市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

現代における正義の建て方 ―SEALDs の皆さんに。

 名古屋市会は9月定例会に入っている。主要議案が「名古屋城の木造化調査予算」とは、正気を疑うほどの太平楽だ。

 そうした中、15日の本会議でちょっとした騒動が起きたらしい。共産党の市議が「戦争法案が成立すれば、名古屋市も対応が迫られる」と質問したのに対して、自民、公明議員からヤジが飛び、質問終了後、公明党議員から「戦争法案と呼ぶのは偏った発言だ、品性が無い」と発言を議事録から削除するよう要請が入り、それに応えて共産党市議が「事実を踏まえた発言です」というような反論があったようだ。

 やはり、ここまで国の世論をにぎわせている話題については触れないわけにはいかないだろうし、ここで「戦争法案」という言葉に自民党よりも公明党の市議の方が敏感に反応したという事実は興味深い。

 ちなみにせっかく水を向けられた河村市長の回答は「名古屋市長として毎日、職務に励んでおります」だったそうだ。この政治的課題に対しては竿を刺すつもりは無いらしい。

 前回のエントリーで SEALDs の活動に一抹の危惧を持つと書いた。今日はその理由を書きたい。その為には「サブカルチャーとは何か」から書き起こす必要がある。

 サブカルチャーとは、社会的マジョリティーから逸脱した「下位集団」における文化、価値観の事とされている。社会的マジョリティーの持つ文化を「メインカルチャー」または「ハイカルチャー」と呼ぶに対して、その周辺に散在する様々な「逸脱」「落伍」を「サブカルチャー」と総称することになっている。その為、メインカルチャーには一定の中心軸、共通認識、コモンセンスが存在するが、サブカルチャーはそれぞれのサブカルチャーの間でも共通認識が成立せず、会話すら成り立たない事もある。であるので、「サブカルチャーとは」と一括りに語ることは非常に誤解を生みやすい。というか、そもそも誤りを内包している。という前提を置いて。
 それでもサブカルチャーとは何か、何であったのか。という事を考えると、それは「オーソリティー(権威/正統性)への懐疑/否定」であっただろうと思われる。
 「サブカルチャー」という言葉自体、80年代の「ニュー・アカデミズム(ニュー・アカ)」が輸入した概念であると言われているが、サブカルチャーの定義自体を「オーソリティーへの懐疑」と捉えると、その淵源は60年代に行き着く。その一つの傍証が赤塚不二夫の「天才バカボン」(67年)である事は疑いを容れない。
 マンガはいわゆる活字メディアに対してはサブカルチャーの位置にいる。そして、文学やら評論というメインカルチャーを批判し、脱構築する事で笑いを生み出していた。

 文学の権威を否定し、政治の正統性を無効と見做し、法律の解釈運営にも疑問を投げかけ、物理法則やら論理学すらも否定し、言語すら解体する。まさに神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬る。*1 すべての権威、「正しさ」を否定してかかるのがサブカルチャーの真骨頂だっただろう。

 何も、頭から信用するな。
 何も「正しい」と言えるものは無い。*2

 物理法則すら「決定論的」とは言えず、量子力学的には、神はサイコロをふる立ち飲み酒屋の縁台で、チンチロリンに興じるオヤジどもと同等となり、強固な論理構成を持つであろうと思われた論理学ですら、決定論から降りた。*3

 この世には何も確定的に言えることは無くなり、デカルトの考えていたような「要素還元主義」は誤りである事が証明された。(という事は、唯物論も誤りで、マルクスも誤りという事になって、共産主義やその他の社会的設計主義(維新の党などのいう設計主義はこの亜流、劣化コピーに過ぎない)は成立しえないという事になる。なので、私は共産党は原理的に誤っていると思っているのだ)

 サブカルチャーは様々なモノを脱構築していった。そして、脱構築していく中で、「何も決定的には正しいとは言えず、同等に間違っているとも言えない」という「価値相対化」に落ち込んでいく。

