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記憶を歪めるもの

 今日はちょっと毛色の変わったお話をしてみたい。
 人間の記憶のメカニズムが徐々に解明されてきている。

 「記憶のメカニズム」を考える時に、ヒトはコンピューターなどの仕組みを連想しやすい。つまり様々な情報を、どこか特定の磁気素子が記憶しているのがコンピューターであれば、同様に人間の脳は、脳細胞が同じような働きをして情報を貯めていくのだろう、と。

 しかし人間には、コンピューターに見られるような記憶素子とでもいうようなものは見つかっていない。人間の脳においても特定の部位を損傷する事で記憶に障害が出ることがあり、人間の脳においても記憶をしまって置く記憶素子のような物があるのだろうと考えられていた事もあったが、どうやらこの考え方は否定されつつある。

 人間の脳ができることは「連想」であって、まったく独立した情報を個別に「メモリーに焼き込むように」記憶することは得意ではない。

 こんな話もあるらしい。

 人間は言葉を理解しているわけではない。

 人間は言葉を聞いた際に、その意味を理解しているのではなく、実は言葉から連想される事柄を思い浮かべているだけらしい。聞いている言葉の意味を解釈したり、新しく提示された概念を再構成するよりは、自分の既に知っている事柄、つまり、自分の「脳の中のパターン」に繋げて、それに似たこととして解釈したほうが脳にとっては負担が少ないらしい。その為、話の途中まで聞き終えると、聞いているヒトはおおよその話の「オチ」を連想しており、それが連想通りであれば安心し、連想と異なれば違和感を感じるらしい。

 しかしこのような「先読み」は「脳の中のパターン」を持っていなければ成立しない。

 人間が自分の興味を持っている分野、専門分野以外の話に付いていけなくなるのは、このような「先読み」によって脳の負担を軽減することができないからのようだ。

 子どもの脳は可塑性に富んでいるので、自身の「脳の中のパターン」に存在しない新しい概念や知識についても、それを理解する事に負担が少ない。逆に、こういった刺激によって脳に一定の快感がもたらされる。

 しかし、大人の脳は頑迷で、自身の「脳の中のパターン」に存在しない概念を理解しようとする事に困難が生じる。また、ちょっと似た「脳の中のパターン」に無理やり連想を繋げてしまう事もあるようだ。

 生活の中でも時折見られる理屈の付かない思い違いや誤解は、このように見たり聞いたりして得られる新しい現実を、人間がそのまま理解するのではなく、自身の「脳の中のパターン」に合わせて「記憶*1」する事によって起きるようだ。

 ヒトの話を聞かない、または早飲み込みをするヒトは、自分の少ない「脳の中のパターン」に無理やりあらゆる事を繋ぎ合わせてしまうようだ。いわゆる「頭が固い」とはこの事だろう。柔軟に新しい事象に対応することができなくなり、少ない既存のパターンに、あらゆる事柄を無理やりはめ込んでいるのである。

 こういった無理やりの作業を続けていると、どんどん新しいパターンを作ることが難しくなり、少々無理があろうと、既存のパターンにはめ込む事に抵抗がなくなる。
 そしてこうやって硬直化すると更に「ヒトの話を聞くこと」ができなくなってしまうようだ。

 記憶とは連想の再構成でしかない。

 人間が「思い出す」というのは、実は過去の出来事をそのまま思い出しているわけでは無いらしい。その体験をした時に脳の中で起った連想を、何かのきっかけ(紅茶とマドレーヌとか)で想起し、後はその連想によって、「思い出を再構成する」ことによって「思い出」としているらしい。

 ゆえに、「記憶」には欠落が起る。「思い違い」が起る。

 例えば何かの会合の参加者を思い出した際に、そこに居たはずの参加者を忘れてみたり、居るはずのないヒトを居るものと思ってみたりもする。

 「だって、○○さんは、あのパーティーの時、バーベキューグリルの炭を早く消そうとして、水をかけて灰を飛ばしてしまい、皆から顰蹙をかっていたじゃない」などと、ありもしない思い出を構成してしまうこともある。

