前回の論考において。
・他人の信仰を侮辱してはならない。
・その為に表現行為には一定の限界がある。
・エンターテナーはエンタテインメントを提供する。
それは*1ひと時の退屈しのぎに過ぎないのだ。
・現代ではエンタテインメント(退屈しのぎ)の「ネタ」として、政治や宗教も語られる。
・しかし、それをそのまま真に受けてはならない。
・エンターテナーを矢面に立たせて、語らせ、行動させる事は誤りだ。
そこから自分自身の中で何が真実であるのか、何が自分を動かしたのか、しっかりと感じ、考えることが必要となってくる。
これらが前回述べた「自分の立ち位置に対する自覚」である。
続いて、「論じる対象に対する『境界線』の問題」を考えてみたい。
自分の立ち位置を喪失した例
その前にこの「政治を語る時に大切となる前提である。自分(話者)の立ち位置に対する自覚」を見失っている人々が多い事に驚く。ツイッターやらFacebook など、各種SNSを見ると、日本には如何に多くの「外務大臣」やら「首相」が居るのだろうか。
人々は思い思いに「ああすべきだ」「こうすべきだ」と語っている。
いったいぜんたい、これらの言動に意味があるのだろうか?
特に、次の3つなどは酷い例だ。
キャンペーン · 外務省、首相官邸:[緊急署名:1/28 PM1〆]日本人人質、後藤健二さんの人命を救ってください · Change.org
イスラム国のテロリストの方がクレバーだ。
誘拐犯は日本の国民へメッセージを出している。多分、このメッセージを受け取る日本だけではなく、周辺国(イスラム、非イスラム)やサウジや米国、の視線も意識している事だろう。彼らは自分たちの行動がどのようなリアクションを生むか推測できている。
ところが、この3つの言動は無自覚なのか、無関心なのか。前者であればバカであって思慮が足りない、後者であれば単なる自己満足に過ぎない。自分勝手が過ぎる。
「政治を語る時に大切となる前提である。自分(話者)の立ち位置に対する自覚」を再確認するのであれば、私にとってこの人質事件について出来る事など一つもない。せいぜいが2人の無事を祈るぐらいだ。*2大部分の日本人にとってもそうだろう。
そうであるならば、池内恵氏の次のような発言に注意を払うべきではないだろうか。
「イスラーム国」側の宣伝に無意識に乗り、「安倍政権批判」という政治目的のために、あたかも日本が政策変更を行っているかのように論じ、それが故にテロを誘発したと主張して、結果的にテロを正当化する議論が日本側に出てくるならば、少なくともそれがテロの暴力を政治目的に利用した議論だということは周知されなければならない。
「特定の勢力の気分を害する政策をやればテロが起こるからやめろ」という議論が成り立つなら、民主政治も主権国家も成り立たない。ただ剥き出しの暴力を行使するものの意が通る社会になる。今回の件で、「イスラーム国を刺激した」ことを非難する論調を提示する者が出てきた場合、そのような暴力が勝つ社会にしたいのですかと問いたい。
「イスラーム国」による日本人人質殺害予告について:メディアの皆様へ - 中東・イスラーム学の風姿花伝
政権とは結果責任が伴う。
日本国民は、安倍政権に十分な権限と社会的リソースを与えている。彼らが無事解決にたどり着こうと、不幸な結果をもたらそうと、私を含む日本国民は、それまでは黙って見ている以外に何ができるのだろうか。事は結果を見てから語れば良い。今はその時ではない。
この池内恵氏の発言は後に別の角度からも検討する。
この池内恵氏はハサン中田氏に対してこのような評価を下していた。
自由主義者の「イスラーム国」論~あるいは中田考「先輩」について - 中東・イスラーム学の風姿花伝
それに対して中田氏は次のような発言もしている。
こうした前提の元、本日(1月22日)に行われた中田氏の会見は意味がある。
「交渉できるならイスラム国に行く用意がある」中田考氏がメッセージ(スピーチ全文) - 弁護士ドットコム
常岡浩介氏の発言も興味深い。
【全文】「警察の捜査が、湯川さん後藤さんの危機的状況を引き起こした」〜ジャーナリスト・常岡浩介氏が会見 (1/2)
ハサン中田氏もシャミル常岡氏もイスラム名を持っているように、イスラム教徒だ。両人がイスラム教徒で、イスラム国に親和的だとして、「怪しい」とか「こんな奴に交渉を任せられる訳はない」という意見があるようだが、バカとしか言いようがない。
これは本当かどうか些か怪しいが、イスラム教徒はヒトとヒトの間での約束事は信じないそうだ。イスラム教徒と商売をしたいのなら、イスラム教徒になれと言われた。なぜなら、彼らはヒトとヒトの間での約束は軽んじるが、アラーの神との約束は固く守る。イスラム教徒Aと異教徒のBが契約した場合、AはBとの契約を破る事に抵抗が無い。しかし例えばAにこう誓わせる。「●月●日までにBに××を納品することをアラーに誓う」Bも改宗して次のように誓う「●月●日までにAに××を支払うことをアラーに誓う」こうすると両者は約束を違えればそれはアラーとの誓いに背く事となる。つまり、イスラム教徒同士、お互いにアラーの神と誓いを立てるためにはお互いがアラーの神を信じる、イスラム教徒でなければならないそうだ。
以前、北朝鮮の拉致問題が暗礁に乗り上げた際に、様々な人々が北朝鮮とのチャンネルを模索して拉致問題の解決を図ろうとした。勿論、北朝鮮と交渉ができるのであるから、その人物は北朝鮮と親和的な人々が多かった。
