市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

表現行為は全てヒトを傷つけえる刃物である

表現行為は全てヒトを傷つけえる刃物である

3月12日に中日新聞は社説で大阪維新の会が行おうとしている「大阪クロス選」について
地方自治の私物化ではないのか」ともっともな批判を載せている。

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中日新聞は、東京、永田町や霞が関の事や、大阪の事になると理性的でもっともらしい事を書くくせに、地元の名古屋の事となるととんと意気地の無い「忖度記事」を書き出す。

それがこの記事だ。

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「減税・維新で新党も」「河村市長 参院選候補擁立を視野」と、減税日本と維新の会で「新党結成も視野に協議している」とぶち上げているわけだ。

これに対して維新代表の松井大阪府知事は即刻否定する発言をした。

維新、減税との新党否定 参院選向け河村市長の検討発言に

3/12(火) 20:37配信 共同通信

 名古屋市河村たかし市長は12日の定例記者会見で夏の参院選に向け、自身が率いる政治団体減税日本」と日本維新の会との新党結成を巡り、維新の国会議員と考えていくと明らかにした。その後、維新代表の松井一郎大阪府知事は府庁で記者団の取材に応じ「新党は考えていない」と否定した。

維新、減税との新党否定 参院選向け河村市長の検討発言に(共同通信) - Yahoo!ニュース

キャッシュ : http://archive.is/mVdhe


つまり、この「忖度記事」は誤報である。

「市長会見における発言をそのまま掲載したのだから誤報ではない」と主張するのかもしれないが、そう主張する者は大本営発表を垂れ流した戦中の報道を批判できない。官公庁やら権力者の発表を、「横から縦にするだけ」*1なら、記者など要らない。

この件でも名古屋にも維新の代表者は居るのだから少し確認すれば済む話だろうし、大新聞社なら大阪にも記者は居るだろう、そうしたリソースを使って「裏取り」ぐらいしてから紙面に載せるべきだろう。

中日新聞を読んでいると、
減税政策は1128億円の効果があると勘違いしたり、
河村市長は尾張藩士の末裔と思い込んでいる市民が生まれ、その誤解が定着する。

なぜなら、中日新聞はこうした「誤報」(または、根拠の薄弱な報道)について、訂正や検証をしないから。

禍福は糾える繩の如し(後編) - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

マスコミは「社会の木鐸」と言われる。「木鐸」とは、木製の「舌」を持った金属製の「鐸(鈴)」の事らしいが、「自らの身を打ちならして、社会に警鐘を与える」事をいうのであって、自らの身を打つ気の無いもの。自らの在り方を批判的に見られないものはジャーナリズムや報道の名に値しない。

いったい今まで、あのいい加減な市長の言葉を垂れ流して、何度誤報を打ってきているのだ?
(何回、中部国際空港あおなみ線の延伸をしたのだ?)

話題となっているテレビドラマ「3年A組」でインターネット上の発言が、「ヒトを傷つける刃物となっている」との主張がされ、主演の菅田将暉の熱演もあってそうした主張が一般に広がっている。それはいいことだ。

しかし、この主張には2つの違和感がある。

一つは、こうした言葉が、健全な批判を抑圧する圧力につながる可能性に自覚的でなければならない。
私は匿名の表現行為を肯定する。(問題は、そうした根拠のあやふやな情報に振り回される人々だ、匿名での情報提供について、何らかのリアクションを起こすのであれば、少なくとも裏を取るなり、周辺情報を確認するなりの行為をし、自分なりに考えて、自分の起こそうとしてるリアクション、行為について責任を引き受けるだけの覚悟は必要だろう)この社会は十分に複雑で全てが公平ではない、そして個人には権限も時間も限られている。そうした個人が「告発」を行おうとすれば、匿名で守られる必要もあるし、そうした告発行為を圧殺する社会はとても生き辛いものになるだろう。

なので、ツイッターだろうと、2ちゃんねる(まだあるのか?)だろうと、匿名でのどのように酷い表現行為であれ容認する。(くどいようだが、問題はそれを受け止める側にある。そのような無責任な情報をどのように受け止めるのかという社会の側の合意こそが重要だ)

一つは、ドラマでも取り上げられたような「インターネットにおける匿名の無責任発言の暴力性」だけが問題なのではないという事だ。そもそもすべての表現活動は、多かれ少なかれヒトを傷つけうる。逆にヒトの心に届かず、それを抉らないような表現行為こそゴミだ。(こうした表現もまた、刃物なのだろう)

最近、京都造形芸術大学で行われた公開講座で「精神的苦痛を受けた」と芸術家の会田誠氏が訴えられた。
その直前、当の会田誠氏が兵庫県立美術館で公開した「ねぶた」作品が物議を呼んだ。

これは間違いなく、会田誠氏の講座や作品が人々の心を揺り動かした結果だ。

「容認されうる表現行為*2」や、「良い表現行為」などない。そんな線引き自体「ヒトを傷つける表現行為(さらにいうと、そうした加害に無自覚な行為)」だ。

追記:あったまの悪い者からの「質問」が入ったので追記しておく。私は上で「匿名でのどのように酷い表現行為であれ容認する」と言っているのに、ここで「容認されうる表現行為」などないと言っている。これは矛盾するのではとの「質問」だが良く読め。上の「容認する」主語は「私」であり下で「容認されうる」とする主語は「社会一般」だ。私は容認する態度であるが、社会一般で「容認されうる」と予め規定できるような(良い表現行為、または正義の)表現行為など無いという事だ。

