湯川市議の市政報告会について、千葉商科大学の吉田寛教授せんせ〜、の話が酷過ぎて思わず書き漏らしてしまった事があった。
減税日本、河村教のその他の事柄同様、このブログに記載する事で修正されてしまっては「面白くなくなる」かもしれないが、事は一般市民に迷惑が及ぶ可能性があるの事なので指摘をしておこう。
湯川市議の市政報告会に入場する際に、氏名、住所、電話番号等の名簿記載を求められた。
まあこれはよくある事。
驚いてしまうのは、記述する名簿が開けっ放しになっている事だ。
つまり、それまでに記載した人の名前や住所、電話番号は見放題で、自分も名簿に記載すると他の人に見られ放題となる。
通常、こういった名簿は記載された部分を目隠しするか、カード方式にして箱などに預かる形を取るだろう。記載された名簿を晒しっぱなしというのは、近年あまり見かけない。
さすがにリコール署名簿の流用、流出をしても痛痒も感じない減税日本、河村教の人々の集まりだ、人権意識の低さには驚く。(17世紀で止まっているのか)
そして開始。
これもダラダラと時間通りに始まらない。
時間になっても湯川市議が何やら話しているのを気にして、司会者がはじめない。
参加者よりも湯川市議を優先される態度が垣間見られる。
また、一人の参加者が撮影を要望したところ断られたそうだ。
これも「市民に開かれた政党」を標榜していたはずの減税日本が、その団会議を閉鎖会にした事と軌を一にしているのだろうか。まことに閉鎖的。(まあ、吉田せんせ〜、も「あんな話」をネット上にでも乗せられたら困るのかも知れませんが)
そして最後に主催者側と思しき人物が勝手に写真を撮っていた事。
レジメにも写真撮影の断り書きは無いし、入り口にも注意は無かった。
参加者の承諾も得ずにバシバシ写真撮影を行う。この無神経さ。
さすがにリコール署名簿の流用、流出をしても痛痒も感じない減税日本、河村教の人々の集まりだ、人権意識の低さには驚く。(17世紀で止まっているのか)
さて、ちょっと吉田せんせ〜、の例の「図」についてもツラツラ考えるにへんてこなところがある。ああいった図は河村市長も口に出す「IS−LM分析」など、数理経済学風の図になっているのだろうが、というか、吉田せんせ〜、としてはソレを狙っているのだろうが、果たして成功しているのだろうか?
数理経済学の理論を図式化して述べてみるというのは、その図式を動かしてみて様々な関係を浮き出させてみるという利点がある。
この図が吉田せんせ〜、の図だった。縦軸に「消費」を取り、横軸に「生産」を取る、その値を結んだ領域(この図で言うと水色の部分)が「豊かさ」を表すという事らしい。
そして、「消費」できる筈の財が「課税=略奪」によって奪われることで「豊かさ」が減らされるとの事だ。(実はこの図による同様の説明を探し回ってみたが、経済学、財政学等の資料には見当たらなかった)
これって実にヘンテコリンな理屈だ。
「消費」の値を動かしてみると、確かにその増減が「豊かさ」を表すことは理解できるが、横軸の「生産」は果たして「豊かさ」を表すだろうか?
次の図をご覧いただきたい。
例えば思わぬ「豊作」となって「生産」が倍の20になったとしよう。
しかしこの生産物が腐敗する類の物であった場合、「豊かさ」は単純に倍になるだろうか?結局、人間が「豊かさ」を感じるのは「消費」(貯蔵も含めて)できる範囲だけなのではないだろうか。*1
また、横軸は「生産」にこだわる必要があるだろうか?
たまたま私の頭には黒澤明監督の映画「七人の侍」における山賊集団が思い出されたのだが、彼らにとっては「略奪」も「生産」と等価なのかもしれない。(そういえば吉田せんせ〜、の例示された「東インド会社」もそうかもね)
つまり横軸は「生産」であろうと「略奪」であろうと「拾得」であろうと、ヒトの「豊かさ」を表すためには関係は無いのではないか?
整理してみると次の図のように、単に「消費」の値があるだけの1次元的な、直線的な関係性を言っているだけなのではないか?
人間は「消費」をすれば「豊かさ」を感じる。
「消費」量を「略奪」で減らされれば、その分だけ「豊かさ」が減じる。
当たり前の事だ。小学生でも判る。
図と数式と言うのは経済学や財政学では不可分の関係にあるようだ。
図によって示される概念も数式によって示される概念も等価でなければならない。しかし、数式では表しきれない関係性を図が表してみたり、図では示しきれない関係性を数式を整理する事で明確にしたりできる。
そういう時に数理経済学は有効であって、こういった図示も意味があるのだろう。
・・・・なんというか。
経済学や財政論の場で、この吉田せんせ〜、の図は有効なのだろうか?
