本日も昨日に引き続き中日新聞には「減税日本解党」の話題が載っていた。
大村知事も事前には相談がなかったようだ。
減税日本の中でも議論に上っているわけではないらしく、相も変わらず「減税日本」=「河村商店」の実態が浮き彫りとなっている。
自ら「民主主義発祥」とか言っているくせに、党内民主主義すら確立していない。
まあ、そもそも河村代表は「民主主義」の意味すら判っていないのだろう。*1
その他にも、「名古屋維新の会」の山本久樹代表と連携して、減税日本ナゴヤから数名を維新の会に移籍させ、維新の会を交渉会派にして、議運に参加させるという思惑があるようだ。
なんとも小手先の誤魔化しにばかり目が行くのだろうか。
そもそも減税日本ナゴヤ自体が、議運での交渉に行き詰って、自ら「議運離脱宣言」を行い、逃げ出したのではないか。そんな物が2会派できたところで事態は何も変わらない。というよりも、トラブルの種が2重になるだけではないだろうか。
それと、即座に山本代表の維新の会に全員を移さない。山本代表自体の立ち位置の特殊性というものを感じますね。河村氏から見ても山本代表には信を置けないところがある?
更に、減税日本ナゴヤの市議から見ても山本代表には求心力はないのでしょうね。
ごもっとも、ごもっとも。
「減税の負のイメージをつくったのは出ていった人たちなのに、残った議員がそれを背負わされている」
まったく見事。この言葉は減税日本の今を語っている言葉ではありません。<今の減税日本を作り出した問題点>を浮き彫りにする言葉です。こういった認識の上にいるから、減税日本は破綻したのであり、たぶん、認識を改めない限り、看板をいくら付け替えようとも同じ結果に陥る事でしょう。
・「負のイメージ」、イメージに拘泥している
・自分たちだけが背負っているという主観的な視点から離れられていない。
実は、出ていった人たちも「同じ穴の狢」と「負のイメージ」は背負っている。
さらに、その烙印を孤独のうちに引き受けているという事を理解していない。
(この視点の固着、視野の狭さ、もっと平たく言うと「他人の痛みを理解しない幼児性」が減税日本、河村たかしの問題点なのです)
・その「負のイメージ」を作った「自己責任」の自覚がない。
そもそも、何が悪かったのか理解していない。
ここで「イメージ」とは何かについて、考えてみましょう。自己のイメージというのは主観的なものではありません。問題となるのは客観的なイメージであり、減税日本関係者には、自己イメージの客観像を捉えられている人が居ません。(視点が固着し、主観的イメージしか捉えられていない)
もし「ブランドイメージ」やら「政党のイメージ」を形成したいと思うのであれば、自分が思ってほしいイメージ(主観的イメージ)はさておいて、第三者がどのようなイメージ(客観的イメージ)を持っているか、真摯に聞く姿勢が必要となる筈です。
つまり「批判に開かれていなくてはならない」
しかし、減税日本も河村代表も、様々な批判に対して、正面から向き合おうという姿勢が見られない。
批判に対して正面から向き合い、修正し、改善していこうという姿勢が微塵もない。
・署名簿の流出問題
・減税政策の経済学的根拠
・南京発言問題
・数々の所属議員の不祥事
これらの問題に対して、その都度、ごまかし、隠ぺいし、責任から逃れて、説得力の無い屁理屈を並べ立てただけだ。
これでイメージが良くなると考えているとすればどうかしている。
今まで放置し、あるいは隠ぺいし、あるいは逃げてきた問題に真摯に向き合う以外に「イメージの回復」はできない。何回看板を付け替えたところで、中身が腐っていては同じだ。
例えば、当ブログの存在はなんだろうか?
私という名もない市民が、権威も肩書もないままアレコレと書き連ねているだけの文章が、それでも少しは耳に痛い、わき腹に刺さるとしたら、それは何故だ?
このブログの文章がただの捏造であったり、嘘、大げさな文章であったのなら、何も気にすることもない。読む必要もないだろう。
ところがそこそこの人々が興味を示し、時に動揺も引き起こしているようだ。
それはここに書かれている事が、すべてとは言わないまでも現実の問題を指摘しているからだろう。近くは「日本政策学校」の講座費用の問題。これにしても、昨年末になぜ報道の指摘を受けて修正をしなければならなかったのか。ありのまま、すべてを公表すれば良いのではないか?
いい加減な事を言って誤魔化そうとするから、それが「嘘」と指摘される。
減税日本ナゴヤの「主観的イメージ」では、会派の議員全員が受講していたのだから、約250万円ほどの受講料も高くないと言い逃れたいのかもしれない。しかし、この高額な講座を会派の所属議員全員が受講したわけではない事は自分たちが承知している筈だ。そうであるなら、この「主観的イメージ」は単なる「主観的希望」であり、事実とは異なる。事実をありのままに公表し、それに「高額である」という批判が寄せられるのであれば、その批判を真摯に受け止めればいいのではないのか。
この自分が知っている事実を真摯に受け止めることができず、自身の「主観的希望」「主観的イメージ」に拘泥してしまうために、それが「嘘」となり、却って「客観的イメージ」に「不信感」がまとわりつく結果となる。
これはネタばらしだ。
これぐらいネタばらしをしたところで、私は結局、減税日本にも維新の会にも将来はないと断言できる。
それは、ヒトを利用するだけで、万民の為を思わない政体は、結局、一時的には力を持ち得ても、必ず破たんするという歴史の教訓を信じるからだ。
こういった政体は、次に必ず「外」に「敵」を見つけてくる。
見つからなければ「作る」
外患を「作る」ような政体が、本当に国民の、地域住民の為を思っている訳がない。
河村氏についていえば、たとえば「南京発言問題」を思い出してみよう。*2
あの河村発言で河村氏の支持は一時的には伸びた。
東京では大々的に河村氏を支援する会合まで開かれた。
しかし、平成24年2月に行われたあの発言以来、すでに2年の月日が経とうとしている。にもかかわらず、問題とされた南京やロサンゼルスにおける被害者数の認識に変化があったという話は聞かない。河村氏がこういった具体的な問題にコミットしたという話も聞かない。
日中関係、名古屋と南京市の関係についても、関係が何か進展なり変化したという事もない。結果として大いなるネグレクト、停滞が発生し、それが今日に至るも続いているだけである。
この停滞が国民や地域住民にプラスになっているだろうか。
懸案となっている「中国領事館問題」にしても、このように交渉チャネルがないまま、いたずらに時間だけが過ぎていくというのは問題の先送り、深刻化を深めるだけなのではないか。
やがて国民や地域住民は気が付くだろう。あれは結局何だったのか?
国民や地域住民の都合を尊重しないまま、河村氏が利己的に騒ぎ立てただけなのではないか。
相生山の問題でもそうだ。
環境保護を訴える人々がいて、河村氏はその事業を止めた。
事業は止めたが結果として中止にするのか単なる中断なのか、結論を先送りしている。
結果として、中止を求めた住民からも批判を受け、もちろん早期に道路を建設してほしい地域住民からも批判を受けている。
中国領事館の問題についても同様に、この問題を利用だけしようとした政治家は、その正体を見破られ見捨てられるだろう。
結局のところ、「良いイメージ」を形成しようとするならば、「良い結果」を出していく以外にない。ちゃんとした仕事をし、結果を残していく以外にないのだ。(単に「一所懸命やった」だけではダメで、プロとして結果を出さなければならない)*3
実の無い言葉や、一時的な看板の付け替え、誤魔化し、厚化粧だけで「イメージ」など好転しない。
この当たり前の事に気が付かない限り、問題は解決しない。