 何も正しくはなく、何も間違っていない。他人に迷惑を掛けなければ何をやっても良い。個人と個人が対話不能に陥り、そこに宗教の極北が生まれた。オウム真理教だ。

 オウム真理教はこうした「神亡き後」の社会におけるあだ花だった。*4


 サブカルチャーが文化を脱構築していく中で、本来サブカルチャーが「対峙すべき敵(政治的なるもの)を見失って、その表層的な形態のみを惰性的に継承したのが、つまり『サブカル』ということになる」



野間易通 徹底批判


 外山恒一が「レイシストしばき隊」(現「C.R.A.C.」)の野間易通を批判した文章だ。

サブカルチャー」を(略)標榜したのが、70年代後半から80年代前半にかけての非政治的な、というより反政治的な一群の若者文化である。日本の「サブカルチャー」の特質は、この自覚的な非政治性にある。(略)“政治を忌避するラジカリズム”とでも云うべき、奇妙な「サブカルチャー」なのだ(略)。それは“政治をも否定するほどのラジカリズム”だったと云ってもよい。

社会のあるべき姿を追い求める政治運動と並走する「カウンターカルチャー」とは異なって、そのような「正義の運動」こそが今以上の悪を生み出す元凶なのだという認識あるいは直観が、80年前後の日本の「サブカルチャー」にはある。

当時のそれらがいかにナンセンスな遊びやオフザケに終始していたように見えようとも、その背後にはそうしたラジカルなニヒリズムが存在し、彼らはあくまでも「マジメにフザケていた」のである。その“相対主義”も、政治的なるものが必ず招き寄せる“絶対的正義”を警戒しての、自覚的な選択である(略)。

 このラジカルなサブカルチャー運動が、対峙すべき敵(政治的なるもの)を失って、その表層的な形態のみを惰性的に継承したのが、つまり「サブカル」ということになる(もちろん語義的には同じ言葉である。たまたまそのような変質が起きる時期と「サブカル」という略称が広がり始める時期とが重なっているので、ちょうどいいから使い分けているだけだ)。

80年前後のサブカルチャー運動において、面白いもの、楽しいもの、カッコいいものは、あくまでも「正しいもの」に対置すべきものとして称揚されたのだが、「正しさ」を追求する政治運動が(一見)急速に衰退した80年代半ば以降、それらは単なる差異化競争、弛緩した面白主義、奇の衒い合い、趣味の問題へと堕した。サブカルチャーサブカルも一見同じように非政治的だが、サブカルチャーが反政治的であったのに対し、サブカルは単に没政治的なのだ。

サブカルには、サブカルチャーが抱え込んでいたラジカルなニヒリズムがなく、その相対主義も、ニヒリズム(ニヒル)とは似て非なるシニシズム(シニカル)、抑圧的な絶対的正義への対抗という緊張感を欠落させた、単にマジメなことへの無関心の裏返しでしかない「何でもアリ」的な物分かりのよさにすぎず、つまりリベラルなシニシズムがラジカルなニヒリズムにとって代わる。(略)

 野間に限らないのだが、サブカルの連中が何かの拍子に(9・11だったり3・11だったり(略))急に政治意識に目覚めると、ほぼ必ずリベラル派になるというケースばかりこの数年マノアタリにさせられて、当初これが私には不思議でならなかった。(略)

サブカルチャーの真摯な「正義」批判の結果としての相対主義を腹の底で理解していなかった、サブカルチャーならぬサブカルであったからこそ、連中はふとした拍子に目覚めると「人権」や「民主主義」などの安易な正義に飛びつくリベラル派と化して恥じるところがないのである(略)。

野間易通 徹底批判

 在特会に対するカウンター運動の現状についても一読に値すると思う文章だが、今はそういった個別的な運動や野間個人に対する言及をおいて、外山が仕訳した「サブカルチャー」と「サブカル」という概念に絞って話を進めたい。

 「サブカルチャー」は絶対性を信じない、徹底したニヒリズムに立つので当然「正義」を信じない。しかし不思議なのは、確かに外山の言うように、今の若者、それも「サブカル」に立っていたはずの若者*5が、安易に「正義」を信じてしまう姿である。反原発運動の現場*6や、在特会へのカウンターの現場で、「反原発運動は正義である」とか「在特会を排除することは当たり前のことだ」と答えられると息が止まるほど戸惑う。



