前々回お約束したように、トマ・ピケティの「21世紀の資本」を援用して、均衡財政論や名古屋市における河村流減税論の誤りを指摘するのはもう暫く後回しにします。
また、前回予告した相生山問題についての中日新聞の記事については幾度か書いては消しを繰り返していますが、他の気になった幾つかの事柄と合わせて論じてみたいと思います。その幾つかの気になった事柄というのは。
イスラム国による人質事件、それに対する中田考氏、常岡浩介氏の記者会見における発言。また、様々な動向や発言に対する考え方。
フランスにおける「シャルリー・エブド」に対するテロと表現の自由に関する問題。
さらに、昨年末のNHK紅白や年越しライブにおけるサザン・オールスターズのパフォーマンスに対する問題と、表現の自由について。
これらはすべて繋がっている。
問題は、政治を語る時に大切となる前提である。それは自分(話者)の立ち位置に対する自覚と、論じる対象に対する「境界線」の問題となる。
表現の自由は無制限に認められるべきか
まず「シャルリー・エブド」の問題について。
これについて私はある人と議論をかわした。
私の自論は「宗教は妄想である」というものだ。確かに宗教によって社会が成立しているという一面はあるだろう。例えば宗教の語る「来世観」と「因果律」が合致することで、社会を構成する成員に倫理的な拘束がかかり、社会を安定的に成立させることができる。簡単にいうと宗教によって「悪い事をすれば地獄に落ちますよ」と脅される事で、今生における行動に束縛をかけることができ、人々は一定範囲で盗みや殺人の危険性から解放される。
しかし、この「来世観」と「因果律」は副作用ももたらす。例えば先天的に障害を持って生まれた人物に対して「前世の因縁で障害を持って生まれた」というような謂われない差別を生む元ともなっている。
宗教の持つ一定の社会構成力は認めるものの、私は自論として宗教を信じることはできないし、個人的には全ての宗教的権威は脱構築されて、社会的に有益な倫理だけが共通了解として存続されれば良いと思っている。
そういう意味で、イスラムを揶揄した「シャルリー・エブド」の行為については、イスラム教の脱構築として、表現の自由の範囲なのではないかと思っていた。
この時、私の議論の相手は「宗教とはそのような単純に割り切れるものではない」「人間の社会はそこまで開明的ではない」と反論してきた。
この議論の際、思い出したのははるか昔、まだ昭和天皇が存命の頃に、ある人物とかわした天皇制をめぐる議論だ。
この時も、私は天皇制に否定的だった。
それに対して、その人物は自己の宗教的確信として天皇制を否定することができないと吐露した。日本はまだ十分に開明的ではなく、天皇家の存在を宗教的に盲信してしまっている人々が居る。こういった盲信を政治的、文化的に利用しようとする人々が居て、実際に、先の大戦はその目論見が成功してしまった訳だが、だからといって否定しきることもできない。自分の母親が侮辱されれば我慢ならないように、自分には天皇を侮辱されたなら、我慢がならない。と訴えた。
今回の「シャルリー・エブド」に対するテロにともなって、ローマ法王が同じような発言をされている。
法王は訪問先のフィリピンへ向かう機中で語った。表現の自由は基本的人権だとしながらも、もし同行者の一人が自分の母親をののしったら、「パンチがお見舞いされるだろう」と身ぶりをつけて説明。他人の宗教をばかにする人にも同じことが起きるとして、「他の人の信仰を侮辱してはならない」と戒めた。
http://www.asahi.com/articles/ASH1H7GYHH1HUHBI02M.html
私はこの人物との対話以来、自分では天皇に対する宗教的畏敬も、確信もないまま、それを尊重する事だけはしようと態度を改めた。つまり「他人が大切に思っているモノを、いたずらに貶める事は正当性を欠く」と思えたからだ。
つまり、「シャルリー・エブド」の問題において、表現の自由は無制限に認められるべきかという問いには、一定の配慮が必要になるという答えが自分には正しく思える。
また、これを援用するとサザン・オールスターズの問題に対する答えも出てくる。
サザン・オールスターズの問題は2層*1、2方向*2の問題を孕む。
その内の紫綬褒章の扱いに関しては、今まで述べてきたような考え方でそのまま答えになるだろう。桑田氏自身が、紫綬褒章に対してどのような心的態度で居たかはともかく、それに対して畏敬の念を抱く人々が少なからず居ることは確かなのだから、あのような扱いは「大人げない」行為であり「ポピュラリティ」を得られない。
