河村市長は「教育」という言葉が嫌いだそうだ。
「教」の「攵(ボク・のぶん)」が「鞭を打つ様子」を表しており、「強いる事を意味する」ので、EDUCO (引き出す、取り出すの意)を語源とする Education の方が好きだ。などと言われる。
なんだろうかね。この狭隘な知識は。
本当にこの人物、文化程度が低い。
漢字の成立に少なからずおどろおどろしい由来がある事は白川静さんの本を少しでも読めば当たり前の常識だろうと思っていた。
人の「道」であるとか柔道や華道などにも使われる「道」または高村光太郎や、最近ではあのアントニオ猪木まで詩に読み込む「道」
この「道」という漢字も「首」という字を含んでいる。白川氏はこれを「魔除けに他部族の首を刎ね、道に備えた意である」と解釈された。
河村市長はこんなおどろおどろしい由来がある「道」という字を使わなくしようというのだろうか。緑政土木局と上下水道局は大騒ぎになるだろう。
最近、ツイッター上に「民という字の成り立ちが怖い」と、このような写真が流れている。残念ながら出典までは遡れないが定説ではあるようだ。
ひとみのない目を針で刺すさまを描いたもので、目を針で突いて目を見えなくした奴隷をあらわす。のち、目の見えない人のように物のわからない多くの人々、支配下におかれる人々の意となる。
これが「民」という文字の成り立ちだそうだ。
民主主義の民、民意の民とは「目の見えない人のように物のわからない多くの人々」の定める政治、それらの多くの人々の意向という意味なのだろうか。
http://matome.naver.jp/odai/2129628202362446901
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河村市長は民主主義を多数決による決定であると理解しているようだ。
事あるごとに市長選で選ばれた自分を支援する市民の民意を持ち出して、その民意に支持された自分の意向が実現されない事は、この市民の民意を無視する事ではないかと訴える。
本来、民主主義は多数決による意思決定などではない。多数決は一つの「推論」に過ぎない。多数決が常に正しい選択を示すなどという事はないし、多数決が破滅的な結論を導き出した歴史的事実もある。(後述)
しかし、「推論」としての多数決に注目してみる価値はあるかもしれない。
例えば「減税政策」だ。
通常「減税政策」とは単に税収を減らすだけでそれによって民間セクターの資金流通を増やそうとする*1ものだが、河村流減税は少々変わっている。減税は行うけれども均衡財政は守る。つまり、減税の原資は他の施策への歳出削減で賄うとしたのが河村流減税の特徴だ。
均衡財政を維持したまま減税政策を行ったという例はいままでなかっただろう。*2
現に今も(河村市長自身認めるところだが)日本の地方自治体で河村流減税を行おうという地域は現れてこない。(沖縄県の金武町は5%ではなく10%恒久減税を実施しているが、彼の地にはまた別の理由がある/しかし、たまに河村市長が言う「恒久減税を行っている地方自治体は名古屋だけ」というような発言は事実誤認である。更にいうならば、彼の地は10%減税で、名古屋は5%である)
レアケースを除いて河村流減税に追従する地方自治体が現れてこない理由は何だろうか?一時期はマスコミの報道に煽られるように、日本全国で「減税自治体」が現れてきた。それでも結局減税は恒久化せず、その流れは広がらなかった。
多くの地方自治体が「多数決」を取ったとしたならば、この河村流減税は採用されないという事なのだろう。
河村流減税政策が採用されなかった理由は、経済学の数理学的な、論理的な結論であり、そこに各地方自治体が気が付いたから、減税政策など採らなくなったのだろうと私は推測する。
「正しい経済学」が導く減税の意味(後編) - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0
もう一つの河村政策を多数決に掛けてみよう。「地域委員会」だ。
「地域委員会」は2次試行を行った。本来、2次試行の対象地域は全市で32地区の予定だった。ところが思うように対象地区が集まらず、結果として7地区による施行に留まった。
つまり、ここでも名古屋市内の全地域を対象にした「多数決」に「地域委員会」は否定されたと言えるのではないだろうか。
更に河村市長は(たぶん、もはや意味も分からずに)「選挙で選ばれた地域委員会は名古屋だけ」と語るが、この7地区のすべてが選挙は実施していない。第1次試行においても選挙の投票率は酷いもので、「選挙によって選ばれた地域委員会」という定義は非常に怪しいものとなっている。
つまりここにおいても「地域委員会は選挙によって選ばれること」とする制度設計は「民意」によって否定されていると言えるのではないか。
