ある事情があって園子温監督の映画「希望の国」を見逃している事に気が付き、慌てて観てみた。
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東北の震災と東電原発事故を受けて、園子温監督が黙っていられなくなって描いた作品なのだろう。あちこち練れていない部分もそのまま投げ出すように、園子温監督が観客に問題提起をしているような、そんな作品に見えた。
なのでパッケージとしては荒いが、それだけにスケッチのような躍動感の感じられる作品だった。
特に心に残ったのは津波被災地における「レコードを探す子ども」のシーケンスだ。似たような話は実際に聞く。そして彼らが伝える最後の言葉が、この問題に対する、まだ、最終判断に行き着けない園子温監督の本音ではないかという気にもなってくる。
こういった全体の解釈やテーマについてはこの辺りに留めて、この中で主人公の夏八木勲が語る台詞が耳に付いて離れない。
人は生きる時 何度も杭を打たれる
その杭が今回は放射能だった洋一(息子)、自分で生きなきゃダメって事よ。
国も県も市も村も
村長も町長も国の頭もそんなものに一回でも頼ってはダメだ。
自分と自分の嫁と自分の子どもだけで会議して決めろ。
国も県も市も村も
お前たちの味方じゃねえ奴らに頼っていれば
これから何度でもお前の家の中に杭が打たれる生きていれば
杭が何度でもやってくる。杭は恐ろしい敵だ。
杭は逃れられることができないかもしれない。
それでも逃げとおせる杭もある逃げろ、逃げる事は強さだ
強い人間だからこそ逃げるんだ。
10代や20代の頃、私は社会とぶつかった。その時社会や「大人の世界」が大きな壁となって自分を圧し潰そうとしているように感じたものだ。
あまり大きな声では言えないが、まだ10代の頃、ある「強制執行の現場」に立ち会ったこともある。立ち会ったというよりも何もできず目撃しただけに等しい。
その時「国」の絶大なリアリティを感じた事もある。
この台詞には「国」や「行政」に対する絶対的な不信感がある。
映画のストーリーとしても結果として、主人公は「国」や「行政」との折り合いをつけることができずにいる。
確かにそうだ。
個人が「国」や「行政」と対峙せねばならなくなった時、その絶大な力と、圧倒的な強制力には絶望を感じる以外にない*1。更に、自分としては人間としての当たり前の事を主張しているだけに過ぎないと思っているのにも関わらず、それが絶対的な悪、社会的な不正義であると糾弾される。
そんな経験を踏まえれば、「国」や「行政」を「敵」と認定し、「国も県も市も村も村長も町長も国の頭も、そんなものに一回でも頼ってはダメだ」と断じ「国も県も市も村も、お前たちの味方じゃねえ」と決めていくことにも理がありそうに見える。
しかし、恐ろしい事にこうした理路から「国」や「行政」を否定したのが「オウム真理教」でもある。
私が立ち会った強制執行の問題*2では、その後、その「国」や「行政」の向こうにある者に働きかけられなければこちらの要求を達成する事は無理だと理解するようになった。
つまり結局、「国」や「行政」が自分を圧し潰そうとする時、その意思は「国」やら「行政」という人格のない仮想的なモノではなく、その後ろに控える「人間」が決めている事を知ったのだ。
30代や40代の頃の私は、このスイッチの在処を知って、社会が自分を圧し潰そうとしているというような幻想から逃れられる事が出来た。逆に、社会を自分に都合よく動かすことも(たまには)できるようになった。
「国」や「行政」を漠然と捉え、「敵」と認定していてはいつまでも政治は動かない、動かせない。「国」や「行政」をどのように動かすか、ここを理解してはじめて「政治」に参加する事ができる。
日本の社会では「政治によって社会を動かす事」が「アンフェアな事」と理解されているようにも思う。これは不幸な事だ。
実際、そう言って「政治に頼るな」という言説を投げかけるこの園子温監督の映画であっても、これがマスメディアに乗る政治的言説であれば、それ自身が一つの政治行動に他ならないのである。
https://twitter.com/toshio_tamogami/status/248566605762658305
