市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

政治を語る時に大切な前提(3)

 間が空いてしまいましたが、もう暫くこの退屈な議論にお付き合いいただきたい。
 前々回で宗教的確信に対して議論は無効なのであり、宗教的権威に対する表現の自由は無制限に認められるわけではないというお話をしました。

 また、マス・メディアに存在する者は、オピニオンを語っているように見えても、それはエンタテインメントの一環であり、その者の言動をその通り信じて矢面に立たせ、語らせることは誤りである。とも述べました。
 そういった人たちは言葉を提示して見せてくれるわけで、それに心が動いたのであれば、自分自身が動けばよい事であって、その者に仮託する行為は誤りだろう。

 ヒトは様々な価値観を持つ。その価値観の相違は社会の中で様々な軋轢を生む。
 そういった軋轢を解決する一つの手段が政治である。

 宗教的確信もヒトの価値観を形作る基盤となる、しかし、そういった価値観は相互に批判、議論に晒され、自らが社会の中で居場所を獲得しなければならない。また場合によっては社会からまったく否定される事もあるだろう。ここで大切な事は宗教的確信から導き出された価値観が、社会の中で否定されたからといって、個人の宗教的確信まで否定されたわけではないという事だ。

 個人の宗教的確信から、社会全体に対して価値観を押し付ける行為は批判にぶつかる。
 例えば、ある宗教が「離婚」を禁じているとした場合、その信奉者が「離婚」を行わないのは宗教的な信心というものだろうが、自分の属する社会全体に対して「離婚」の禁止を求めるという姿勢は価値観の押しつけであり、批判を引き起こす。さらに、それを「制度」として成立させようとすれば政治的闘争を行わなければならなくなる。

 宗教的確信は政治課題や客観的な議論の対象とはなり得ない。しかし宗教的確信から導き出された価値観は社会に提示された段階で政治課題と成り得る。

 逆に、本来、社会の中で相互の利害対立であるとか政治問題であるべき課題が「宗教的確信」かのように扱われる事例がある。

 つい先日次のような例があった。

 参考

 「イスラム国」の人質問題に関連する1月22日のハサン中田氏の記者会見に対して「身代金を払う前提で話をしている」という意見があったために、「テロリストの要求を呑む必要はない」という同氏の発言を紹介したつもりだったが、聞き入れてもらえなかった。
 聞き入れてもらえないのはどうでも良い事なのだが、ただ、不思議だったのは報道の表現を信じて一次ソースに当たらないまま批判を行う姿勢であるとか、なんとなく最初から中田氏に対する不信感を持っていて、それはそもそも「イスラム国」に対して不信感や不快感を持っているが為に、その「イスラム国」に近しい者に対しても同様のバイアスをかけて見ているように思えるということだ。


 こういった「認知バイアス」は日本の社会には起こりやすい。
 先の大戦においても、英語を「敵性語」と見做して、米英の社会や文化を否定し、理解しようとしなかった。対話するにしても戦うにしても、先方の事を知りもしないでどのように対峙するのか、私には理解できない心の動きだが、現によく見られる。(面白い事に、先に引用した対話でも「イスラム国のことなど、知りたくもありません」と明言されている)


 ちょっと「認知バイアス」について回り道をしておきましょう。
 人間は論理の生き物ではなく、感情の生き物です。例えば「物を買う」という行為も、その大部分は論理的帰結から購入したわけではなく、単に「欲しい」という感情的要求を満たすために行われた決断である事が多い。理由など、よくよく考えてみれば後付の言い訳でしかないかもしれない。

 1.そもそも人間は「印象」に左右されます。
 人間は自分を大切にしてくれる、肯定してくれる相手の言う事を聞き入れるようになります。これを「アンカー効果」と言うそうです。ほんの小さな心地よい「印象」によって判断の方向が形作られると、肯定であれ否定であれ、それ以降この方向を切り替えることは困難になります。

 2.こうした印象形成の際にその対象物ではなく、その周辺の属性、特徴に引きずられて判断を下すことも多いようです。権威のある人物の裏付け、有名な人の発言を正しいと思い込む。なぜ、化粧品の宣伝広告にはきれいな女優、俳優が起用されるのでしょうか。こうした「後光」によって印象は操作されます。これを「ハロー効果」と言うそうです。

