市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

犠牲を強いる社会とは

犠牲を強いる社会とは

 今日はイントロから映画の話。映画の中でも戦争映画、それも海が舞台と言うことになると「潜水艦もの」というのは多いですね。最近でも「クリムゾンタイド」や「K―19」やら、昔の名作で言うと「眼下の敵」そういえばドイツのウォルフガング・ペーターゼン監督の「U・ボート」も名作だろう。
 こういった作品に共通するシーンがある、艦や全員を守るために、閉じ込められた部下を犠牲にするという決断を迫られるシーンだ。

 こういった不条理を、これは潜水艦の映画ではないが「プライベート・ライアン」でスティーブン・スピルバーグは「一人の部下の犠牲で、明日は大勢の命が助かるんだと自分自身に言い聞かせている」とトム・ハンクス扮するミラー大尉に語らせている。

 いったい何の話かと思われたかもしれないが、こういった戦争と言う究極の闘争状態、競争状態において、「少数の犠牲によって、それより大勢の犠牲を防ぐ事」は認められる事なんだろう。

 では、会社においてはどうだろうか。
 経済競争という奪い合いをしているのであるから、リストラと言う犠牲によって全体を生かすことも、この日本においてはいつの間にか「アリ」ということになってしまった。

 それでは、社会や国家はどうなんだろうか。
 社会的配分において、一部の犠牲を求めて、社会や国家は存続を認められるのだろうか。


 ある方が「橋下市長に『ついてゆけない』ひとたち」という一文をインターネット上に載せられて、凄い主張をされている。その方を批判したいわけでも、その方と論争したいわけでもないので、敢えてここではリンクを張らずに「陰口」モードで若干引用させていただくが。今の日本ではこのような主張も成立してしまうのだろうか?

「ついてゆけないひと」の気持ちはおもに2点だろう。
(略)
a.やりかたが嫌、というのはおそらくどうして橋下市長がこういう手法をとっているのかが判らないのだ。
彼らにはたぶん唐突にどんどん進んでゆくようにみえるので「独裁」となる。
b.保証がみえなくて嫌、というのはリスクへの知識不足からきており、はやく投資教育を必須科目にすべきとおもう。

(略)
ようは「ついてゆけない」のはビジネスモデルが理解できないということだろう。

ビジネス脳がないと、橋下市長の行動則はたぶん理解しにくいのではないのか。
ビジネスをやってる人間からすると、橋下市長のやってることは至ってふつーのことだ。

・カスタマーへフォーカスする。
・細部をつめないで前にすすめる。
・やりながら最適化する。
・手法に執着しない。
・状況は変化してあたりまえ。
・言ってることも変化してあたりまえ。
・やってることも変化してあたりまえ。
・目標達成の最短行動をえらぶ。
・ぜんぶをコンセンサスとる必要はない。
・決定してから手法をかんがえる。

(略)

「ついてゆけないひと」は、少数を切り捨てる勇気をもてないかわいそうなひとだ。
少数を切り捨てるというだけでおそらく「大問題」になるのだろう。
結果、多数の最適化がとれないことになっても、それ自体にも不満をもつのでおんなじだ。
これが日本の縮図で、けっきょく、「ついてゆけないひと」というのは「決定できないひと」のことなんだ。
決定するための判断軸が多すぎて、しぼりこめないのだ。
だから、決定するひとが現れると、「保証」を要求する。「保証」がないと前に進めない人間なんだ。
橋下市長があたらしいことを打ち出すだけで恐怖し安全かどうか担保をしろという彼らこそ「モンスター」にちがいない。
(略)

 乱暴な話だ。

 私企業であれば、確かに(10ほど挙げられている)そういった橋下市長の手法は理解できる。しかし地方自治体の長としてはあってはならない事だ。なぜならば私企業のトップはリスクを自身でヘッジしているからだ。失敗して潰れるのは自分の所有する、または生活の糧となる企業であって、他人の物ではない。しかし地方自治体の長は違う。彼が運営しているのはあくまでその地方に住んでいる住民全てのものであって、多数者の投票によって選ばれたからには、彼を支持しなかった住民も、(発生するかもしれない)彼の失政による損失を甘受しなければならないとするならば、そこには権限と責任のズレがある。

 アドルフ・ヒットラーはベルリン陥落の際に市民を避難させるという進言に対して「国民がどうしたっていうんだ?!やつらが選択してこの事態を招いたんだ。自業自得だ。知ったことか!」と語ったそうである。

 民主主義や多数決主義の醜悪な一面を見るようでやりきれない。

 そして、そのような事が受容されている、この今日の日本という社会の劣化に恐怖する。

 それこそ反橋下の論者でもあった内田樹氏はなら「そもそも少数者を切り捨てたり、例えば潜水艦の中で部下に犠牲を強いたりしなくても良いようにするのが、リーダーの務めなのではないか?」と言われるかもしれない。

 ・・・そうでなくても、上の立論は成り立たない。

 繰り返し言うが、私企業や橋下家の家訓であれば好きにしてもらっていい。それは「愚行権」といって、いわゆる「自己責任」の範囲内だ。しかし、こと公共と言う空間においてはこれは成り立たない。なぜ成り立たないか。

 憲法と言うのは最高法規であって、形式として国民が国、行政機構に突き付けた「約束」である。(憲法に定められた国民の権利と義務がアンバランスだ、などという幼稚な議論は憲法のこの「方向性」を理解していないだけだ)