大切なことは表現行為はすべてヒトを傷つけえると自覚することで、表現者は常に自ら批判を受けるという自覚と覚悟が必要であるということだ。

特に、今の中日新聞に見られるように、東京や大阪の事は他人事のように大上段から振りかぶった批判をするくせに、地元の名古屋の事について批判精神の欠片も感じられないような記事を見ると反吐が出る。いわゆる「総論賛成各論反対」の思考停止に陥った、覚悟や内省性のない作文に過ぎない。

議員報酬の半減論や市民税減税論は誤った、または一般性を獲得しえない歪んだ政策だ。

ここにきてこれはハッキリと言えるだろう。なぜなら、議員報酬の半減も、市民税減税も名古屋以外では続いていない議論だからだ。名古屋でだけ、なぜこの主張がまかり通るのか、なぜ、名古屋でだけこの歪んだ主張に疑問符が付かないのか。それは名古屋市の、特に市政に影響力の有るメディアが歪んでいたからなのではないのか。

市民税減税、議員報酬半減(市職員の報酬削減)、二重行政批判、財政再建論。つまりは、小泉竹中構造改革以来の縮小均衡論、または財政再建論、はたまた行政の効率化論は、誤りであり、批判されるべき主張だ。

「豊かさはお金の形で貯め込めると思っている病(やまい)」(by 「キミのお金はどこに消えるのか」)だ。

こうした誤った経済理論から脱却しなければ、日本の経済は立ちいかないし、少子化=人口減少も止まらない。つまりは、日本の社会自体を根底から毀損する、亡国の論理がこの縮小均衡論だ。

ついでに、ここで言っておくと。どこかの夕刊紙が「議員報酬を83%も一気に引き上げた地方議会」として名古屋市議会の「議員報酬適正化」を批判したようだが、83%を一気に引き上げたことが批判されるのであるなら、50%一気に引き下げたことはいったいどう扱われるべきなんだろうか。漠然とした地方議会、地方議員に対する不信感から、ミソもクソも一緒にするような名古屋市会に対する批判を浴びせかけて、その議員報酬を一気に半減するような議論や論理は、妬みや嫉みに起因した、まさに暴力的な主張ではないのか。

地方議員も一つの職業であり、議員報酬は労働の対価としての報酬だ。それをその中身も満足に理解しないまま引き下げを求める主張は、精神的に貧しすぎる。そして人々の妬みや嫉みに阿った政治的主張(なんとも姑息でさもしい政治的主張であることか!)がまかり通る社会はあまりにも醜い。

私たちは、そろそろこうした縮小均衡の悪循環を断ち切って、相互に労働者を、生活者を守る態度に切り替えるべきだ。
誰かが高い報酬を得ているのなら、それはそれで称賛すればいい(ヒトの報酬に確たる根拠などそもそもない)。そして、我々の手元にも、そうした配分が適切に回るように、制度設計すべきだ。他人(ヒト)を妬みから引き下げるよりも、自分の手元にも必要なものが得られるよう主張すべきではないのか。

構造改革という名の刃物が、財政再建論という刃物が、「子どもたちにツケをまわさない」というデマゴギーが、この国を今のような形に彫塑した。そうした表現行為と言う刃物が、この国をアンバランスで、若者が子どもも持てない、所帯も構えられないような国にしてしまった。
表現行為はこの歪んで醜い社会を、彫り直して、バランスのとれた誰もが豊かな社会、若者が子どもを育てられるような社会にも作り変えることができる筈だ。

その手に握ったペンは、社会を今こそ、そのように彫り直すことのできる刃物なのではないのか。



追記(3月15日):
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誤報の上塗り

それでこれだ。
最後に「構想を否定しなかった」ときた。ならそうした構想はあったのか?
中日新聞だけ読んでいると松井代表の新党否定発言は名古屋市民に届かない。
つまり、全国的な常識と、名古屋市民の認識はここでもズレる。

名古屋市でだけ、市議報酬半減などと言うキチガイ沙汰の話が、あたかも「政策論議」であるかのように議論されている原因であり、日本全国すべての地域で否定された、住民税減税政策がまだ(3.75%とはいえ)続いている原因だ。

木鐸が、自らの身を叩くことを厭い、保身に走ったがために読者が、市民が、歪んだ事実を突きつけられている。

まあ、好きにすればいいんじゃない?
他地域から名古屋市の異常性を批判されても、名古屋市民は気が付きもしないだろう。気が付けるメディアがそれを伝えないから。しかし、将来の名古屋市民は、1世代、2世代後の名古屋や市民はこのズレに気が付くかもしれない。

このような歪んだ報道は歴史の検証に耐えられるのだろうか。



告知:
名古屋城天守有形文化財登録を求める会」が起こした名古屋城木造化事業における住民訴訟
第一回公判の日程が決まりました。
5月16日(木)午後2時より
名古屋地方裁判所 第1102法廷 です。

名古屋城天守の有形文化財登録を求める会


*1:記者会への報道資料は横書きで示されるので、それを新聞記事の縦書きにするだけの記者を揶揄した表現

*2:いわゆる「ヘイトスピーチ」や民族差別表現をめぐっての私の今までの主張と揺らいでいると思われる方も居るかもしれないが、本論を大きく外れるのでここでは述べない。短く言うと「容認されない表現行為」は有り得るが「容認されうる表現行為」と言えるものは無いという事だ