市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

(尾崎豊の声でお読みください)「自由ってなんだ」

 東京都知事選挙細川護煕元首相が立候補を表明した。立候補表明に小泉元首相が同席してみたり、民主党の海江田代表が「考え方は同じだ」と言明してみたり。菅直人元首相も支援し、更に生活の党の小沢代表も意見交換を繰り返している事が報道されている。
 更に日本維新の会の松井大阪府知事が政策的には細川氏に近いと表明しつつ、石原共同代表にも気を使っていた。結果的に維新の会は自主投票となるそうだ。

 「非自民の結集」の核が東京知事選挙における細川氏を中心に固まってきているという事だろうか。私はこの動きにこそ、民主党瓦解、非自民勢力が結集できない理由があると思う。

 この「細川+小泉東京都知事候補」は「脱原発」のワンイシューで戦うとしている。

 つまり、自民党政権との政治的対立軸を建てて戦うのではなく、単にアドホックな政治的課題を自民党に突き付けて国民から(今回は都民から)支持を取り付けようとするに過ぎない。

 確かに現在「脱原発」は国民から支持を得ることができるだろう。しかし、現実的な状況と、事実を前にすると、「脱原発」は空想的、理想的であり現実性がない。
 理由を簡単に述べると。
 1)日本周辺の東アジア(中国、韓国など)に早晩50基以上の原発が稼働する。日本国内だけの「脱原発」は砂嵐の接近で顔をうずめて隠すダチョウに似て意味がない。
 2)「脱原発」とはエネルギー(多くは電力)を化石燃料に依存する事になる。(再生可能エネルギー拡大も、インフラ整備の時期は化石燃料への依存が逆に増える)

 つまり政権党は今の段階で「脱原発」は謳えない。しかし国民には「脱原発」の要望が高い。このギャップが「野党」の支持を高め「野党」の勢力を形成する。

 実は、戦後のいわゆる「55年体制」から21世紀に至る現在まで、日本の政治史を見ると、与党と野党の構造は変わっていない。

 「55年体制」においては「反戦・平和」がこの「ワンイシュー」だった。
 誰でも「戦争が良いですか、平和が良いですか」と聞けば「平和が良い」というに決まっている。しかし、政治的にはこの「平和」を維持するために一定の抑止力が必要となることは理の当然だ。与党がこの現実的な「抑止力=軍備」を維持するに対して、野党は常に理念的平和論を謳い、国民に「平和」をアピールすればよかった。

 増税論もそうだろう。誰でも税負担は少ない方が良いに決まっている。しかし政治的に「減税」を訴えることは国民(納税者)に阿る事にしかならない。*1

 政権を持つものは責任ある施政を行うために、国民に負担を求めなければならない。しかし、責任を持たない「野党」は国民の望むような単純な「政治的願望」を訴えることができる。それが如何に非現実的であっても、様々な問題が後ろに控えていようとも、「民意」が常に実現されるべきであるのであれば、国が滅ぼうともかまわないというわけだ。

 いままでの歴史を眺めると、「民意」がその国を滅ぼした例は枚挙に暇がない。
 ナチス・ドイツの成立は民主的に行われてきたものであるし、日本における戦前の体制も、非民主的というわけではない。「2.26事件」に喝采を送った民衆は、やがて軍部による独裁を望んでしまったともいえるのだ。

 本来、民主党政権は小泉・竹中改革によって縮小してしまった日本経済を立て直すべきであった。しかし、そういった現実的な対応を行わず、そして本来、民主党の支持層であろう労働者階層の本当の政治的課題である「雇用の安定化」に注意を払わず、雇用問題についても経済問題についても迷走*2を続けた。結果として単純なケインズ政策*3である「アベノミクス*4」が支持を得ることとなり、自民党に再度政権を奪われることとなる。

 野党というのは野党であることを望んでいるのではないか。

 自民党という政党は「有産階級」の政党だ。そのカウンターパートナーであるべき民主党は「無産階級」に基盤を置き、支持を広げ、深化させるべきだ。本来圧倒的に数的優位に立つ「無産階級」政党が、なぜ野党に甘んじなければならないのか。民主党と連合は真剣に考えるべきだろう。(または、民主党や連合が真剣に考えて、今があるのだとすれば、彼らの希望が「万年野党」であり、今の位置が彼らの望んでいる姿であるからだと推定できる。しかし、それは彼らを支持する人々の願いとはかい離している。また、「無産階級」は政治的発言機会を失い、その結果「政治」自体が力を失うだろう)


