市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

事実を見る事のむつかしさ

 昨日書ききれなかった出来事についてご報告いたします。

 ある会合に参加いたしました。政治的問題を語り合うというような会合でありまして、会場に入るなり「お、政敵が現れた」と声をかけられました。白髪にひげをたくわえられた男性で、言われてみるとタウンミーティングの会場などで顔を見かけたような気も致します。ご挨拶を返し少々お話を伺うと河村市長を支援していらっしゃるとの事。ご本人が政敵と言われているぐらいですから私の行動もご覧になっているのでしょう。

 さて、議論は国民の政治参加が活発にならないというような話題になりまして、政治家が政策や法案に対して、どれほど資料を読み込みどれほど突っ込んだ議論をしても、マスコミはそういった政策論議や技術論はほとんど書かない、マスコミの興味の対象は誰と誰がくっつくとか離れるといった政局論議ばかりである。マスコミが政局論議ばかりをはやし立てるために、結局国民の興味もそういった実態政治とは異なる話題に目を奪われてしまう。といったような主張がなされました。

 と、ここでその御仁が。
 「情報を書かないマスコミが悪い」という自論を展開され始めました。

 ここで私は「違う」と反論を展開したのです。

 そもそも私はこういったマスコミ批判は嫌いです。
 (マスコミ批判全般が嫌いという意味ではない。マスコミにも批判されるべきところはある、いや、多々ある。しかし、国民が情報を得られないその責任をマスコミに求めるという主張が嫌いだという事だ)

 この国は民主主義であり主権者は国民だ。国民が得たい情報があるのであれば、それは本来全て得られるべきだ。国家・行政機構の持っている情報、リソースはすべて主権者たる国民の負担である税金で賄われている。国民は主権者であり、これら一切のものの所有者でもあるのだ。

 もちろん、国家・行政機構の中に広く国民に開示できない情報がある事は理解できる。しかしその場合でも情報を開示できない理由を立証する責任は国家・行政機構の側にある。

 マスコミが書かなければ国民が得られるべき情報を得られないなどという事もない。
 こんな議論はすでに周回遅れの議論だろう。

 行政機構は情報公開を進めている。見ていないのは国民の方だ。
 (名古屋市においてもその通りだ。リコールの際「市会議員の仕事が見えない」という声が上がった。見ていないのは市民の方だ。一番簡単な方法は、名古屋教えてダイヤル( 052−953−7584)か近くの議員連絡所に声をかけて「どうすれば市会議員の仕事が見えるか」と聞いてみれば良い。

 明日だって委員会審議はある。
 名古屋市:委員会の開会日程(予定)(市会情報)
 審議の模様をインターネットを通じて見る事もできる。
 アドレス変更のお知らせ )

 行政機構は情報公開を進めており、見ていないのは国民である。しかし、行政機構はもう一回り上の情報隠ぺいの手も打ってくる。

 どういうことか。

 多くの行政課題を調査しようとすると行政機構は膨大な情報を開示してくる。
 つまり「木の葉を隠すのなら森の中」と、膨大な情報で怪しい問題を隠ぺいしてくるのだ。

 またもう一つの問題点もある。
 「マスコミが偏った記事を書く」「マスコミは嘘ばかり書く」というような主張をする人が、往々にして「マスコミは国民に知らせるべき情報を書かない」という主張をする。
 この両者の主張が矛盾する事に気が付かないまま。
 結局「自分の気に入った論調で書いてくれ」と甘えているだけに過ぎない。

 情報リテラシーとは、心地よい、耳触りのよい情報に対して対価を払う事ではなく、本当に有用な情報を取捨選択する材料を得るために対価を払う事だろう。

 と、こんな細かくは語れなかったが。「国民や市民の方が見ていない」という主張をした。「その一つの証拠に、今まさに名古屋市会が開かれているが、傍聴席はガラガラだ」という話をした。その中で先日の「失言問題」が頭の中をかすめて「市議会を傍聴してもらえれば河村市長が市長としての品性に欠ける事は一目瞭然なんですけどね」というような話もした。

 そうしたところこの御仁が「河村市長の名古屋弁は品性に欠けるかね」と言われたので「名古屋弁の事は問題にしていない、河村市長の失言の事はご存じないのですか?新聞にも載ったのに」と概要を説明したところ。

 「くだらない」「そんな事よりも議論すべき問題がたくさんあるだろう」と言われた。
 その通りなんですよ。

 下らないのです。
 他にも議論しなければならない課題は幾らでもあるのです。

 この方は河村市長の言い放った「●くらビル」の意味は分かったようです。「窓の無いビルなんだろ?そんな事は自分でも言う」とも言われましたな。そもそも差別用語などと法律にも制限が無い言葉を禁止にするのも判らない。とも言われました。