 外山は「正義」に対する徹底した懐疑、ニヒリズムの重要性を言う。私が見るに、サブカルチャーがすべてを脱構築し、オウムが生まれた事を受け、様々な人が新たな「正義」または基盤を模索していたように思う。

 社会の中でどのような共通認識が可能だろうか、または共通認識を再構築することは不可能なのだろうか。

 少々前にはやったマイケル・サンデルなどが提唱している「コミュニタリアニズム共同体主義)」も新たな共通基盤を模索する動きだろう。

 こうした再構築を模索する時代の風景を切り取った歌がある。ザ・ブルーハーツの「情熱の薔薇」(1990年7月)だ。

 情熱の薔薇 / 作詞:甲本ヒロト

 永遠なのか本当か、時の流れは続くのか
 いつまで経っても変わらない、そんな物あるだろうか。

 見てきた事や、聞いた事。今まで覚えた全部。
 でたらめだったら面白い、そんな気持ち分かるでしょ。

 答えはきっと奥の方、心のずっと奥の方。
 (略)

 甲本ヒロトは「(自身の)心のずっと奥の方」に問いかけろ、答えはきっとそこにあると歌っていた。

 同様に、サブカルシーンでは士郎正宗のマンガ「攻殻機動隊」(1989年5月)においては「ゴーストの囁き」に耳を傾けろと表現されている。

 私の持論は「複雑系」の知見から*7。社会をより強固に、存続可能ならしめるものは、その成員がバラエティーに富んでいるべきであるという考え方を持った。効率性や統治の容易さから、成員を規格化、統一化する考えを持つ者は多い*8。しかし、そうした在り様は組織を緩やかな死へ導くだけだ。穏やかな革命は組織を活性化し、新陳代謝を促す。

 社会は多様性を内包すべきであるし、その方がより存続可能性を持つ。

 その社会の多様性を促す方策は、社会をより存続可能ならしめるために、社会的には「正義」と言えるだろうし、排外的に社会の多様性を低下させるような行いは、社会自体を脆弱に貶める行為であって社会的には「正義」とは言えない。*9

 つまり、すべての権威を疑い、社会を脱構築し、正義を疑い続け、ニヒリズムに至った「サブカルチャー」は、「社会の存続可能性」という価値観と「多様性」という戦略を得ることで、成員全員の最大公約数を得ることができる。共通基盤を見出すことができる。*10

 つまり、この限定空間において、脱構築しつくした社会においても「正義」は成立しえる。

 しかし、反原発を「当たり前」と言ってしまい、在特会を「排除しろ」と言ってしまえる論理には、こうした共通基盤模索の苦闘を感じない。単に自分が嫌悪する対象に対して、それを排除しようという態度にしか見えないのだ。


 ある人物*11はこう言った。「カッコイイ政治運動なんて危なすぎます」

 今回の安保法制でも、軍備など外交の一形態でしかないという議論が無い。
 日本政府が外交的な努力もせず、軍事的法整備ばかりを進める姿は異様に映る。

 同様に、政治とは闘争だ。戦いなのであり、奪い合いでしかない。その姿が「カッコイイ」のは確かに恐ろしい。その表層的な姿だけを追い、内実に対する批判や反省(内省)を失えば、そんな暴力的なことは無い。

 その人物はルワンダ虐殺を想起するといった。ルワンダ虐殺においては、現地のラジオ局がポップな曲をかける中、その音楽に合わせて民族間対立が扇動されていった。当時、虐殺の現場では、そうした行為がポップで「カッコイイ」行為だったのだ。

 だからといって、私は政治活動をするなと言っているのではない。逆だ。現在の若者は、特に無産階級の若者は政治的に収奪され過ぎている。ここは立ち上がって政治的な収奪をすべきだ。「正義の闘い」ではなく、「自身の為の当然の権利を獲得する政治闘争」をすべきなのだ。