ざっくり「アホなの発言」としか言いようがないが。
事実は全く逆で、政治というのは弱者の為の力だ。
経済力があるのであれば経済力で生きていけばいい。知力があるのであれば、それを使って生きていくことができる。財力もなく知力もない者が(民主主義であれば)集団を形成して社会的リソースを奪う(「おすそ分け」ではなく、ズバリ主体的に「奪う」)ための手段/方法が政治だ。
以前このブログで「春日一幸に学べ」という一文を書いたが、春日の政治力の源泉も、力の無い中小企業やその雇用者を糾合したからに他ならない。日本という国土において、かつて「裏日本」と呼ばれた新潟から田中角栄が生まれ、今も産業基盤の弱い地方ほど政治力を求めようとする、その理由は、政治力による社会的リソースの地域的争奪戦というリアリティを彼らが知っているからだろう。
日本は国際的に見て電力の価格が高い。この為産業はコスト高になり、アルミニウムの精錬など、すでに国外に流出してしまっている。
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新自由主義、市場原理主義に目がくらんでいるバカ政治家ども方々は行政機構を民間移転すれば、それらのサービスが市場原理に晒され、安価で質の高いサービスが提供されるというが、最初から民間によって提供されてきた電力という公共サービスが、国際競争力を持たない、更に東京電力のようなトンデモない企業を生み出すという結果を見て、それでも公共事業の民間移転は質を高めると言えるのだろうか。
この電力会社は確かに田母神的に言えば「金持ち」で「権力者」だ。しかし、それはこれらの企業が強いから「金持ち」になったわけでも「権力者」になったわけでもない。そもそも電力事業は時の政権のさじ加減ひとつでどうにでもなる。更に「国際競争力」など端からない。また、制度的に独占を許されてきた。決定的に企業としては脆弱な基盤の上に乗っている。
彼ら、電力会社は判っているのだ。自分たちの「企業としての弱さ」を。弱いからこそ政治にコミットし「権力者」となり「金持ち」となる。
そして、それに立ち向かおうという人々は「政治」に対して不信感を募らせ、「政治力の行使」をアンフェアと思い、「政治」から離れようとする。
こうして一般の人々が「政治」から離れている隙を狙って、「政治」を利用しようとする人々が現れてくる。
「政治力」の源泉は「行政」の中の「裁量権」にある。
「行政」がまるで自動販売機のように、何に拠らず常に決まりきった対応をしてくるのであれば、そこに「政治力」は生まれない。
想像してみてほしい、例えばあなたが子どもで、子ども相手の駄菓子屋に飲み物を買いに行くとしよう。その店の自動販売機は100円玉を入れると100円の飲み物を買う事ができる。当たり前だ。この時に「政治力」など生まれはしない。
しかし、この店では店のおばあちゃんに100円玉を渡して、交渉する事でおばあちゃんの機嫌の良い時には150円の飲み物を「まけてもらえる」事もあるとする。こうなると皆、おばあちゃんに少しでも気に入られ、おばあちゃんの機嫌を伺い、交渉を行うようになるだろう。交渉が上手な子どもは仲間の買い物を仲介して、まとめ買いをするようになるかもしれない。その内、まとめ買いによって交渉の上手な子どもは自分では一円も出すことなく、飲み物を手に入れるようになるかもしれない。経済力のない子どもほど政治力を行使しようとするのだ。
「裁量権」があるところに「政治力」が生まれる。
もう一つは「国」や「行政」とはいえ、その内情は「人間」であるという事だ。
この映画「希望の国」においても町役場職員として菅原大吉が厚みのある演技を見せていた。
しかし、その内部を構成する職員、「人間」こそが、実は仮構の存在である「国」や「行政」にスポイルされ、圧し潰されているのだ。
杭を打ち込まれる人間と杭を打ち込む人間。実はこの両者は対立すべき存在ではない。
杭を打ち込む人間も、「職場」において杭を打ち込まれた結果、心ならずも杭を打つ役目になってしまったに過ぎない。この両者が争いをする間に、杭によって利益を得る人間たちがほくそ笑むのだ。
政治から逃げてはダメだ。
政治とは、弱者こそが利用すべき道具なのだ。