「多数決」というものは「選挙」だけで示されるものではないだろう。
こうやって自由な意思表明が行える地方自治体や地域によって、減税政策や地域委員会という各政策に対しての賛否の表明が行われてきていると考えることができる。
河村流減税は日本全国の各地方自治体において否定されている政策であり、河村式の選挙によって選ばれた地域委員会というものも名古屋市の地域によって否定されたわけだ。
このように示された「圧倒的多数の民意」に対して、「おかしいですね」と受け入れないという態度は理性的な態度ではない。
それでも河村市長は自分だけが正しく、減税政策を取らない各地方自治体や、地域委員会を実施しようとしない名古屋市内の各地域は判断を間違えているとでも言うのだろうか。
河村市長が見識が狭い事は疑いようがない。
上で述べたような「漢字の成り立ち」一つご存じなかったのだとすれば、とても教養のある方とは言えないだろう。更に先の大戦における「南京事件」についての発言も誠に底の浅い発言だ。
実は市長には知識など必要ないのかもしれない。
知識であれば当局内の専門職員に適うわけがない。
そもそも地力に勝る職員が、専門領域を定めて一日中、三百六十五日、研鑽を積んでいるのだ。それを「昨日今日」市長や議員に成れたからと凌駕できるわけがない。
市長や議員といった政治家に必要な能力は、そういった職員との知識競争などではないだろう。知識や情報に勝る職員から、その知識や情報を引き出す能力こそが市長や議員といった政治家に求められる能力だ。
また、見識も必要ないかもしれない。
そういった見識が必要であれば、各学識経験者や長年現場で業務に携わってきた人々をアドバイザーとして迎えて意見を聞く事もできる。
市長や議員といった政治家に必要な能力は、そういった高い見識を理解し、取り入れる柔軟さや素直さなのかもしれない。
そして、自身の知識の無さ、見識の低さ、視野の狭さを自覚するだけの謙虚さが必要となるのだろう。
河村たかしにはこれらの資質は見受けられない。
河村(隆男)たかし名古屋市長は我見に固執する。
それが「信念の人」とも映るかもしれないが、誤りを修正できない硬直性ともなっている。
ちょっと前に「市道弥富相生山線の建設中止について」の住民投票と、「名古屋城天守閣の木造再建について」の住民投票について、「このような投票用紙にでもすればいいじゃないか」というご意見をいただいた。
勿論これは1938年にナチス・ドイツがオーストリアを併合した際に使われた国民投票のパロディーだ。
このイメージはオーストリア併合に続くポーランド侵攻によってできたワルシャワのユダヤ人ゲットーの模様だ。
ナチス・ドイツはワイマール憲法の下、民主的に作り上げられた政体である。
これらユダヤ人ゲットーはヒトラーやナチスに対する圧倒的「民意」によって支持された政策なのである。(先に述べた多数決が生み出した歴史的な破滅的結論とはこの事だ)
多数決絶対主義、多数者の横暴、独裁、暴走はあってはならない。
民意が常に正しいなどという幻想にも組してはならない。
民意を煽り、それを糧に私利私欲を貪る者をこそ指弾しなければならない。
追記:
ゴールデンウィーク中、子どもの日という事もあって、各地の「待機児童ゼロ」政策について取り上げられていた。
千葉市や山形県では「待機児童ゼロ」を実現したそうだし、横浜や川崎でもゼロ達成に様々な議論が起きているようだ。
さて、このイメージは第二期河村市長マニフェストの一部だ。
ここに「待機児童ゼロ政策継続」という文字があるが、名古屋市は待機児童数日本一にはなっても、一度も「待機児童ゼロ」にはなっていない。
この「待機児童ゼロ政策継続」という言葉は間違いか「嘘」だが。
果たして昨年度の施策で「待機児童ゼロ」が達成されたのだろうか?
現在、当局において「集計中」で「連休明けには発表される」との事だったが。(そもそも「ゼロ」なら「集計中」という事にもならないのではないかという気がしているが)
追記:
あれだけコケにされて、まだ石原にすがりつくのか。
減税日本代表、維新代表に合流意向伝達
地域政党「減税日本」代表の河村たかし名古屋市長は7日、日本維新の会の石原慎太郎共同代表と東京都内で会談し、維新と結いの党の新党結成に減税日本も合流したいとの意向を伝えた。
河村市長は以前から来春の統一地方選挙に向けて、非自民党による新党結成を主張。河村市長によると、「(政党が)バラバラではいけない」との訴えに、石原共同代表も理解を示したという。
減税日本代表、維新代表に合流意向伝達 :日本経済新聞
(日本経済新聞 2014/5/7 23:51)
石原に下げた頭。1cmでも名古屋市民の為になるというのか。