5月3日なのでちょっと憲法の話でもしてみましょうか。
自民党憲法草案の話
そもそも憲法は権力を執行する者に対して、国民が与えた「枠」であるから、国民の義務が少ないとか、憲法に理想の国家像を盛り込むとか。そろそろ止めて欲しい。
憲法なんぞに書き込まれていなくても、国民の果たすべき義務は法律だの条例だのに山ほどあって、日本国民に生まれたら届出をしなければならない義務があり、死んでも届け出る義務がある。日本国民は生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで国から要請されている義務の中に居る。(「出生届」がどの国にもあると勘違いしている人が居るのがおかしい。どこまで「お上意識」が抜けないんだと思える。)
憲法なんて、人生でそう何回も読まない文章に(というか、一回でも通読しているとすると、ちょっと変わり者なのかもしれない)理想の国民像、国家像を描いてみたところで、そんなものが実現しない事はわかりそうなもんだ。
自由民主党は結党以来自主憲法制定は党是なのでその草案を提示する気持ちはわかる。
しかし、その品質はどんどん落ちて行っているようにも思える。
そもそも「保守と右翼」でも書いたように、真っ当な右翼であるならば、このような「はかりごと」を活動の軸に据えるのは論理矛盾であるし、そのような過誤が、昭和における国家の危機をもたらしたという歴史の教訓を汲み取るべきであろう。
そして、保守であるならば現行憲法がこの半世紀にわたって為してきた事柄にももっと謙虚な姿勢があってもいいだろう。
少なくとも、急進的な憲法改正がこの国を今以上に良くするとは思えない。
そして、戦後のあの時期よりも今の日本人が優れているとも思えない。
"自由民主党 日本国憲法改正草案(現行憲法対照) 平成二十四年四月二十七日"
も、前文がもっとも失望させられるが、それはおくにしても。
第九条の二の2「国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」とは何事ですかね。
この「その他の統制」って何でしょうか。
国連でしょうか。実際には米軍ですか?
憲法という基本法に主権を譲り渡すような文言を入れ込む必要があるのでしょうか。
右翼というのは「大御心」に任せる智恵を持っているのでしょうし、保守も歴史と伝統に積み重ねられた智恵を読み解こうとする態度を持っています。左派でも社会民主主義、または共同体主義者は「公共的推論としての民主主義」を標榜し、世代を超えた推論として、法の力を捉えます。
設計主義者はあたかも「今の民意」だけが全てであるかのように誤認し、荒っぽい「改革」を振り回します。
まったく、自分たちの頭で考えただけの空想で物事を語ります。大阪都構想、減税政策、市民市役所、尾張名古屋共和国。
現実に則していない政策の醜悪な姿
それらの妄言も「今の民意」の中で検証されれば宜しいのでしょうが、一部の人間が誤認したまま、ただの思い込みで現実のものとなってしまうところに失政の原因があります。
大阪維新の会 大阪市議会議員団が「家庭教育支援条例(案)」を発表して、各方面からその異常性が指摘されています。
自由法曹団が内容を公開しています。
大阪市・家庭教育支援条例 (案) ――― 全条文 (前文、1〜23条)
これについて問題を指摘しようとしましたが、すでに問題点をほぼ全て網羅しているコンテンツがありましたので個々の指摘はそちらに譲ります。
大阪維新の会のエセ科学的「家庭教育支援条例(案)」逐条批判[絵文録ことのは]2012/05/03
大阪市「育て方が悪いから発達障害になる」条例案について - 泣きやむまで 泣くといい
この文章にあるように、「親学」といったようなエセ科学による妄想を根拠とした政策で、こんなものを行政が推し進めては地域社会の子育てが破壊されてしまいます。まかり間違えば偏見を助長し、却って負担を加重にし、問題*1を深刻化させかねません。
こういった偏った知識、エセ科学の元について、こちらでも触れられています。
大阪維新の会 トンデモ条例案の黒幕
こういった思考の底流に流れているものがこれのようです。
http://www.moralogy.jp/news/505100730-Kz2/index.html
信教の自由でしょうから、どのような宗教や信条をもたれてもそれは自由です。
しかしそれを公教育の場に持ち出そうと言うのであれば実証性が必要ですし、そういった相互批判に耐えられるものでなければなりません。
「親の育て方で子どもの発達障害が予防できる」という議論は、容易に「発達障害を抱えた子どもは親の育て方が悪い」という論理の転倒を引き起こしかねませんし、そうやって「親の責任」ひいては「自己責任論」にまで行き着きかねません。
先天的な器質障害の可能性があるのであれば、それを個性として受入れる社会を「思い出す」必要があります。
