市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

pass the buck to

 問題となっている「コロナ禍でのオリンピック開催」について、菅首相が「私自身は主催者ではない」などと発言したようだ。見事なまでの責任転嫁発言で、それ以降、本人も周囲もこの言葉の恥ずかしさ、重大さを感じていないようだ。病膏肓に入るというのだろうか、日本社会の問題の根深さを感じてしまう。
 
 社会というものは、常に劣化する。劣化するからこそ、それを食い止める知恵が編み出されてきているのだろう。そうした知恵が今の日本に失われているのではと思えてならない。
 
 為政者の責任という文脈で真っ先に思い出されるのは、トルーマンが大統領執務机に置いていたと言われる有名なプレートの一文 "The buck stops here." だろう。「すべての責任はここを超えない」「責任は俺が取る」
 
 責任と権限は一体不可分である。責任を引き受ける者が権限を持ち、決定権を持つ。逆に言えば決定権を持つものは責任を引き受けなければならない。責任を引き受ける者が居ない組織、社会では誰も決定権を行使することができず、付和雷同がはびこり、後の世から見れば信じられないようなバカで愚かな行いが大手を振ってまかり通る。まさに今、誰がどう考えてもおかしい「コロナ禍でのオリンピック開催」という事象が発生し、誰も止められない。ここでオリンピックを止められないのであれば、今の社会は第二次世界大戦で起きた「インパール作戦」を始めとする、数々の愚かな行為を、愚かとは断じられないだろう。
 
 
 国会では提出法案に誤りが続出しているそうだ。すでに日本の法律自体、がんじがらめになっていて、部分的手直しでは即座にバグが埋め込まれる上に、政権が恣意的な「閣議決定」を振り回せば、法律における論理的整合性も失われるだろう。
 
 その昔、私が見上げていたような老人たちは、四書五経を肚に据えて、その上で資本論を超克するというような気概あふれる議論があったように思われるが、「朱子学の最高道徳は『親に考あれ』だ」などという馬鹿げたセリフを、「保守オピニオン」を自認する雑誌が載せているようでは程度が知れる。中心に据えられた論文が、石原慎太郎というのでは論ずる気にもならない。
 
 一言、余計な事を言わせていただくなら、石原慎太郎という人物はある意味、河村たかしのお手本なんだろう。口先だけで何もできない無能、それでいて威勢の良いことを言うことによって人気だけは確保している。真正の保守思想から見れば最も唾棄すべき小人、朱儒である。石原慎太郎の悪行はいくらでもあるが、その一つは「横田基地返還問題」だろう。石原が戦略目標に「横田基地返還」を据えたのであれば、それが叶わなかったとすれば、それは敗北だ。今になって「横田基地返還は必要なかった」だの「横田空域問題など共産党の言っている妄言だ」というバカが居るが、私から見ると「酸っぱい葡萄」じみた言い訳、幼稚な自己正当化にしか見えない。明らかに「横田空域問題」は日本の主権侵害であって、「横田基地返還問題」は経済的にも重大な意味を持つ問題なはずだ。

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 こんな重大な問題を放置したまま、目をしょぼしょぼさせて「核保有」などと、鳥肌実の後塵を排すとは。
 
 石原慎太郎竹中平蔵橋下徹、百田なんとか、高橋元政府参与、竹田天皇家の面汚し、JOCのお尋ね者の息子、門田剽窃作家、等々。
 
 こうした二束三文のチンピラ達が口から出任せで並べる、インチキな、その場しのぎの妄言を有難がるから、この国は方向性を見失い、30年にわたって経済的に収縮し、人口が減少し、産業が振るわなくなり、人々から希望や情熱が失われているのだ。大切なのは志を持った若者が、自分の実現したいと思った社会や組織の姿を実体化していくことだろう。(間違っても、ビジネスモデルをローンチすることではない)
 
 そこで、日頃のこのブログとは様相を変えて、「リーダーの要諦」といったものについて、書いてみたい。
 
 例えば、企業においても課長ぐらいになり、ひとを使う立場になった時。それこそ、ビジネスモデルをローンチするのでもいい。起業したいような者が、どうすれば「人を動かす」事ができるか。そうした事について書き留めておく。
 

六韜・励軍編

 まず、他者とともに仕事でも何事でも、何かの目的に向かってそれを実現しようとするのであれば、目的を指し示し他者を動かしていかなければならない。そうしたリーダーの心得として、必ず抑えておかなければならないのがこの「六韜」における「励軍編」である。
 「六韜」とはどういったもので、そこで語られている「太公(太公望呂尚)」とは誰であるかはここでは述べない。知らないのであれば調べてみれば広大なアイデアが見つかるはずだ。