 私も判ります。差別用語であるとか放送禁止用語というようなアンフォーマルな規制が社会の歪みを生む事も充分承知しています。

 「差別用語」と言われる言葉を使われるのはご自由です、表現の自由でしょう。しかしそれを使う事によって、その発言者自身が再評価されることは覚悟すべきです。また、公的な場所では、その言葉に触れた人物が不快になるような表現は使うべきではありません。公的な場所は誰もが不快にならずに居られることを、相互に保障すべき場所だからです。(勿論、受忍範囲というものはある)(石原慎太郎が「支那」という呼称を使う事はこういった意味でも誤りだ。また日本は公式に中華民国からの要請を受け、1930年10月30日の閣議で「支那」を使わないと決定している)

 
 それ以降も議論の論点を無視してご自分の主張を繰り返されるので「そういう方」として扱う以外にはありませんでしたが。

 こういう事実を見ようとしない頑なな方が「思い込み」で河村市長を支援する限り、河村市長は安泰でしょうね。


 まだ他にも言いたいことは色々とありましたが、このくらいにしておいた方がよさそうなので止めておきます。

 そういえば今日の市長定例記者会見。少々「期待」したのですが、”その問題”は扱われなかったようです。当局内でレクが成功したのか、元々ご本人にこの問題にかける情熱が無いという事なのか。

 両方でしょうね。

 そういう意味で非常につまらない市長会見でした。時間も少々マキで終わったようですし、全体に記者がタイプするキータッチの音も少ないようですし。

 ほとんどメモを取る内容も無い話ばかりでしたね。

 この退屈な会見の中でちょっと面白いシーンがありました。名古屋市博物館で行われる「大浮世絵展」の案内があったのですが。
 ページが見つかりません : 中京テレビ

 この案内の中で担当の職員が「歌川広重」と言ったところ、わざわざ河村市長が「安藤広重の事ね」と言葉をはさみました。

 絵師「歌川広重」の本名は「安藤鉄蔵」で、巷間呼びならわされていた「安藤広重」という呼び名はこれらを混同したもので、現代の研究でも本人は「安藤広重」と名乗った事はないそうだ。(豊国の画に「安藤広重」の名があるが、豊国が書いたことなので)

 現在では絵師としての「広重」は「歌川広重」と呼びならわしているようだ。

 つまり、河村氏の知識は古い。

 以前、絵画販売を仕事にしていたようだが、最近の研究などはご存じないようだ。

 菱川師宣の「見返り美人図」や歌川広重の「月に雁」の話題から「切手」の話に逸れていった。(職員の方は若いので切手についてはご存じなかったようだが、昭和40年代には昭和24年発行の切手「月に雁」は6〜7万円の値段を付けた)

 子どもの頃の興味があった話題なのだろう。そういった自分の興味がある話題については食いつく、しかし底は浅い。
 更に、そういった情報も更新されていないまま。頑なに古い情報にしがみつく。

 こういった態度がこのような趣味の領域にとどまっているのであれば問題は少ない。
 しかし、この人物の場合政治や行政にもこの思い込みを押し付けてくるから厄介なのだ。


 ある人物と少々話をした。
 大阪市長選挙やこの政治とメディアといった事で。

 その人物の言葉をご紹介しよう。

 「メディアは判っている。細川や小泉が心の中で『原発なんてどうでもいい』と思っている事や大阪の橋下のいう『都構想なんかで府市の借金が解消しない事』も承知している。しかし、どんな<電波をかぶった人物>でも『空にUFOが飛んでいる』と言えば、誰もが一度は見る。それを新聞に書けば買って読んでみるし、テレビで流せば視聴率が稼げる。名古屋の減税政策だって、まともに経済学を勉強してきた記者が居れば河村の言っている事なんぞ、このUFO以下のオカルトだって事ぐらいすぐわかる。それでも、書けばメディアは売れるんだ。そして買った国民が『嘘じゃないのか?』と疑いだしたら、今度は叩けばいい。メディアは嘘は言っていない、『UFOが飛んでいると誰々が言っている』とメディアは書く、その事実関係に嘘はない。あの(自粛)の騒動だってそうじゃない。バカが煽られて、調子に乗って騒ぐ。メディアはどんどん煽って高く高く、目立つところまでバカが登るのを見ているのよ。登る間にもメディアはネタになる。そして落ちたら叩けばまたおいしい。
 メディアは判っているよ。
 しかし、それを買うのは誰かって事だよ」