(上記松永氏の文章中に「まれびと」の例を引いていますが、日本における中世庶民文化(特に大阪)の中には(伝統的に)このような柔軟性があったのでしょう。そうした事が忘れられているとするならば、日本の伝統を継承する教育が弱体化しているのです)
この「モラロジー」という団体については、この名古屋の減税日本の中にも関係者が居るとか。こういったエセ科学が愛知県において取上げられないように監視したいと思います。
「新自由主義」は「優生思想」と親和性が高い
この条例案が踏まえる発達障害の認識は、一歩間違うと「優生学」や「優生思想」にまで行き着きかねない危ういものが含まれていると思うのですが、もともと「社会的ダーウィニズム」として取上げられる「優生思想」は競争原理を思想的基盤とする「新自由主義」とは親和性が高いのでしょう。
「新自由主義」や粗雑な「愛国思想」を語る人に、「優生思想」の陰を見る機会は多い。
これは上山信一氏の例。
アーチャン8歳6ヶ月 - プラダーウィリー症候群(Prader-Willi Syndrome)の情報のメモ
医療とは不思議なもので医療水準が向上すればするほど病人が増える。検査で早期発見される。その上、弱い遺伝子を抱えた人たちが生き延びる。世代を重ねるごとに人類は病弱になるという説もあるほどだ。とにかく手間とお金のかかる病人が増えていく。かつて人は年をとると病気を抱え、寝たきりになりほどなく死んでいった。しかし医療が充実すると深刻な病気を抱え寝たきりで長生きする老人が増える。長生きは個人と親族にとってはうれしいことだがマクロの行政コストという意味ではバッドニュースである。」
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20080310/295731/?ST=govtech
これは(私が大嫌いな)渡部昇一氏の例。
「未然に」避けうるものは避けるようにするのは、理性のある 人間としての社会に対する神聖な義務である。現在では治癒不可能な悪性の遺伝病をもつ子どもを作るような試みは慎んだ方が人間の尊厳にふさわしいものだと思う。
http://www.livingroom.ne.jp/db/h003.htm
条例案作成能力があるだけマシ?
この「家庭教育支援条例(案)」は大阪維新の会の大阪市議会議員団が「案」として作成した段階で、まだ市議団のなかで議論している段階という事です。
また、上記各文章で指摘されたように、「県」と表現されている部分があることから、埼玉などで取上げられた案を大阪に持ち込んだのではと推測されています。
しかし、まだこうやって「条例案」を作ろうという意識や、提案能力があるだけマシかもしれません。
名古屋の減税日本の市議団は、最初こそ「議員報酬半減案」を提出しましたが、それ以降の「市民税減税7%修正案」はトンチンカンな代物でしたし、それ以降何をしているのかさっぱり不明ですからね。
減税日本ナゴヤでは、最近ドアの開け閉めが多いのですよね。別に隠し事なんぞする必要もないから、ドアなんか開けっ放しにしておけば良いのに、必ず「バタンッ」と閉めるわけです。
原因は判らないのですが、非常に情報統制に過敏になっているようです。口さがない人は、減税日本ナゴヤの控え室を「北朝鮮」と呼ぶようです。
そして団総会では以前にもまして意見が出ないようですね。決定事項は執行部が別室で長々と話し合った結果決まってくる上に、その話し合う議論の題材となる情報まで、予め何も説明がないので、メンバーは発表を聞いて「ああ、その事を話し合っていたんだ」と理解する次第。大抵の事は意見を言う隙間もなく幹事会が決定して、事後報告となるようです。
そもそも意見を言ったり、希望を言っていても幹事にも決定権が無い。結局代表である河村市長が事情も判らずに押し付けてくる事を、幹事が下達するだけなので無駄なんですね。
こんな不活性な組織からはこういった「条例案」も出てこないんでしょうね。
追記:中島岳志氏が北海道でラジオ番組を持っていてインターネットでも聞く事ができる。
中島岳志のフライデースピーカーズ | FM76.2Mhz 三角山放送局 internet radio from sapporo
本日(5月4日)15時〜17時には
<「大阪維新の会『家庭教育支援条例案』を問う」。「わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できる」という暴論に現れる「維新の会」の問題とは何か?>
として、この問題を取り上げる模様です。
(後日、録音も聞けると思います)
寝ぼけていて書き漏らしました。読み直していると文章もいつもにもまして酷いですが、まあしょうがない、ご勘弁ください。
*1:人間が「問題」を認識するのは、こうあるべき、こうありたいという姿と現実がギャップする事で。変えられない現実を受入れられない事こそが「問題」であり、変えられない現実を「問題」視すべきでない。「問題」と捉えることは単に消耗するだけと考えます。