 3.また、評判が多数に支持されているという情報が伝わると、自分も支持すべきだと思えてしまう。これを「バンドワゴン効果」と言うそうです。コマーシャルなどで「○○で売り上げ第1位」などと言う理由はこの効果を利用しようとしている訳です。

 4.一旦、自己の中で評価が定まると、それに対する「信奉」が生まれます。
 例えば応援する野球チームなど顕著な例でしょう。別に巨人でも中日でも何が変わるというものでもない。しかし、一旦、自分がどこかのチームを応援すると決めると、そのチームの良い話や、他チームの悪い話には耳をそばだたせますが、自分の応援するチームの悪い話など聞きたくもなくなります。「感情バイアス」がかかって、いよいよ自分の好きなチームを好きになります。

 5.更に、自分の好きなチームの都合の良い事実には目を付けますが、それを否定する事実には目を背けます。例えば応援するチームにエースピッチャーでも居れば「野球はやっぱり、エースピッチャーだよ」と評価基準を変えたりもするでしょう。つまり、理由があるから肯定するのではなく、肯定する理由を見つけるのです。これが「確証バイアス」です。

 6.こういうことを続けていると自分の考えを変えるのには「コスト」がかかります。
 今まで肯定してきた事をおじゃんにして、今まで否定してきたことを認めることはなかなかできません。「それまでの投資を惜しみ、投資をやめられなくなる」こういった状態を「コンコルド効果」と言うそうです。

 7.こうなると、自己の確信(思い込み)に対して批判的な発言を否定するようになります。自分の使っている化粧品のデメリットや好きな野球チームの弱点などを聞かされると、自分まで否定されたかのような気分になる。これを「認知的不協和」と言います。


 人間は論理的には不完全で、感情によって認知を歪められてしまっています。

 (「しかし、それが人間なのだから仕方がないではないか」という意見は「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というような「リスキーシフト」という認知バイアスかもしれません)



 さて、これらの前提を元に話を地方自治名古屋市政に戻してみる。
 こういった視点から、河村市政を見てみるという事かもしれない。

 まず、前回触れようとした大阪都構想について、ここまで長口舌を費やしてしまったので、そもそもの2点と、河村名古屋市長のこの問題に関わる問題点だけ指摘しておこう。

 大阪維新の会大阪都構想を打ち出した前提として、大阪の府市による二重行政の解消という目的があった。更に、増え続ける大阪府の債務を解消するという目的もあったはずだ。

 しかし、今、維新の会が打ち出しているこの大阪都構想の説明文を見ると、疑問がわいてしまう。
 住民投票紹介特設サイト

 そもそも2重行政のどこが悪いのだろうか?
 行政というものは住民にとってはセーフティーネットだ。様々な住民サービスはそれを必要としている人々を取りこぼすことなく、奪い合いに晒すことなく、広く公平に住民に届けられるべきだろう。そういった観点から考えると、多重化した方が良い筈だ。(司法制度が3重化しているのは無駄なのか?)
 重なっている施設があるというのであれば、個々に議論すればいいだけであって、その為に市そのものまで解体するというのでは話が飛躍しすぎる。*1

 また、「大阪の現状」と題された4つの問題は地域経済の行き詰まりを示しているのではないだろうか?
 私には「生活保護が多い」「世帯収入が低い」「会社が逃げていく」「止まらない経済低迷」という問題があるので、現状5として示された「税金のムダ」や6として上げられている「お金のムダ」を実行しているようにも見える。つまり、地域経済が活性を失った場合の「財政出動」を行った結果に過ぎないように見える。これはスタンダードなケインズ経済学の帰結であって、不思議でもなんでもないのではないか。

 ここで大阪府大阪市の財政を健全化させる。財政支出を削減するという方針は、地域経済にとってはマイナスにしか作用しないだろう。そして当然の事として、その前の4つの問題については、それを悪化させこそすれ、好転はさせない。


