市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

政治に無関心な国民は、愚かな政治家に支配される・・・のか?

 ちょっと面白い情報が得られましたので、急遽話題を代えます。

 この世にはもっともらしい体裁を持った「トンデモない代物」というのは幾つもあります。似非科学や迷信、デマの類です。

 有名な所では血液型性格判断や占いで、一定の節度を持って扱う分には「遊び」として許容もされるのでしょうが、企業が社員募集の際にその条件に血液型を挙げるというのは行き過ぎというものだろうと思います。

 その他にも最近話題になっているものとしては「EM菌」なども怪しげな様相を呈しています。

 こうした具体的、個別な事例だけではなく、最近では大学そのものにも色々と疑問が投げかけられています。

 その一つが「AO入試」と呼ばれるもので、慶応SFCなどが実施しているようだが、本当に有効なのか良く判らない。というか、慶応SFC自体、何か怪しげな感じが漂う。(そういえば竹中平蔵もここですよね)

 加藤寛の流れをくむ千葉商科大学吉田寛なる人物も居ましたね。
 過てる財政論 - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0
 証明とは - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0


 それに当ブログでは度々取り上げた日本政策ナントカ学校というのも、私の妖怪アンテナがビンビン反応を見せます。

 平成26年3月12日土木交通委員会(弥富相生山線問題) - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0


 批判に耐え得ない学など相手にする必要はない。

 自らを証明することができない主張に対しては耳を貸す必要はない。


 いやしくもヒトにモノを教えようという人間であれば、誤りを教えてはならない。
 もっとも深刻な誤りは「自説が正しいと思い込むこと」と自覚せねばならない。

 自説に対する反論を歓迎し、自説を常に強化しようとする者だけが学を語る資格が有る。

 肩書に安住し、怪しげな風評を売文するなど、曲学阿世の振る舞いである。


 在特会や次世代の党が騒ぎ立てる「外国人定住者の生活保護」だとか、河村市長も騙された「南京事件否定問題」などに代表される歴史修正主義。(さらにいうと「アイヌ」を否定した北海道道議や札幌市議、また図書館運営や地元産業の通販に無茶な施策を繰り返した佐賀県武雄市の樋渡(元)市長の市政運営とかも同列だろう)

 また、大阪都構想名古屋市の河村流減税政策など、ちゃんとした学問的議論が行われればわざわざ回り道などしなくても否定できるものだろう。学問領域における相互批判の環境が破壊され、逆に根拠のないオカルトが世間を跋扈する。

 今となっては小泉・竹中改革や郵政民営化も制度論、政策論的には怪しげなものであると断じる以外にない。誰が幸せになったのか?


 80年代ぐらいからだろうか、「価値相対化」という非常に厄介なドグマが支配し始めた。

 実在論は「神」または絶対的「真」の死により否定され、弁証法歴史観が正しいとされてきた。しかしそれも東西冷戦の終結共産国の破綻により、絶対的価値を失った。

 東西冷戦の終結とは、絶対的価値観の喪失であり「大きな物語」の無効を意味していた。

 そうした中で生物学や数学、経済学から「複雑系 ― complex system ― 」という知見が提示され、「多様性」にこそ可能性があることが示される。

 すると、各学会でそれまで否定されていた「説」が提示され、それに対して強い否定が行われなくなった(のだろうか?)

 「強い否定」が行われない「説」があたかも新説や信憑があるかのように扱われ、歴史学では歴史修正主義として利用され、経済学では縮小均衡論に行き着き、社会学では新しい公共*1というような行政の退行を促すような主張の根拠となったのかもしれない。

 「価値相対化」と「多様性」は供に「何でもあり」の状態を肯定しているように見えるかもしれない。こうした「何でもあり」の構えが、在特会などを生み出したと批判もされている。しかしそれは違う。在特会という在り様じたいが「多様性」を減ずるものであって、在特会という存在を解消しなければ社会の「多様性」は守れない。また、その在特会に対して(というか、それを構成する個々人に対して)否定してかかる態度は現実的ではない。
 個人が差別意識を持つこと自体は現実的には抑止しえない。
 差別意識を持ってしまった人間を、社会がどう受け入れて、どう共生をはかるかが課題となるべきだろう。

 まさか「差別をもった人間を抹殺せよ」とでも主張するのだろうか?

 それはそれ自体が先鋭化した差別意識なのではないだろうか?



