市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

中学校二年程度で理解できる減税政策の誤り

 ある事柄について、事実に全く反する事を知りながら、それでもその事実と反する事を言い続ける者は、自分の発言と事実との相違を理解できない馬鹿者か、または自分の発言が事実とは異なる事を知りながら、その事実と異なる事を言い続けなければならない嘘つきか、そのどちらかだろう。

 つまり、河村市長は馬鹿者か嘘つきかのどちらかという事になる。

準備されていない寄附制度

 本日の中日新聞朝刊に「減税分貯金せんでちょう」という記事が載った。昨日の河村市長定例会見の抜粋だが、6月からはじまる「市民税5%減税」実施に向けて河村市長が「減税分を貯金せんように、社会に生きるお金として使ってもらいたい」と述べ、身近な防災や児童虐待防止などの活動に寄附するよう呼びかけたとされている。(市長会見24年5月28日


 本文で「河村市長は減税分を公益に回す寄附制度づくりを目指しており」となっているので、この制度について名古屋市に聞いてみた。名古屋市に聞いてみたと言っても、何も難しくない、誰でもできる。「名古屋おしえてダイヤル(052-953-7584)」に電話してみた。そうすると、名古屋市子ども青少年局児童虐待対策室の電話番号を教えてもらえた。

 そこの担当者に「市長が、減税されたお金を児童虐待防止のために寄付してくれと言っているが、どこに寄附すればよいのか」と聞いてみると「そのような窓口は今のところない」との回答だった。
 「どこか無いのか」と重ねて聞いてみても「こちらでは把握していない」という事で「将来的にそういった寄附の仕組みを作っていくとの事です」と言われるので「河村市長は市長就任の頃から寄付については言っている。何故まだできないのか。何時できるのか見通しはあるのか」と聞くと「具体的な見通しはない」ということであった。

 減税された金額を、地域で使うという寄附の制度は現実にはありはしない。更に言うと、そのような物が無いことすら大多数の市民は気が付かない。何故なら、この市長発言のように、減税されたお金を児童虐待防止や地域の身近な防災に寄附しようなどという人はほんの一握りだからだろう。(そういった活動に寄附や参加されている人は、減税などなくても既にしている)
 このような制度が無いにも関らず、あたかも有るかの如く語る河村市長は、馬鹿者か嘘つきかと言う事になる。

児童虐待防止を「ネタ」に幻想を振りまく罪

 更に言っておくと、河村市長は地域委員会制度についても「児童虐待対策」と語っているが、モデル実施した地域で「児童虐待対策」を議題に挙げた地域は2地域有り、双方ともに「地域委員会によって児童虐待対策を行うことは不可能」という結論に達している。

 これとは別に名古屋市は「名古屋市児童虐待事例検証報告書」をまとめている。
 http://www.city.nagoya.jp/kodomoseishonen/page/0000035899.html

 この中では、 既存組織の強化、人員配置を求めている。
 つまり、河村流減税論とは逆に行政を拡大すべしという提言になっている。

 当然だ。即座にでも減税を止めて、その予算を全て専門員の増員や教育に充てるべきだ。それでも足りないぐらいだろう。

 ここでもこの事実を知らずに、地域委員会やら減税で児童虐待防止ができるかのような幻想を振りまく河村市長は、事実を見ることができない馬鹿者か嘘つきかと言う事になる。

減税政策の幻想

 既に減税政策に関る「幻想」についてはこちらでも指摘した。
 204億円の幻想 - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0

  そして河村流減税政策が間違っている事はこちらで「証明」している。
 「正しい経済学」が導く減税の意味(後編) - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0

 簡単に述べるならば、「単に減税するだけなら経済刺激策になる可能性はある。 ただし、減税では経済効果は低く、同額を財政出動として支出した方が効果が高いことは明白である。しかし、河村流減税には決定的な問題がある。それは減税財源を行財政支出の削減で賄うとしている事である。つまり、減税よりも経済刺激効果が高い財政支出自体を削減して、その金額をより経済効果が低い減税に回してしまえば、経済効果としてマイナスに作用する」という事になる。

 これが麻生良文教授の「公共経済学」から引いた「正しい経済学」からみた河村流減税の過ちである。

 つまり、論理的に河村流減税は経済政策として間違っているのであって、それを理解しない河村市長はやはり、馬鹿者か嘘つきかと言う事になる。(河村政治塾で講師になったリチャード・クー氏は、巧妙にこの辺りの議論を外していたらしい)

 上記の文章で河村流減税については過ちが明白なので、それで終了と思っていたが、数式があったりして理解できないと言う話を聞いたので「中学校の二年生でも理解できるレベルで」という事で図式化してみた。( それは原因ではなく結果である - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0

