市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

政治を語る時に大切な前提(4)

 さて、延々と何を話したかったかと言えば、「思い込み」といったものを排除しなければ政治は語り得ないという簡単な事を言いたかったに過ぎない。

 例えば河村名古屋市長は名古屋市会の本会議場で「個人の政治的信念である」と非常に不確かな事を数々述べている。確かに政治的確信をどのように表現するかは自由に違いないが、事実と異なる事を述べてはならないし、主観的な思い込みを述べるのであれば、他者の主観的な思い込みも尊重しなければならない。何でも発言すれば良いというものではない。

 1月10日の中日新聞紙上に「政なごや」と市道弥富相生山線の建設中止の話題が掲載された。昨年末、仕事納めの12月27日に突然、河村名古屋市長は相生山道路建設中止の発表を行った。これは「年内に判断を行う」という住民との約束を果たす行為でもあったわけだが、その実情は単なる「発表」だけで、工事中止に向けての工程などは全く考慮されていない発表だった。

 なぜ河村市長が、12月27日にこの発表をしたのか、その理由を私は「課長級任期付職員公募」における不正常な採用について、市会委員会で追求された記事を打ち消す為ではないのだろうかと観測を述べた。

 御用納めの帳尻は - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0

 この1月10日の「政なごや」は採用問題にこそ触れてはいないものの、建設中止の発表が唐突である事を示す、私の12月28日の文章を補足してくれるかのような記事に思えた。「政なごや」にあるように「副市長ら幹部でさえ、発表内容を告げられたのは、会見当日の朝だったという」と、この発表が如何に異常なものだったかが判る。

 この記事は単に相生山問題を俎上に載せた記事ではない。河村市長の名古屋市政における現状を報告している記事だ。この問題にみられるように河村市長の進めようとしている施策はここのところことごとく、コスト観念が無く*1、長期的見通し、つまり根気がない。また、堂々とした議論に耐えられない。覚悟も見られないものばかりだ。

 昨年、不幸な結果になった「鳥久」の問題にしても、最近口にする1000mタワーにしても、また、近頃では飽きてしまったように見えるSLの走行にしても。「根気も覚悟も見えない」河村市長の姿勢に、市の職員も見切りをつけている。リーダーシップが云々というレベルではない。「軽い神輿」ではなく、もはや明確に「邪魔」扱いだ。

 河村市長が居たのでは長期計画も、一貫性のある施策も打てない。
 責任問題が係ってくると、すぐに逃げの姿勢を見せるために、結果として誰も動けない。


 名古屋市は今、リニア新幹線という基幹インフラを迎えて、都市のアイデンティティを再定義する必要に迫られている。つい先日(1月22日)も国土交通省が主催し、あの池上彰氏を迎えた「リニア中央新幹線を活かした名古屋圏域づくりフォーラム」という催しが名古屋市公会堂で行われた。
 この時も我らが河村名古屋市長は1000mタワー建設案を打ち出して得意満面だったようだが、池上氏に「1000mタワーがなぜ必要なのですか」と全否定されて意気込んで反論していた。また、パネリストから「(リニア開通まで)あと12年しかない、今頃街づくり構想を練っているようでは遅い。すでに計画を作って着工しているぐらいでないといけない」と苦言を呈されても反論もできなかった。反論出来ない筈です、全体構想など興味も無いのだから。

 驚くべきことに、リニアを迎えると県や民間が立ち騒ぐ中、肝心の名古屋市には全体構想が無い。なぜなら、リーダーが方向性を示していないから。

 この「根気も覚悟も見えない」という言葉はリニア受け入れに向けて、全く稼働していないように見える名古屋市政に対して語っているのであろうし「トップが考えを述べても、現場と一体でないがゆえに言葉に重みがなく、事業の先行きも見えてこない。なんとも不幸な話である」という不安感は、リニア対策事業にこそ向けられているのではないだろうか。

 相生山道路も大切だろうが、これは30億円程度(それでも大きいけれど)の予算で工事中断だろうと、再開だろうとリカバリーは可能だ。しかし、リニア受け入れで事業が頓挫したとしたら、一体どんな損失が生まれるのだろうか?想像もできない。

 早い話が、一極集中する東京の補完地域として、この名古屋が第二の首都圏に成長するという見込みは叶わず、ストロー現象に晒され、高額所得者は買い物や消費行動に40分で行ける東京を選択するというような、関東の一衛星都市と同程度の位置しか与えられないのかもしれない。

 22日のフォーラムで河村市長は「このままでは東京都名古屋区になってしまう。市役所の職員はこのことをよしとするような姿勢も見られる」と苦言を呈している。

 河村市長は何かというと「市職員が動かない」と愚痴をこぼす。(池上氏にも「愚痴を言っている」と指摘されていた)