 現在、SEALDs は「安保法制反対」「強行採決反対」というワン・イッシューで「闘っている」としている。参加者には「改憲派」も含まれるらしい。

 その強行採決は間近に迫っている。

 それを受け、最近「安保法制に賛成を投じた議員を落選させろ」という運動方針に転換したようだ。つまり、運動のターゲットを来年の参議院選挙まで伸ばしたという事だろう。

 しかし、私が見るところ、本当にそれで良いのだろうかと思えてしまう。

 彼等が掲げるべき政治課題は「雇用法制」なのではないだろうか。



追記(9月20日):
そ〜ら、言わんこっちゃない。というような混乱した発言がツイッター上で見られる。

小池一夫氏のツイート(作品からの引用botかな?)に対して

野間さんはこう反論する(それも、非常に硬化した論理構成で)

どこかに「全き正義」があると野間氏は「信じている」
しかし、古今東西の歴史の中で散見される「正義の暴走」を下支えする論理は、まさにこれ。

私は「正義」も批判に対して開かれていなければ「正義」ではないと思っている。
(多様性を容認する事とは、その多様性を容認する在り方すら否定する<考え>をも包括して容認する事だから(<考え>をね。すべての<表現>を共有する/できるとは思っていない))

「<考え>を容認するがすべての<表現>を共有できるとは思っていない」については
2015-01-21 政治を語る時に大切な前提(1) を


追記:

いったいどこの世界に、不当逮捕されたデモ参加者にたいし「帰れ!」コールをくりかえし浴びせ、警察に感謝するなどという反戦運動があるのだ?だまっていればいい気になりおって、いったいどこの世の中に、気にくわないデモ参加者の物理的排除を警察当局にお願いする反戦平和活動があるのだ。よしんばかれらが××派だろうが○○派だろうが、過激派だろうが、警察に〈お願いです、かれらを逮捕してください!〉〈あの演説をやめさせてください!〉と泣きつく市民運動などあるものか。ちゃんと勉強してでなおしてこい。古今東西、警察と合体し、権力と親和的な真の反戦運動などあったためしはない。そのようなものはファシズム運動というのだ。傘をさすとしずくがかかってひとに迷惑かけるから雨合羽で、という「おもいやり」のいったいどこがミンシュテキなのだ。ああ、胸くそがわるい。官憲にまもられた権力の絶対安全圏で「ハナハサク」でもうたっておれ。国会前のアホどもよ、ファシズムの変種よ、新種のファシストどもよ、安倍晋三閣下がとてもとてもよろこんでおられるぞ。下痢がおかげさまでなおりました、とさ。コール「民主主義ってなんだあ?」レスポンス「これだあ、ファシズムだあ!」。かつて、ぜったいにやるべきときにはなにもやらずに、いまごろになってノコノコ街頭にでてきて、お子ちゃまを神輿にのせてかついではしゃぎまくるジジババども、この期におよんで「勝った」だと!?だれが、なにに、どのように、勝ったのだ、トウヘンボクめ!おまえらのようなオポチュニストが1920、30年代にはいくらでもいた。犬の糞のようにそこらじゅうにいて、右だか左だかスパイだか、おのれじしんもなんだかわからなくなって、けっきょく、戦争を賛美したのだ。国会前のアホどもよ、安倍晋三閣下がしごくご満悦だぞ。

http://yo-hemmi.net/article/426123419.html





*1:この言葉も「臨済録」からと思うとまた面白い

*2:それでいて、赤塚は、それらのありのままを「これでいいのだ」と肯定したのだ

*3:前者がハイゼルベルグ不確定性原理で、後者がゲーデル不完全性定理

*4:表現の自由が無制限に許されるという誤解から生まれたのが「在特会」という事になるのだろう

*5:「権威」の発言を鵜呑みにせず、自分の頭で考えようとしていた人たち

*6:私は反原発ではない

*7:ミッチェル・ワールドロップの「複雑系」が刊行されたのが、2000年?もうちょっと前のように思えたんですけど。この辺り不明

*8:アホな経営者の経営する企業とか、アーリア民族独裁をのたまわったアノ国とか

*9:私から見ると、自殺行為に見える

*10:当然、限定的な「正義」でしかない。中学、高校の数学がユークリッド空間を前提にし、物理学が量子力学的知見を無視して語られるのに似ている

*11:この人物は、上記の私の「正義論」にも懐疑的だった