 図は、見慣れた名古屋市における減税政策の効果シミュレーションで示されたマクロ経済モデルの因果フロー図だが、経済とはこの図で示されたように循環なのだ。
 「市内総生産」(域内総生産)は「政府支出」(地方自治体支出)と「民間支出(+投資)」の和で決まる。その「域内総生産」が住民各個の「世帯収入」につながる。大阪都構想が「自治体支出」を抑制しようとすれば「世帯収入」も縮小してしまう。

 「域内経済」を活性化させるのであれば、財政出動をすべきであって、財政出動すれば域内行政庁は債務を負う。私もこのブログの初期の頃は財政健全論者だった。(また、リバタリアンと自認していた)しかし、いわゆる「均衡財政論」を検討していく中で完全に主張を変えている。

 財政出動を行い、経済拡大策を取るべきか、均衡財政や小さな政府を目指すべきかはどちらが正しいとか間違っているという問題ではない。経済が収縮期には流動性を引き上げ、財政出動をかけて経済を活性化させるべきだし、流動性が過剰になってインフレが亢進するようなら政府支出を抑制するなり債務を償還して流動性を引き下げるなどすれば良い。恒常的にどちらかを目指せなどという議論は車を買う際にエンジンかブレーキのどちらかだけを評価して買うようなものだ。両方がバランスを持って機能しなければ意味が無い。

 税を単なる収奪と見做して「財政均衡論」を主張するのだとしたらこんな歪んだ話は無いのであって、それは経済学とは言えない。当然のことながら、税には所得の再配分という機能もあるのだ。

 現在のようにデフレが進み、国民所得が下落し、当然の事として国民消費も下落している局面で「財政均衡論」を訴えるのは完全な誤りだ。

 ここには論理ではなく2つの心理的な齟齬、認知バイアスが作用している。
 1つは「財政は健全であるべき、赤字は悪い事だ」という思い込みと、「公的支出が抑制されれば、民間にそのお金が回ってくる」という経済学では誰も言っていない、つまりなんの根拠もない、公的セクタと民間セクタのトレードオフという思い込みだ。

 財政出動するのであれば国や府・県が赤字になるのは当然で、とくに現在の地方自治体における赤字には理由がある*2。これらの赤字解消には維新の党や自民党の一部がいうような財政規律ではなく、別の方法がある。

 そして、国や県の支出を抑制しても民間にお金は回らない。公務員の給与を削減しようと、生活保護費を引き下げようと民間の売り上げは上がらないし、収益も上がらない。容易に想像できるのは給与や支給を引き下げられた人々の消費活動の縮小であり、つまりはどこかの売り上げの減少だ。(税負担もさして変わらない。なぜなら税負担の大部分は、このような議論とは別のところに支出されているのだから)

 「認知バイアス」にごまかされないように、事実を積み上げて議論すべきだ。

 さて、この大阪都構想について、大阪市では5月に住民投票が行われるとの事だ。

 なんでも河村名古屋市長もこの住民投票を支援するために大阪にまで駆けつけて街頭演説をやったらしい。この大阪の都構想と愛知県における都構想は異なるとの事だが、それでも中京都構想を謳う大村愛知県知事候補を河村市長は支持するとしている。

 さて、この大阪都構想において、大阪市政令指定都市である事を止め、5つの特別区に分けられることになっているようだ。そうなると政令指定都市として認められていた都市計画税事業所税、宝くじ税などが「都」に移管されることになる。その総額は大阪の場合2220億円ほどのようだ。これって河村市長の常日頃の主張とは矛盾していないだろうか?

 河村市長は名古屋市が国や県に税を取られていると指摘し、より以上の自主財源を求めていたはずだ。ところが大阪都構想では大阪市が持っていた自主財源は「都」に移管される。まったく今までの主張とは逆の施策案について、河村市長は支持を表明するのだろうか?

 まあ、いつもの事で、深く考えもせずにいい加減な行動をしているだけだろう。そして、こうした一貫性の無い行動が、また自身を呪縛していくのだろうから、好きにすればいいが、現実はこのような矛盾、論理的齟齬がある。しかし、それでも河村氏の市長としての人気は残っていく。

 いよいよ、本題に入ったばかりだが、この後に続く。





*1:府市統合の象徴として議論されていたはずの水道事業について、結果として統合はせず、市域だけ民営化という結論も意味が分からない

*2:故・宇沢弘文さんの解釈を述べたいが余裕がない