 リーダーが部下の愚痴を公言すれば、部下の心はいよいよ離れていく。(河村氏は「中小企業の経営者」と言っているが、実際は経営者ではないという意見もある。河村商事は父親や母親が事業を守っていた。現在は息子が継いでいる。河村氏の組織運営能力は、すでに破たんに瀕した減税日本という政党の姿を見ても分かる)

 記事には「リーダーが根気と覚悟をもって、部下たちの心を動かす努力が〜不可欠と思う」と述べられている。これは「河村ファン」と言われている市政キャップのギリギリの諫言なのだろう。


 さて、そういったこの記事を次のように解釈する人もいる。

この記事に私は大きく不満です。
(略)
 それはこの記事は市役所に向かって書かれているのであって、市民の方を向いてはいないからです。これでは市役所のための名古屋市政です。
道路建設推進の元締めは名古屋市役所であり、それに地域住民が対立している構図である。

相生山の道路建設廃止についての中日新聞の記事がおかしい: 小原玲(動物写真家)のブログ


 次のような記述もある。

 相生山の道路建設はそもそも地域住民の要望で始まったものではなく、大昔(昭和32年)の都市計画が一度は頓挫していたものを、市役所が地主の高年齢化が始まって相続の問題が出始めた頃に、ひっそりと用地買収を進め、いきなり地域住民に計画復活を知らせたような経緯があります。

相生山の道路建設廃止についての中日新聞の記事がおかしい: 小原玲(動物写真家)のブログ


 弥富相生山線の道路計画には当初から道路建設に反対する住民が居た事は確かだろう。しかし、道路建設を願っていた住民も間違いなく居たのであって、地域住民がこぞって道路建設に反対していたというような意見には賛成しかねる。というよりも、あまりにも偏っているのではないだろうか。

 道路建設が凍結されてからも工事再開を望む声、要望は具体的に出されていたのであって、その事実を無視している。

 また、これが一番奇異に感じるところなのだが、それほど「地域住民」が道路建設に反対していたとして、なぜ「名古屋市役所」がそれに対立してまで建設を進めようとするのだろうか?

 なんとなく、「役所には既得権が〜」というような陰謀論のような香りが漂います。


 私は一般市民の市政に対する意見には批評を加えない方針で居ましたが、これだけは言わなければ居られなかった。今まで様々逡巡して、破棄した原稿も一つや二つではない。しかし、ちょうど、「シャルリー・エブド」の問題や、「イスラム国」の人質問題も起きて、すべてに共通する困難さとして、なぜヒトは思い込みから自由になれないのかという課題に行き着いた。この一文は「名古屋市役所と地域住民が対立している」という思い込みに支配された誤解でしかない。

 例えば、名古屋市役所だけでなく、地域住民から遠い警察やら霞が関の官僚でも、そんな陰謀を張り巡らせるような高コストなマネはしませんよ。彼等の基本的な態度は、最小の手間で最大のパフォーマンスが得られれば良いという、民間企業でも見られる傾向があるだけだ。あとは私企業においては実績が最大の評価基準であるように、役所にはそれぞれのポジションに定められた法令や命令といった基準があるだけで、そこからはみ出す行動はとれはしない*2

 記事に「市の担当局は『道路は必要』との立場を維持していた」というのは「名古屋市役所」として意思を持っていた訳ではなく、都市計画法に基づいた建設計画があり、それが市民意向を反映し、議会からも議決を得ている為にその方向性に従っていただけだろう。

 なぜ、わざわざ市の職員が、主体的に建設推進をしなければならないのですか??
 それって、誰の得になります??

 功利的に考えても、陰謀論すら成立しない。


 それでもまるで「名古屋市役所」が「地域住民」の意向を無視して、抑圧的に施策を進めようとしているというような見方は公平性に欠けます。

 (ここで、あの三里塚闘争の話でも持ち出してみたいものですが、とても紙幅が足りませんので端折ります。しかし、それに照らし合わせてみても、この考え方は成立しえません。酷い「偏見」です)


 もう一つ、1月16日のこの記事についても一言言っておきたかった。

 河村市長がこだわる、名古屋城天守閣の木造復元について、これを進めるとなると、市民から多額の寄付を受けて建てられた現在のコンクリート製の天守閣を壊すことになる。それについて寄付者の意向を無視する事はできない為、戦災で焼失した天守閣の再建に寄付をした市民、またはその血縁の方を招いて、木造再建に理解を求めたいと市長との懇談会を開いたという記事だ。

 河村市長が名古屋城天守閣木造化を打ち出した際に、現在の天守閣は大勢の市民からの寄付でできている、それを取り壊すのか。という批判があって、それに応えたつもりなのだろう。

 残念な事に、完全に閉鎖された懇談会である上に、参加した寄付者(及び、その遺族)は2組4人に留まっている。


 ・・・ねぇ。

 「中日新聞は河村市長に厳しい、偏向している」と思っている人が居たらめでたい。この記事を読むと、あたかも現在の天守閣再建に寄付を寄せた市民も、河村市長の提唱する天守閣木造化に賛成しているように思える。
 「昔の通りの城ができれば、素晴らしい」「資金を調達できるのなら大賛成」「木造で立派な城ができれば、市民の心のよりどころにもなる」 

 好意的な意見ばかりだ。
 そりゃそうだ、参加した方々は「会の趣旨に賛同した」方々なのだから。

 新聞は嘘は書かない。しかし、書かれていない事に真実が見えることもある。

 この記事には分母が載っていない!