 自己言及的な価値相対化論は不毛だ。

 「クレタ人は嘘つきだから、大阪都構想は成立する」

 このような言明は無効でしかない。*2

 いま、必要な事は在特会歴史修正主義者、無謀な革命(維新)主義者を生み出した「反知性主義」から決別し、真の「知性」に謙虚に耳を傾ける事だろう。

 オカルトとは決別すべきだ。


 実は最近ヘンテコな言葉に気が付いた。

 「政治に無関心な国民は、愚かな政治家に支配される」という言葉だ。

 なんでも「古代ギリシャの格言」なのだそうだ。


 ネット上でこの言葉を検索すると、Google などでは 95,600件もヒットする。

 Google


 ではギリシャの誰が言っている言葉なのか?


 それが分からない。
 出典も無ければ調査した形跡もない。

 不思議な言葉だ。根拠もあやふやなままどんどん孫引きが積み重なっているようだ。

 この言葉を愛知県図書館のレファレンスに問い合わせてみた。

 愛知県図書館 ホームページ

【質問の内容】

インターネット上に漠然と「古代ギリシャの格言」として
「政治に無関心な国民は、愚かな政治家に支配される」
という言葉があると引用されているが、

具体的にギリシャの誰が言った言葉か。
または、この言葉の出典は?


 そうしたところ次のような回答が得られた。

お問合せありがとうございます。愛知県図書館です。
12月1日付でメールフォームよりお問合せいただきました件について、調査した
結果は下記のとおりです。

「政治に無関心な国民は、愚かな政治家に支配される」という言葉の出典につい
ては、当館所蔵資料では確認する事ができませんでした。
お力になれず、申し訳ありません。


調査した主な資料は以下のとおりです。

『世界名言・格言辞典』モーリス・マルー/編(東京堂出版 2005.5)
『世界引用句事典 名言・格言・俚諺』梶山 健/編(明治書院 1979.11)
『世界格言辞典』丸山 林平/著(実業之日本社 1962)
『格言大辞典』芳賀 矢一/[ほか]共編(文昌閣 1916)
『世界の故事名言ことわざ 総解説 改訂第11版』江川 卓/[ほか]著(自由国
民社 2013.11)
『10代のための古典名句名言』佐藤 文隆/著,高橋 義人/著(岩波書店 2013.6)
『平和のための名言集』早乙女 勝元/編(大和書房 2012.8)
『英語で味わう名言集 NHKギフト〜E名言の世界〜』ロジャー・パルバース/著
NHK出版 2011.3)
『この哲学者を見よ 名言でたどる西洋哲学史』ピエトロ・エマヌエーレ/著
中央公論新社 2005.10)
ギリシア・ローマ名言集』柳沼 重剛/編(岩波書店 2003.1)
『世界名言集』岩波文庫編集部/編(岩波書店 2002.5)
『世界名言大辞典』梶山 健/編著(明治書院 1997.11)
ギリシア悲劇名言集』ギリシア悲劇全集編集部/編(岩波書店 1993.12)
『名言・名句新辞典』旺文社/編(旺文社 1990.6)
『世界名言事典 新版』梶山 健/編(明治書院 1988.7)
『東西名言辞典 17版』有原 末吉/編(東京堂出版 1986)
『世界の知恵 名言集』国松 孝二/編(白水社 1970)
ギリシアの知恵 古代名言集』山本 光雄/訳編,北嶋 美雪/訳編(社会思想
社 1966)


以上、よろしくお願いいたします。


 すばらしい。
 おおよそ信頼に足るであろう参考文献、18冊に当たっていただいて。
 それで無いというのであるから、出典など無いのではないだろうか。


 確かに、これで「不在の証明」ができたというわけではないが、この言葉が「古代ギリシャの格言」であるとされるには違和感があるとにらんだ自分の判断は補強された。

 もちろん「真の知性とは自分自身を疑うものである」
 この言葉の出典をご存知の方は、是非浅学な私にその出典を教えていただきたいものだが、それまでは「なぜ、今の社会はこのように根拠のあやふやな言葉が容易に流通するのか」と疑ってかかる事にします。

 それにしても、愛知県図書館は素晴らしい。


*1:私も最初の内は期待していたんですから共犯です

*2:橋下氏の一貫性の無い論理、つまり屁理屈は、それはそれで一つの反知性主義の表現型でしょう