果たしてこの図はそういった学問領域で提示されているのだろうか?相互批判が活発な学問領域に提示されていないとすると、それは不確かな、つまりは非常に主観的で風変わりな理屈であるということになる。そのようなモノをその学問領域に暗い一般市民や、一部の政治家に吹聴して、そうした場で「先生」と呼ばれる事に慣れ、批判に対応しきれないでいる姿は、私にはなんだかクラスで相手にされない小学生が、近所の低学年の子どもや幼稚園児から「ライダー博士」とか呼ばれて喜んでいるかのような図を連想してしまう。泣きそうな顔をしてご立腹だったのはそういう事だったのかね?ごめんね、吉田せんせ〜、。
図示と数式の一例をお示ししてみましょう。
(概念的で、厳密性には欠けます)
この図は「名古屋市マクロ計量モデルにおける主要部分の因果フロー図」です。
市民税減税10%の際の効果をシミュレーションした時のフロー図です。
http://www.city.nagoya.jp/kurashi/category/25-15-0-0-0-0-0-0-0-0.html
減税が経済浮揚効果があるかという疑問に答えるためには、図の左上、緑色の下線を施した「市内総生産」が減税を行った事により拡大する事を示さなければなりません。
減税は赤で示した2つのルートを通って「市内総生産」に影響を及ぼします。
1.「個人市民税」→「可処分所得」→「民間消費」
2.「法人市民税」→「民間投資」(一部、「配当所得」→「民間消費」)
つまり、市民税減税は一旦、可処分所得や民間消費、民間投資というステップを踏んで、市内総生産を押し上げます。可処分所得はそのすべてが消費に回されるわけではない事は明白であり、ここに「消費性向/貯蓄性向」という一定の比率がかかります。
以前「ケインジアンモデル」を展開した際に、「消費性向/貯蓄性向」によって「乗数効果」が変化すると導き出した理由を図で示すならこうした理由からでしょう。
「正しい経済学」が導く減税の意味(後編) - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0
「市内総生産」の直下に「政府消費」と「政府投資」があります。
これは名古屋市で言えば「名古屋市の歳出」です。
名古屋市の歳出は直接全部、「市内総生産」に算入されます。(途中で「中抜き」するようなヒトもモノもありません)
つまり、「市内総生産」名古屋市市中の経済を活性化させようとするのであれば、この「政府消費」と「政府投資」を増やせば活性化できます。*2
河村流減税政策というのはこの2者を削減して(歳出削減して)迂遠な「個人市民税」や「法人市民税」を減税するという政策であり、それは名古屋市内の経済を減速させる結果に陥ります。
このシミュレーションでは黄色で示した「市内人口」が無条件で毎年増えるという前提になっており、その結果「市内総生産」は順当に増大するという結論が導かれるようです。
そして、この度の減税5%の効果検証においても、このシミュレーションモデルは利用されるようです。
均衡財政論を肯定する財政論者は居ないようです。
経済学者も限定的にしか見ていません。
やはり、単年度の均衡財政などナンセンスであろうと思われます。
そもそも均衡財政、通貨流通を絞ってデフレを起こすことで儲かる者は、資産家などであって、若者や労働者には利益は有りません。貧困者にとってはズバリ、切り捨て政策でしかない。
「子どもにツケをまわさない」という言葉を聞くと、私には「(自分の)子どもにツケをまわさせない」という我利我利亡者の顔が浮かんでしまいます。
最初の図に戻りますが。
そもそも利益というのは本当に正当に得られたものなのでしょうか。
例えば、ワ●ミという居酒屋チェーンがあります。全国にチェーン店が展開され、数県においてはアルバイトの賃金が、定められた最低賃金と等しいと指摘されたり、サービス残業の強要、劣悪な労働環境、果ては過労死まで引き起こしている問題企業です。
(あまりの悪評にチェーン店から「ワ●ミ」という名前を消す方針だそうですが)
このチェーン店はこうやって削減した人件費によって、商品の販売価格を廉売していると言えるかもしれません。他の居酒屋(そこで働く従業員は適法であるとする)との価格競争を違法な人件費の圧縮によって勝ち抜いていくとすると、この「ワ●ミ」の得ている利益と言うのは正当なものと言えるでしょうか。
従業員の得るべき人件費を搾取しているというだけではなく、本来「居酒屋」という業態が生み出しえる、生み出すべき付加価値自体を引き下げるという社会的影響を及ぼしていると考えられます。*3
白熱教室でおなじみのマイケル・サンデルなども「マイケル・ジョーダン」が得ている報酬は彼一人の物か。という議論を展開しています。
だから僕は歌うんだよ 精一杯でかい声で - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0
マイケル・サンデルは共同体主義に分類されるようですが、21世紀の社会学、経済学はこのように個人、企業の利益を単純にその者に帰属するとは見做していない。
極端な例では「私有財産分配論」もあるようだ。
特に、2050年まで日本は、厳しい状況に追い込まれることは間違いがない。
この状況を如何に冷静に、理性的に乗り越えることができるか。
その為には「開かれた議論」こそが必要となるだろう。*4
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追記(2015/2/24):
吉田寛 | 幸福実現党 小島一郎 オフィシャルサイト