エンターテナーとは如何なる存在か
彼らは誰もが楽しめるエンタテインメントに従事しているのだから、誰もが楽しめるパフォーマンスを提供する必要があったのだろう。
それとは別に、NHKで演奏した「ピースとハイライト」について、周辺諸国と対立を深める安倍政権に対する批判だと、当初安倍政権に反対する人々が称揚し、やがてそれらのパフォーマンスについて事務所との連名でお詫びを表明すると、その謝罪に対して失望の声が上げられた。
失望するにしても「ピースとハイライト」の歌う
歴史を照らし合わせて
助け合えたらいいじゃない
硬い拳を振り上げても
心開かない(ピースとハイライト 部分 作詞:桑田佳祐)
という言葉は真実であったのではないのだろうか。
そして、それが例えば隣国と対立する安倍政権に対する批判であったのだとしても、その矢面にサザン・オールスターズや桑田氏が立たなければならない義務はない。
彼や彼らは、そういった時代の気分といったものを形にしてみせるのが仕事であって、それを政治的に利用して矢面に立たせるのは間違っている。
例えば、最近アンジェリーナ・ジョリーの製作した映画「アンブロークン」が日本公開を取りやめた。原作に小笠原事件(参照)や九州大学生体解剖事件(参照)に対する言及が(たった一行だけ)有ったからだそうだが、映画本編にはこれらの表現はなく、日本兵による残虐行為も多分あったであろう程度以下にしか描かれていない。これで残虐というのであれば、「戦場のメリークリスマス」も公開できないのではないだろうか。*3
なんにせよ、一部憂国系*4のメディアが(事実誤認でも)騒いだだけで、映画の公開が取りやめとなって、数億円の興行収益が飛んだのだ。
サザン・オールスターズを反安倍、反右翼系バンドと同定することは、彼等の興行も困難にしかねない。
ここでちょっと一歩踏み込んで考えてみよう。
サザン・オールスターズは謝罪文で次のように述べている。
(略)
http://www.amuse.co.jp/saslive2014/
このライブに関しましては、メンバー、スタッフ一同一丸となって、お客様に満足していただける最高のエンタテインメントを作り上げるべく、全力を尽くしてまいりました。
(略)
ライブの内容に関しまして、特定の団体や思想等に賛同、反対、あるいは貶めるなどといった意図は全くございません。
(略)
彼、彼らはエンターテナーであり、その職責はエンタテインメントの提供だ。
「特定の団体や思想等に賛同、反対、あるいは貶める」事ではない。
これはこの通りだろうし、すでに述べたようにこの謝罪文に私は何も不足はないと思う。
しかし、「特定の団体や思想等に賛同、反対、あるいは貶める」事も時には「面白い事」であって、エンタテインメント足りうる。
テレビでは毎日のように「特定の団体や思想等に賛同、反対、あるいは貶める」番組が放送されている。
つまり、思想や政治、宗教でさえエンタテインメントの「ネタ」として消費されている。それが現代だ。
こうした姿をいち早く見抜いた作品がある。1976年シドニー・ルメット監督の映画「ネットワーク」だ。ここでハワード・ビールを演じるピーター・フィンチの演説がある。
悲劇的な演説だ。テレビ番組の虚構性を訴える演説自体、テレビの中で拍手喝采を持って迎え入れられてしまう。ハワードは言う。
「テレビは真実ではない、テレビはいまいましい遊園地なのだ。
テレビとはサーカスでありお祭りであり、曲芸団であり、講談師であり、踊り手で歌い手で、手品師で、見世物小屋でライオンの調教師でフットボール選手なのだ。
我々の仕事は退屈を殺す事なのだ!」
テレビは真実ではない。
あまりに当たり前の事だ。
しかし、私たちはハワードが言うように、テレビのように生活し、テレビのように装い、テレビのように発言していないだろうか?
目の前にある当たり前の日常や、手に触れる現実を無視して、テレビに映し出される虚像こそが現実であると思い込んでいないだろうか。家族や身近な人々の発言よりも、テレビの中の人々が語る事に信憑性を感じ、左右されているとすれば、それは最早妄想と現実の区別がつかないに等しいのではないだろうか。
大切な事は、サザン・オールスターズが曲に乗せて安倍政権の過ちを歌う事ではない。
大切な事は、私たち自身が自ら歴史を照らしあわせて、助け合い、柔軟な姿勢でそれを受け入れる事なのではないのか?
外務省: 日中歴史共同研究(概要)
続く
参照:
イスラム教徒として言おう。「言論の自由」原理主義者の偽善にはもう、うんざりだ | ハフポスト