中学校二年生でも理解できる減税政策の過ち

 まず、fig.1 (図.1) を見てください。
 これは減税が名古屋市内の経済にどの程度のインパクトがあるかを判りやすく図式化したものです。名古屋市内の総生産は約14兆円あります。
 それに対して名古屋市の歳出は1兆円あり、なかなかの規模を誇っています。(企業局などを除いています)

 その中で「市民税5%減税」の額、80億円を置いてみると図のオレンジ色の範囲のようになります。

 正確にはもっと小さい「線」にしかなりません。14兆円に対して80億円ですから、0.05%にしかなりませんからね。

 fig.2 は名古屋市の歳出、約1兆円の中で、総人件費約1700億円と減税額約80億円のスケールを比べてみています。

 河村市長は当初、総事業の1%が、市民税減税10%に必要な金額ということで「総事業の1%削減ぐらいできないでどうするんですか」と言っていました。その内に「総人件費の10%カットが実施された」と言って、「減税財源は確保された」と宣言していましたが、それは上記の「204億円の幻想」で指摘したように、減税財源としては非常にあやふやなものでした。

 奇しくもそこで「人件費は10%など削減されておらず、5.5%程度ではないのか」と指摘しましたが、今回、減税率が5%に圧縮されて、奇妙な符合を感じます。

市民税減税5%のインパクトの嘘

 なんにせよ。「たったの80億円」ではあまりにインパクトが小さすぎて、プラスであろうとマイナスであろうと効果などノイズの範囲です。そもそも「市民税10%減税」という言葉がそもそも「嘘」だろうと思います。市民税と言うのは所得の6%を徴収する税なのだから、その10%を削減すると言うのであれば「市民税0.6%減税」と言うべきで、「10%」「一割」という数字が過大な期待を市民に抱かせてしまいました。
 最初から各マスコミは「0.6%減税」と言うべきであったでしょう。そして今でも「5%減税」と言っていますが、これも実体に即して「0.3%減税」と呼ぶべきです。そうすれば、この図に示したように、その効果が小さい事がわかるでしょう。

 それにしても。この小さな「0.6%減税」の財源を確保する事すらできずに「0.3%減税」へと減税幅を半分に下げてしまったのだから「無能市長河村」の面目躍如と言うしかありません。

 そもそも「10%減税」にしろ「5%減税」にしろ、その比率には根拠などありません。なんとなく響きが良いから言ってみただけなんでしょう。そしてそれぐらいならできると踏んだのかもしれない。しかし、結局できなかったわけです。

「地元の事は地元で」という考え方は正しいのか

 実施された「5%減税」ではあまりに効果が薄いので、試しに「100%減税」ではどのような形になるか見てみましょう。

 つまり、河村流減税の言うように、そして「新自由主義者」たちが言うような「小さな政府」がどのような姿になるか見てみようと言う思考実験です。

 fig.3 は名古屋市の歳出約1兆円から、市税収入分の約4000億円と、それ以外の収入6000億円を分けて、その4000億円を全て、(100%!)減税してみたらどうなるかといった模式図になります。

 6000億円で名古屋市はギリギリの事業まで「行財政改革」する事になるでしょう。
 各地の公園や土木関連事業でも、美観などは無視してギリギリの機能まで品質を落とす事になるでしょう。美観などを地元が求めるのであれば「地元の事は地元で」と寄附を募って地元がまかなう事になります。

 この「地元の事は地元で」という「自己責任の原則」というのは、新自由主義の標語のようなもので、耳障り良く、一瞬その通りだと思えてしまう。しかし、行政を基本的なギリギリの機能にまで小さく縮小させ、それ以上の事柄は地元の自助で賄えと言うのは、単なる「行政の撤退」でしかありません。

 そしてそれは「弱者切捨て」でしかないのです。

 豊かな地域は寄附も集まるかもしれないし、自助の仕組みが機能するかもしれません。しかし、それが賄えない地域は見捨てられる事になります。*1

 名古屋市が全市として、ある程度の平等性とバランスで公共サービスを提供していけば、こういったアンバランスを少しは是正する事ができるかもしれない。しかし、「地域の事は地域で」と市の機能をギリギリまで小さくしてしまえばこういった機能は満たせません。

 河村流減税政策は、こういった「公的セクタ」の市民税を減額して、「民間セクタ」に渡そうという考え方です。*2

 減額された市民税は、地域の寄附を求めるが、その大部分は市民の消費や貯蓄となってしまうでしょう。果たして、それで住民自治は賄えるのでしょうか。

経済効果は減税が高いのか、財政支出が高いのか。

 最後の fig.4 に移ります。

 河村市長の減税政策は「市民税の使途を市民に決めてもらう」という考え方が軸となっているのでしょう。つまり、この「名古屋市の歳出 約1兆円」の枠から、既存の市当局が決め、議会が承認してきた「約4000億円分の事業」を削り取って市民の元に返し、そこから市民自身の判断で、地域の課題に対して寄附などをしてくれというものです。

