろう。

片渕須直監督のアニメ作品「この世界の片隅に」が地上波でも放映されたそうだ。*6

この作品の中で「リンさん」という登場人物がいる。
貧しさから遊郭に売られ、春をひさぐ暮らしをしている。

私には「従軍慰安婦」の議論は判らない。当初それは「旧日本軍の関与が有ったか否か」が論点であって、「従軍慰安婦」の存在自体は誰も否定しなかった。できなかった。

亡くなった漫画家の水木しげる氏は作品の中で自身が経験した「従軍慰安婦」を描いている。

私は「少女像」の存在は、政治的議論、または国際司法論争とは関係がないと思っている。そうした議論は政治なり司法の場で戦われれば良いことだろう。(そして、現にいる被害女性の存在や、そこへのアジア女性基金の問題等々、それこそ泥沼の議論には申し訳ないが足を踏み入れることができない)

この「少女像」の訴えかけるものは、戦争(または政治)の中で虐げられる弱者の存在ではないのだろうか。

この世界の片隅に」で描かれる「リンさん」と同様、そうした姿は日本国内にも、世界的にも、そしていつの世にもあった事だろう。(今も、アジアから日本に流れ着く「外国人労働者」ともつながる問題なのではないのか)

そして、「少女像」とは、その横に静かに座って、その少女像にどのような声をかけるか、どのように思うか。まで含めての作品だ。そして、少女像と横に座った観客を、床に描かれた老婆が見つめる。

ソウルの日本総領事館日本大使館前では、ソウル市の警察が、過剰警備の為にその機会を失わせていた。
そして、日本国内において、今また、そうした機会が奪われたわけだ。

昨日の展示取りやめに抗議する集会において、参加者が「少女像」にかける言葉をカードに書くというパフォーマンスが行われた。当初、「あいちトリエンナーレ」参加アーティストが自身の作品として展示を企画したが、それは叶わなかったようだ。私もそのカードに次のような言葉を書いてみた。

この世界の片隅に」で描かれる「リンさん」や「肉体の門」で描かれた占領下の日本女性。ベトナム戦争時の横須賀や沖縄の女性たち、はたまた「ヨコハマメリー」そうした様々な場面でスポイルされた女性たちを思って書いてみた文章だ。

「吹き渡る風や
ぬけるような青空
こぼれるような星空
あなたの時間にも
こうした小さな幸せは
あったのでしょうか。

こうした小さな幸せが
一つでも多くある事を
祈っています」


トリエンナーレ抗議行動の呼びかけ

aitoritekkyohantai.blogspot.com
あいトリ署名 Petition Campaign



追記(8月7日):
上で「すでに10年以上の長きにわたって河村たかし名古屋市長を続けたせいで、名古屋市政における制度的問題はあちこちで深刻な事態を引き越してもいる」と述べた。
それはウソや大げさな表現ではない。

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相生山道路問題

相生山道路の早期再開を求める地元住民が抗議行動を開始した。
この道路工事の中止などでも、地元住民の意向を無視する非民主的な河村市政の圧政を感じるし、そこでの議論のなさは呆れ返るほどだ。

本当に、その昔「民主主義発祥の地ナゴヤ」などと、よく恥ずかしげもなく言えたものだと思う。

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民主主義発祥の地ナゴヤ

相生山については、一度以下の記事を読んでみていただきたい。
問題は自然保護と開発の対立ではない、河村の捉える狭隘な「民主主義」と、本当の民主主義の相違という問題だ。

ichi-nagoyajin.hatenablog.com


そして、この問題は今後、名古屋市民に驚くべき「請求書」を突きつけるだろう。
「500億円(以上)」果たして、こんなものに500億円もの公費をつぎ込む価値があるのだろうか。コレについては情報が整理でき次第お伝えするつもりだ。


北区にある「北生涯学習センター」で「名古屋城有形文化財登録を求める会」の月例勉強会を開きます。

8月12日(月・振休) 13:30~15:30 第1集会室
9月11日(水) 18:30~20:30 第3集会室

※どなたでもご参加いただけます、参加費無料。

www.suisin.city.nagoya.jp


平成30年9月21日(金曜日)午後3時に名古屋市監査委員に対し、「名古屋城天守閣整備事業」について、その基本設計業務において違法性が疑われる事から、当該違法行為の是正と、本件事業の停止を求める住民監査を請求いたしました。

住民監査の結果は、「合議に至らず」という名古屋市政でも初の結果となりました。
結果として主張の適否が得られませんでしたので、現在訴訟となっています。

peraichi.com

次回、第三回公判は8月22日(木)午後2時より
名古屋地方裁判所 第1102法廷 です。

正式な被告よりの答弁書が提出されます。
名古屋市側の主張が行われます。


*1:南京問題において、南京市と友好都市であった名古屋市は、「南京大虐殺紀念館」に掲げられた犠牲者数表記「30万人」について、議論する機会があったかもしれない。しかし、河村たかし名古屋市長であったがために、そうした「まっとうな議論」の機会は失われた。この問題に心を痛める右派の方々なら、共闘できると思うがいかがか

*2:私は、既得権打破という政治志向そのものがインチキであると考えるので、こうした意見には与しないが、河村たかしを支援する者たちはこれを由としているのであるから、その前提で考えざるを得ない

*3:しかし、言わずにはいられない。こうした内的な熱情こそがゲージツの存在意義だろう。・・・周囲からどう思われようと、その作品が社会の中でどう扱われようと関係ない。創造せずには居られない熱情こそがゲージツだ

*4:つまり、愚劣な脅迫者が社会の在り様を狭めているのであり、そうした者に力を与えているのが、扇動者という事になる。約束通り、「か」の字も示さないし、こっちの論点にはこれ以上立ち入らない

*5:この「人間宣言」自体、否定してかかってくる主張がある事も理解しているが、その議論にも足を踏み入れない。果たして昭和天皇ご自身はどう思われていたか。とだけ言っておきたい

*6:この作品をまたぞろ政治的文脈から偏って受け取っている人もいるが「ご愁傷さま、残念な事ですね」と言う以外に言葉がない