 ここで細川・小泉東京都知事候補が「脱原発」を掲げ、それに民主党、菅、小沢などが結集し、「非自民」を掲げることは、単なる「野合」であり、そんな形でしか「非自民」、「野党」を定義できないのであるとすれば、その「野党」は「野党」であり続ける以外にない。つまり政権を得た時点で瓦解する。


 昨日の名古屋市長会見で河村名古屋市長は細川氏支持を打ち出したそうだ。

 先週末には日本維新の会との連携を打ち出して、昨日は細川氏との連携を。

 まるで一昨年末の衆議院選挙目前における右往左往を再現しているかのように腰の定まらない事だ。

 なんでも先週末(10日)に減税日本ゴヤが会合を持ったらしい、その席に河村代表も出席し、維新、結いの会との勉強会に参加する意向を説明したようだ。この会合で、減税日本ゴヤの市議から河村代表に対しては何も意見や質問などが出なかったそうだ。河村氏が決めたことに諾々と従う以外にないという事か、減税日本と維新の会の合流に何も疑問を持たない、持つほどの思考力も失ったという事なのだろうか?
 そして昨日の細川氏支持。これも党内ではどのような議論があったのだろうか?
 ある訳がない。結局、減税日本における党内民主主義というのは河村代表の意向を素直に受け入れるという事以外にないのだろう。



 しかし昨日の市長会見を見ると、河村市政の迷走が酷くなっている事が判る。
 維新との連携であるとか、細川都知事候補への支持というのは、こういった市政の迷走、停滞を糊塗する「目くらまし」なのかもしれない。

 最近、河村市長は「名古屋港の貿易黒字は6兆円」というトークをよく行う。
 「名古屋の港は儲かっとる」のだそうだ。

 しかし、その名古屋港に愛知県と名古屋市は毎年49億円ずつの負担金を払っているのだ。
 http://www.port-of-nagoya.jp/zaisei/sainyusaisyutujyoukyou.htm

 河村氏の言うように「名古屋の港は儲かっとる」のであれば、この負担金をナシにしてもらう事は出来ないのだろうか?

 こんな議論自体が無効な事は十分承知している。
 そもそも市政の、それも財政の話題として「名古屋港の貿易黒字」を持ち出すこと自体がまやかしなのだ。

 実は、現在名古屋市は「次期総合計画」を策定しようとしている。
 この1月18日には天白区においてタウンミーティングが行われる。
 名古屋市:名古屋市次期総合計画タウンミーティング(市政情報)


 今後5年間の名古屋市政の方向性を決める「次期総合計画」に残り任期3年の(というか、昨年春に改選されたばかりの)河村名古屋市長の政策がどれほど盛り込まれているか。非常に注目されるところだ。(大笑い)



 この市長会見で面白いやり取りがあった。
 "平成26年1月14日 市長定例記者会見"

 26分のところで河村市長は敬老パスについて「市長の発言と市の最終決定が違うというのはおかしい」という質問に対して。
 「私は(負担金を)上げると言ったことはない」「私が職員のせいにしたとか、そんなことはありませんよ、一切、そんなもん」と言っている。

 昨年の11月定例会で敬老パスの負担金増額案が提出されようとしていた時に、名古屋市の当局(健康福祉局)は河村市長に増額案を上程する事を説明し、市長の裁定を得たと理解した。ところが河村市長は「そんな話は聞いていない」と前言を撤回し、結果として改定案は議会に上程されず、現在行われている予算案折衝においても敬老パスについての予算は「未定」という前代未聞の事態となっている。(財政局案で「未定」のものを議会に上程するという話は聞いたことがない。国会なら審議停止なのではないのか?)