 既に申しましたように、その寄附の仕組みについては、今に至るも作られてはいません。河村市長が漠然と考えているだけです。つまり、単なる思い付きです。
 この減税額がまだ、消費に回れば経済刺激効果が現れますが、貯蓄されれば経済刺激効果すらありません。

 そして、この図を見ていただければ判るように、河村流減税で削減される事業予算には、必ずそれを執行していた事業者が居る筈です。そこには雇用があるはずです。つまり、これらの雇用を削減するのが「行財政改革」です。*3

 減税額の横に \frac{c}{(1-c)}\Delta T という数式があります。
 この \frac{c}{(1-c)} という数式が「乗数効果」と呼ばれるもので、一般的に国や地方が地域に ”T” だけ支出すると、どの程度の経済効果が見込まれるかを算出する数式です。
 ”c” というのは消費性向で、人々がどの程度貯蓄し、どの程度消費(寄附も消費に入ります)に回すのかという比率です。”c” の値は 0(全額貯蓄)から 1(全額消費)までの間の値を取ります。*4計算してみるとわかりますが 1である 全額消費になるほど数式の値が大きくなる事がわかります。



 「執行する企業、作業者」の横には  \frac{1}{(1-c)}\Delta G という数式があります。

 政府支出(この場合は名古屋市と言う地方公共団体の支出) ”G” については全額消費されるのですから、乗数の分子は ”1” になります。

 河村流減税では、「減税の財源は歳出削減で賄う」としているのですから、この ”T” と ”G” の値は同額です。つまり政府支出の”G”については乗数が \frac{1}{(1-c)} ですが、減税については \frac{c}{(1-c)} という値になります。

 この「\frac{1}{(1-c)}」と「\frac{c}{(1-c)}」の二つの乗数。つまりこれが「経済効果」です。この相違が「歳出削減をして、減税をした方が名古屋の市中経済にプラス」か「減税など止めて、今までどおり予算執行した方が名古屋の市中経済にプラス」かの判断材料になります。

 そして、簡単な計算どおり ”T” を増やすよりも ”G” を増やした方が名古屋の市中経済にプラスとなります。(この記事を参照)

 もしもこの減税政策が、歳出削減は行わず、減税財源は市有財産の処分であるとか、市債の発行で行うのであれば、”G” は変わらないので ”T” が増える分だけ、市中経済にはプラスになるのでしょう。それでも、そんな財源があるのであれば政府支出を行った方が経済刺激策にはなります。

 一般的に、経済刺激策を行う際に、広く薄く補助金をばら撒くよりも、政策的に方向性を明確にして再投資を促すような政策を打ったほうが経済効果が高く見込めます。いままで「一律減税」をいう為政者が少なかったのは、この政策が経済刺激策にも、税の持つ所得の再分配機能にもそぐわないからです。

 いままで、先人がこの政策を取らなかったのは、先人が無知で浅はかだったのではなく、それが無駄であることを承知していたからでしょう。そして、それが判らないのが河村市長や、この減税政策に期待を寄せる一部の人々であると言えます。

 そして、その一部の人の中に、あろうことか、ちゃんとした教育を受けたであろう新聞記者やマスコミの職員が含まれると言うのですから、嘆かわしい話です。

 各マスコミの記者、デスクに申し上げます。いい加減目を覚ましてください。

 歳出を削減しての減税政策は、景気後退時に求められる「財政出動」の真逆の政策で、当然真逆の効果(経済を冷却させる効果)があります。

 幸い、そのネガティブな効果も、圧倒的にインパクトの無い「たったの0.3%減税」ということで傷は浅いのでしょうけど。


*1:実際に、他地域の「地域委員会」の実態を見てみると、町村合併によって吸収された山村地域が、少ない予算で林道の改修などを地元住民の参加で実施しているようです。勿論、吸収された町村には起債の権限も無い。足りない資材や労力は、地元住民の持ち出しである。 / この名古屋市内でも、豊かな町内と言うのはある。催事やイベントで寄附を募ると使い切れずに余ってしまって、そのまま被災地や赤十字へ寄附をするというような地域もある。その反面、独居老人や地域に参加しない住民(独身者アパートなど)が多く、地域の行事はおろか、ゴミの分別や防災の対策にも苦労されている地域もある。

*2:図書館も新自由主義に立てば「自分が読む本ぐらい自分で買うのが当然、公共団体が書籍を買って市民に回し読みさせるのは、出版社の販売機会を失わせ、民業圧迫である」ぐらい言うかも知れませんし、スポーツ施設に関しても「受益者負担が原則で、民間施設を利用すべき」と言うのかもしれません。

*3:大企業が「リ・ストラクチャリング(再構築)」と言いながらその実雇用を削減していった事と代わりありません。

*4:正確にいうと1の値になると「ゼロによる除算」となり値が確定できません。