すると、日本国内から(主に拉致問題の為に活動している憂国系の人々から)「二元外交だ」「北朝鮮と親しい者の言う事など信用できない」と批判が起こった。
私はアホかと思いましたね。
こういうのは「二元外交」とは言わない。逆に外交交渉など、二元でも三元でも、チャネルは多ければ多いほど良い。
やがて北朝鮮の拉致問題は、暗礁どころか多くの船頭に担がれて山の頂に上ってしまったが、日本にはこういった傾向が昔からある。
先の大戦において日本は英語を「敵性語」と見做して、英米の社会や文化を理解しようとしなかった。それが先の戦争を悲惨なものにした一端なのかもしれない。
今も必要以上にイスラムに対する敵愾心が起こっているように思える。
イスラム国の人質事件をテコに安倍政権を批判するというような政治利用も稚拙な行為であろうし、この事件を受けてイスラムに対して敵愾心を持つ行為も同様に稚拙だ。
「テロに屈しない」とは、こうしたテロ行為に必要以上に心を動かされないということであるべきだ。つまり、静かに、不必要な部分は無視をする事が正しい行為なのだろう。
それが現実を踏まえた「自分の立ち位置に対する自覚」に違いない。
論じる対象に対する「境界線」の問題
では「論じる対象に対する『境界線』の問題」とは何だろう。
イスラムにおけるムハンマドの存在、日本における天皇の存在。
その他にも、それぞれの宗教における権威。または、個人における両親や家族といった存在。
それらは政治的には語れない。客観的に語る対象とはなり得ない。
これはヒトが持つ変わり得ない属性についても言える。
その人の身体的特徴、それもコンプレックスと自覚されている事柄。性愛の対象。自身が帰属すると自覚するエスニシティ(同族・種族・民族・国家)など。
その在り様は客観的に語る事はできない。語るに相応しくはない。
何故なら、これらは語ったところで変わり得ないのだから。
客観的に語ることができないのであれば、政治の舞台には乗せるべきではない。
たとえば天皇家における男系/女系の論争。こんなものは政治的論争の対象とすべき問題ではない、中にはDNAがどうしたとか、歴史的にはどうだとかオカルト紛いの言辞も飛び交っていたが、そのような事は宗教的確信の中で語られる対象であって、政治的に解決を着ける問題ではない。
靖国における合祀/分祀問題*3も、そもそも神道というものの成立を考えれば、問題であれば分祀すれば良いだけにしか見えない。神道とは完全に人工の存在なのだから。
宗教がこのように政治を振り回すのであれば、政治は宗教を切り離すべきだ。
私のようなイスラムに疎い人間にはイスラム社会で起こっている「カリフ制」の問題は議論が混乱しているように見えるが、この日本の外から見れば、日本における天皇制や靖国の問題も同様に混乱した議論と映るのではないだろうか。
ヒトには様々な価値観がある。この価値観を元に、社会的リソース(財や空間や時間や地位)を獲得し、交換し、奪い合う。この奪い合いの一形態が戦争であり、その文化的な姿が政治だ。
ヒトの様々な価値観を形成する基盤には、宗教もあれば合理的な計算もあるだろう。
更に、宗教とまではいかなくても、それに近しい「確信」というものもある。
宗教的確信を持つ者に対して、その宗教的権威を貶めるような表現や批判は聞き入れられる事は無いだろうし、反発を生むだけだろう。つまり、宗教的確信について、言論は無効であり、政治の俎上にそれを乗せることは無駄だ。
ここで日本における政治問題の幾つかが、困難な議論に陥っている理由に気付く。
日本においては幾つかの政治課題が、政治問題、社会問題と意識されず、どちらかと言えば宗教的確信に近い物となっているのではないだろうか。
「反戦平和」「反原発」「反開発」「均衡財政論」「市場原理主義」
これらの政治的ドグマに対して議論を挑むとヒトは時に強い反発を起こす。
何故か?
これらの問題が、政治的課題ではなく宗教的確信になってしまっているからではないだろうか。「なぜ反戦平和なのか」という問いに対して、その問いを立てること自体に反発を感じる。「反原発が成立するのですか」という問いについて冷静な議論ができない。
「反開発」である事が至上の価値で、開発を求めることがまるで人類に対する挑戦であるかのように受け止められる。
東京都知事選挙の際に、小泉元首相が細川元首相を担いで「反原発」のワン・イッシューで都知事の座を狙った。
「政策」とはこのような場合、単に「支持」を得るための名分となり。
それは議論可能な「政治的課題」ではなく「宗教的確信」に近づく。
第二次世界大戦の際「民族自決」というドグマが世界を席巻した。
ナチス・ドイツはこのドグマによってラインラント進駐を正当化した。
極東においては日本が「東亜新秩序」というドグマを確立し、中国に対する進駐を正当化した。さらに「統帥権」という概念が政治の俎上から抜き取られ、政治の要件であるべき戦時行為が議論の対象から奪われ、軍部の暴走を許してしまった。
政治的文脈にのって権力を行使するのなら。または他者の権利を侵害しようとするのであるなら、それは宗教的確信に収まる問題ではない。その権力の根拠については議論の俎上に乗せられなければならない。
たとえばこの卑近な例が、大阪における「都構想」だろう。
続く