 名古屋市当局は再建当時、5000円以上を寄付された方々及び、そのご家族を130名分割り出したそうだ。その130名の方々に対して、会への参加を呼び掛けて、参加されたのが2組4名なのだ。

 確かに、他の用件や、色々な事情から出席自体を拒む方もいらっしゃるだろう。しかし、それにしても130名の方々の内、参加されたのが2組4名とは、圧倒的ではありませんか。

 ある方は言いました「名古屋城を木造化するのも結構でしょう、しかし、定礎に河村市長が自分の名前を入れたいだけにしか見えない、だから反対する」

 多分、今名古屋城天守閣を木造化すれば、どこかに「名古屋市長 河村たかし」の名前は残るのでしょう(1000mタワーにしてもそうでしょう)その名前は長く残る事でしょう。総理の夢が潰えた河村氏は、次に自分の名前を名古屋の街に刻むことを願っているのかもしれません。この方にはそう見えているようです。私にもそう見えます。(また、そうしてみると、河村氏が「総理を目指す男」であったのは、総理になって何がしたかったわけではなく、単に日本の歴史に名を残したかっただけなのかもしれません。アチコチの壁に落書きをする子どもとメンタリティは変わらないように見えます、迷惑な話です)

 どうなんでしょうね。本当に河村市長が名古屋の街を思い、その為に名古屋城天守閣を木造化するべきだと考えているのであれば、確かにおっしゃるように、現在のコンクリート製の天守閣は残り40年程度しか耐用年数は無いようですし、それ以降は木造でなければ再建させてもらえないそうだ。ならば、今やるべきことは慌てて天守閣を木造化するのではなく、基金でも作って40年以内に木造再建ができるように取り計らう事なのではないでしょうかね?

 まあ、河村市長にこんな根気や覚悟、長期的視点があれば、名古屋市政に関わる人々は苦労をしないのでしょうけどね。

 河村市長、ご自分の名前をお城でも、タワーでも結構ですが、残したところでご子孫は迷惑に思われるだけでしょうよ。だって、このままでいくと名古屋市を決定的に地位低下させた暗愚の市長の名として、永らく市民の目に晒されるのでしょうから。(さすがに、墓に鎖を巻くような事はしないでしょうけどね)

 なんだか、大きく出た割にはしょ〜もない結論に行き着いて申し訳なく思いながら。






















追記:

東日本大震災の復興のシンボルとして復元された陸前高田市の「奇跡の一本松」をめぐり、
市長が復元工事などの事業を随意契約で結んだのは違法だとして、
市民団体がきょう、市長に対し1億5000万円あまりの損害賠償を求める訴えを起こしました。

訴えを起こしたのは、陸前高田市の市民でつくる「気仙オンブズマン」です。
訴えによりますと、陸前高田市は奇跡の一本松を復元するための工事を行う業者を決める際に
東京に本社がある建築工事業者と随意契約を結びました。
これについて、市民団体は、市が契約を結んだ企業だけが松の復元に関する
専門的な技術を持つとする根拠はなく一般競争入札を行わなかったのは違法だとして
陸前高田市の戸羽太市長に対し、業者に委託料として支払われた
1億5000万円あまりの損害賠償を求めています。

訴えについて戸羽太市長は、
「指摘されている奇跡の一本松の保存業務について、随意契約を行った企業しかできないという
認識に変わりなく、適切に行われたと考えている」
と話しています。

http://www3.nhk.or.jp/lnews/morioka/6045023651.html?t=1422551099000


*1:河村市長がコスト観念を見せた事など、考えてみると一度たりとてない

*2:役人が法を踏み外す時、それが市民、国民の為であるのなら制度に誤りがあるか、組織に矛盾がある。それが組織防衛の為であるのなら、そんな法の踏み外し方は視野狭窄に過ぎる。制度を歪め、組織に新たな矛盾を作る行為だ。法は市民や国民を守るだけではなく、その施策を実施する役人自身を守る物でもある。悩んだら法に立ち戻るべきだ。 (自分はこの言葉を誰に言っているのでしょうかね。3604  タブン、ご当人には判る筈だ )