 簡単に要約すると。
 武王が太公に、兵にやる気を出させるにはどうすればいいのかを聞いた。そうしたところ大公は「3つある」と示した。

 冬に自分だけ特別に温かいものを着たり、夏に扇で風を送らせたりせず、雨が降っても自分だけ天幕を張ったりしないのは「礼将」という。リーダーが礼を心得なければ、現場の暑さや寒さを知ることはできない。
 行軍が泥道に至って、軍馬、荷車がぬかるみに足を取られそうな時、兵士とともに泥の中をいとわずに歩けば「力将」と言われる。リーダーに力がなければ兵士の労苦を知ることはできない。
 野営地に着いた時、兵士が皆場所を決めてから自分も場所を取り、兵士の食事の用意が整ってから自分も食事を取る、軍略的事情から寒い野営でも火をおこすことができないのであれば*1リーダーも火を使わない。こうしたリーダーを「止欲の将」という。リーダーが欲を抑制できなければ、兵士の空腹を知ることはない。

 こうした、兵士の寒暑、労苦、飢飽(空腹)を共にするリーダーならばこそ、一般の兵士もリーダーの指示に従う。
 兵士は死ぬことが平気なわけでも、傷を負うことを楽しんでいるわけでもない、自分の辛さや空腹をリーダーが理解し、知ってくれていると思い。そのリーダーも共に苦労しているから、苦労を分け合えるのである。

南洲翁遺訓

次は、西郷隆盛の「南洲翁遺訓」からだ。これは、そのまま引用する。

「万民の上に位するもの、己を慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹に勉め、職事に勤労して、人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思うようならでは、政令は行われ難し。
 然るに草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服を文り、美妾を抱え、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。
 今となりては、戊辰の善戦も、偏に私を営みたる姿になり行き、天下に対し、戦死者に対して面目なきぞとて、頻りに涙を催されける。」

現代における例

こうしたリーダー像は、西欧でも共有されている。
アメリカなどでも、当たり前に孫子の兵法などは士官に対する教練で利用され、組織論、リーダー論の基礎となっている。逆に、日本における昨今の物語や映画などにおいて、目標や理想に向かって「一所懸命」なリーダー像は描かれていても、そうしたリーダーがメンバーを引きつける重要な要素である「リーダーにおけるメンバーの理解」について言及している例は少ないように思われる。

実は、メンバーを動かすリーダーの要諦については、もう一つ踏み込んだ手法もあるのだが、これについては誤解される可能性があるので、ここでは書けない。*2

リーダー論が戦争という極限状況を舞台に語られるように、アメリカの好きな「戦争映画」にはこうしたテーマが盛り込まれることが多い。しかしこうしたコンテンツがコモンセンスになれば、様々な職場やグループにおいて、優れたリーダーシップを発揮する人物が登場するかも知れない。2つほど例を上げると。

メル・ギブソンの主演した、「ワンス・アンド・フォーエバー」(原題:We Were Soldiers)で、ベトナム戦争におけるドラン渓谷の戦いを題材にしているが、ここでは米陸軍第1騎兵師団のハル・ムーア中佐(メル・ギブソン)が「現場から去る時には、もっとも最後に」という姿を活写していた。

もう一つは、HBOのTVシリーズであった「バンド・オブ・ブラザース」(原題: Band of Brothers)の「雪原の死闘」(原題:The Breaking Point)のリプトン軍曹の姿だろう。第101空挺師団の乗り越えた数々の困難の中でも特に著名なバストーニュの森における苦闘を舞台に、それを乗り越えるリーダーの姿を描き出している。

人間は弱いものだ。

楽な方へ、簡単な方へ流れていってしまう。

しかし、目的や理想があるのであれば、心を奮い起こして、困難に立ち向かわなければならない。そうした時力になるのは、虚構であろうと、物語の中の話であろうと、自分が理想とし、自身も見習いたいと思えるひとの姿だ。こうしたコンテンツに触れ、ハル・ムーア中佐の姿や、リプトン軍曹の姿を心に焼き付けた者は、挫けず、組織を、集団を引っ張っていくことだろう。そうしたリーダーを生み出す社会こそが、活力に溢れ、理想の社会を建設することができるのではないのか。


*1:こうした古代の行軍において、野営地で火を使うと、その煙から敵に動きを察知される恐れがあるため、戦略的に火を起こせないことも多かった

*2:葉隠的要諦というのでしょうかね、簡単には理解できない