 この中で
第15条 2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

 つまり、地方の長は全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。あってはならない。もしも、それはできないと言うのであれば(例えば、自分を支援してくれる人たちのために働くのであって、自分を否定するヒトのためには働けない。というのであれば)公務員として禄を食んではいけない。

 そして、すべての国民は「切り捨てられる」というような事を承知していない。

 公共とはこういったものであって、それを舞台にゼロサム・ゲームは展開しない。社会的リソースの奪い合いは政治の上ではなされるけれども、「切り捨て」を容認するようにはできていない。そもそもこのような奪い合いを顕在化させること自体が知恵がない。公共政策上は「パレート改善」を図りつつ施策を進めるのが、特に地方自治において当然の姿なのである。

 つまり、この立論は新自由主義的な考え方に立ってはいるのだろうが(そして、それを企業社会などで適応させる事には否定はしない、お好きにどうぞ、けれど、あなたが「切り捨てられる立場」になったときには、是非私を呼んでいただきたい。と思いますが)
 公共的な場面では絶対的に間違っている。
 文明を否定する言葉になっている。

 実は、この文章に対して上山信一さんが好意的に受け止めていると言うことのようなので、ちょっと困ったものだと思った次第である。

極楽に居るのは誰か?

 もう一つ、これもある方の言葉だけれど「民間の経営者は顧客、銀行、株主、社員等多くのステークホルダーのふるいに常に身をさらされているのに対し、君(橋下市長)は選挙だけがふるいという安全なぬるま湯の中にいることを自覚しているだろうか」という言葉が目に付いた。

 この言葉は名古屋の河村市長にも共通する。
 「税金で食っているものは極楽で、民間は地獄の苦しみ」と自身言われるけれども、その税金を20年近くも食っている事になって、更に文書交通費や政党助成金はしっかり受け取っている。そりゃあ「人生行き詰ったら選挙に出てみろ」と言える筈だ。河村市長自身が「税金で食う極楽」を味わっているのだから。

 例えばしばらく前にある有名料亭が料理の使い回しなどを批判されてワイドショーなどに取り上げられた。その記者会見の模様がまた批判をあびてついにこの料亭は暖簾を下ろした。

 ラーメン屋も焼肉屋も、毎日客や店員のふるいに身をさらされている。日々の反省がないのは税金で食っている河村市長、あなた自身じゃないか。

政治家にとって最も必要とされる素養

 何の気なしにネット上の動画をアレコレ見ていた。猫が走り回るのとか、サルが雪に囲まれて寒さに震えているのとか。そういった動画を次から次に見ていると、橋下知事(当時)が維新の会の新人議員の選挙運動に帯同していた動画があった。それを見ると橋下氏の人気の理由が判った。彼はそもそも「スネオ主義」*1であるから、周囲に対する目配せはそういった中で身に付けて来たのだろう。候補者本人や他のスタッフですら気が付かないような住民にも、すぐ近づいて握手をし候補者の名前を告げて支援を呼びかけていた。
 あの目配せの姿や、その他候補者やスタッフへの指示も「政治家にとって最も必要とされる素養」を元にしている事を感じさせる。

 今週の火曜日の午前。名古屋市役所東庁舎3階に時ならぬ声が響き渡った。

 声は減税日本ゴヤの控え室からのもので、某市議が一人の幹事に大声を荒げて食って掛かっていた。この市議は体も大きく、元々「自慢できるものは体力だけです」というだけあって怒りに任せたら凄い迫力だったそうだ。一方の幹事は女性であり、この剣幕にただただ驚き、涙を流して固まっていたそうだ。
 間を、これも体力自慢の方が割って入り事なきは得たが、この人が居なければ誰も止められなかったのではと言われている。

 この女性幹事とは誰あろう、山田市議だ。

 もう、このブログでは既に「辞めた方が良い」と辞職をお勧めしているが、この出来事もお辞めになった方が良いと思う理由を提供してくれる。

 山田市議の不用意な発言というのはあちこちで問題を起している。
 去年の12月7日には中日新聞の社説にも批判を受けたではないか。 ( "参照"
 全然、反省がない。というよりもそれが当然とでも思っているのだろうか。

 なぜ、山田市議が不用意な発言を繰り返すのか、それは彼女が言葉を紡ぐ時、様々な判断をする際に「自分の視点から離れない」からではないかと思われる。つまり、相手や第三者の視点から自分を省みてチェックするという習慣がないのだろう。・・・これってつまり決定的にお子様だということなんだけど。

 先ほど橋下氏の行動に「政治家にとって最も必要とされる素養」を感じたと言った。彼の手法も主張も滅茶苦茶だとは思うけれども、それでも選挙に勝ち抜いて人気を維持できているのは、彼は彼自身を第三者目線で見ているからだろう。これがあるからアレほど無茶苦茶をやっていてもまだ生き残っていられる。しかし、相手や第三者目線を持つことができずに、不用意な発言で相手を怒らせる、つまり、自分との間に溝を作る、そしてそれが相手の所為であり、自分の所為ではないと思っているのであれば、今後政治家で生きていけるわけがない。
 これ以上恥をばら撒かないうちに辞められた方がいい。


*1:力のあるものの庇護の下に入り、安全に世渡りをする事を是とすること