 そもそも「敬老パス」については、平成23年の市民による外部評価に上げられたこと自体が、今の河村市長の発言と食い違っている。
 http://www.city.nagoya.jp/somu/page/0000028399.html
 http://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000028/28399/1-12keiropasunokoufu.pdf

 河村市長が言うように、負担金を上げない、制度自体の見直しをしないというのであれば、ここで外部評価に上げた意味がない。そして、答申を作った市民の意見を無視する事になるだろう。

 http://www.city.nagoya.jp/somu/page/0000029543.html

事業名:敬老パスの交付
判定結果:見直し
判定結果の内訳及び市民判定員の主なコメント:
廃止1(利用している人数・割合が低い/高齢者イコール弱者ではない)
見直し14(負担金の引き上げ・見直し/利用限度額・上限の設定/年齢の引き上げ)
継続2(高齢者のいきがいである/実施をしながら効果を見守りたい)

http://www.city.nagoya.jp/somu/page/0000029543.html


 この市民判定員の結論を受けて、当局が「見直し」とした結果が、先の負担金の増額案だった。そして、それを議会に上程する事を一旦は承認したはずが、途中で取りやめという事態になった。しかしかといって、一切変更しないのか、別の案を提案するのか市長の結論は出ていない。

 この一連の流れを見ていると、同じ11月定例会で問題となった湯川市議の問題に似ている事に気が付く。
 湯川市議も総務環境委員会の委員長として採決を行い、発議方を要請した事柄について、いざ発議されるとその署名(発議)を断った。

 河村市長は敬老パス事業を外部評価に上げるという事がどういう事を意味するのか理解していなかった。(そもそも、この外部評価自体、河村市長の意向でできた制度ですけどね)
 湯川市議も請願の採決や発議がどういう意味を持つか理解していないかった。

 というよりも、湯川市議は常任委員会の委員長という職責を理解していない。
 これは河村市長も同様だろう。河村市長も市長という職責を理解していない。

 地方自治体における執行権者は首長一人であって、他の職員は補助要員でしかない。
 法律的にも首長以外、誰も責任を負う事ができないのだ。

 にもかかわらず、河村市長が責任を回避しようとするので市政など1mmも動くわけがない。

 ここで河村市長は胸を張って「私が職員のせいにしたとか、そんなことはありませんよ、一切、そんなもん」と言っている。

 では、少し進めて38分近辺での「待機児童対策」についての質疑を見てみよう。

 ここで次のようなやり取りがある。

 「市長選挙で『待機児童ゼロ継続』と言っていたが、あのゼロというのはどういう意味だったのか?実際には一度も待機児童ゼロという数字を見たことがないのですが」といった質問に。

( 河村たかし 第2期名古屋市政 新新新第2期マニフェスト(簡略版) | 河村たかし
※非常にわかりにくい文章だが、「2.市民の生活支援」の項目に「7−5 25年4月待機児童ゼロ実現」と明記している。 )


 「当局からも『ゼロと言っていいですか?』『いいです』ということでそれに従ってやってきた」と答えている。

 つまり、自らの市長選挙マニフェストについての説明責任の根拠が当局の回答であると言っているのか?

 これは市当局に責任を押し付けている以外の何物でもない。

 河村市長は「自由」が大好きなようだ。
 しかし彼の「自由」というのは、「責任からの自由」なのではないだろうか。

 市当局や市の職員を楯にして責任を回避する姿勢は、まるで「バカ殿」そのものであり、見苦しい限りである。



追記:
河村市長が都知事選挙の誰かの支援をするのであれば、
「都民税減税」を掲げるドクター中松なのではないかという意見があるが。

ドクター・中松氏が立候補表明 東京都知事

発明家のドクター・中松氏(85)=本名・中松義郎=は8日、都庁で記者会見し、都知事選に無所属で立候補すると表明した。東京五輪に向けて「都知事には発想力と世界への発信力が必要」と述べ、都民税減税や五輪担当の副知事設置を政策として掲げた。

http://www.asahi.com/articles/ASG18677BG18UTIL03T.html


*1:「減税」を政策に掲げるという事は政府予算を否定する事であり、政府自体を否定する事になる。または、税の所得再配分機能を否定する事になる。政治というのは税をどのように配分するかを決めるのであって、その配分自体が必要ないというのであれば、政治自体が必要ない。

*2:縮小均衡

*3:日本強靭化計画=ケインズ的経済拡大策

*4:3本の矢の内、前の2つだけ