 しかし、これは「嘘」ではない。


 こういった「虚偽記憶」が米国においては重大な問題となった。

 ある「セラピスト」たちが、患者に「虚偽記憶」を植え付け、「幼少時のトラウマ」をでっち上げて、両親などを訴えさせるという事例が散見されたそうだ。


 つまり、仕事や結婚生活などに困難を覚えたような人が、こういったセラピーを受ける。セラピストは相談者を半睡眠状態にしたりして「幼少時の体験」を語らせる。その際、不用意なセラピストは相談者の「記憶」を「誘導」してしまい、両親などから酷い虐待を受けていたような物語を語らせてしまう。
 勿論このようにして相談者から語られた「幼少時のトラウマ」は、セラピストの誘導によって「できてしまった記憶」であり事実ではない。

 しかし相談者は、半睡眠状態で自分が語る「経験」に興奮し悲しむ。そしてセラピーが終わると「心が晴れたような気分になる」というのである。

 これは、実は全くのフィクションである映画を見ても味わえる体験だろう。
 人間は自分の経験や事実でなくても興奮したり悲しんだりすることができるのだから。

 相談者本人に記憶が無いような場合は(無くて当たり前なのだが)、セラピストは「幼少時に受けたトラウマを、心の自己防衛本能が思い出させないようにしていたのでしょう」などと言っていたようだ。そして「思い出すこともできない程、心の奥底に沈められたこの思い出が、あなたの仕事の(結婚生活の)邪魔をしていたのです」などと語っていたらしい。

 こういったセラピーを受けたヒトたちの中で、この「植えつけられた記憶」から両親を虐待で訴え出る人々が現れて、問題となった。

 実際には起きていないことや、事実とは違う形で残っている記憶=「虚偽記憶」と、それによって引き起こされる「倫理的問題」について/心理学者:エリザベス・ロフタス – @動画


 人間の自我を構成するのは「記憶」だろう。

 私という人間を構成するのは、そういった「記憶」の中の出来事や、人々、そしてそれらの人々との関わり合いである。しかし、その「記憶」ですら、揺らぎやすいという事実は、人間の自我の儚さとともに、その重さも認識させられる。
 人間は様々な考え方、感じ方、想像のしかたをするのであり、自分と同じようなパターンを持つヒトはたぶん、居ないのだろう。(特に、名古屋市内における政治的感性という意味で、私の特殊性は間違いないだろう。それは自信を持って言える*2
 


 この世の中には「謝ったら死んじゃう病」に罹っている人々が居る。
 今のところ罹患がほぼ確定で、有名な人としては「ジャーナリスト*3」の上杉隆氏が居るだろう。

 参照 → 上杉隆のデマや怪しい発言など - NAVER まとめ
      http://www34.atwiki.jp/ddic54/pages/74.html
 傍証や参照先を紹介していたらキリがないのでここら二箇所で。

 彼はあきらかな事実誤認や誤報、虚偽の申し立てを行っていた(というか、現在進行形)
 それに対して事実誤認の指摘を行うと、その説明に、またすぐに底が割れる虚偽を申し立ててくるという行為を繰り返していた。

 もっとも典型的な例が、いわゆる「読売新聞盗用問題」だ。
 彼はこの盗用の指摘に反論するために、東京MXテレビに出演していた。
 http://www34.atwiki.jp/ddic54/pages/85.html

 そしてそこで提示した資料そのものに「著者調べ」と記述されているお粗末さ。
 すぐに自らの反論の底が割れる。

 何もここでもう一度「上杉隆批判」をやろうとか、この問題の検証をしようというわけではない。社会には一定数「自己正当化の鬼」と呼ばれるような人々が居る。そういう人は、自分は生まれてからこれまで、一度として間違った事はしていないとでも思っているかのようだ。
 つまり「謝ったら死んじゃう病」に罹っている。

 上杉隆氏も、「嘘」をついているという意識が無かったのではないかと思う。
 この問題も彼の頭の中では何等かの整合性を持っているのだろう。

 色々と言われている経歴の怪しさも、解釈の相違なのかもしれない。

 私の経験上、こういった「謝ったら死んじゃう病」に罹っている人々は記憶を捏造してでも自己正当化をはかる。そして彼らの中で捏造された記憶を平気で事実かのように述べる。
 彼らの中では事実なのだろう。記憶を捏造したという意識も無いだけに厄介だ。

 そしてこういった人物に、その申し立てを覆す証拠を突きつけると、決まってそれが理解できないという表情を見せる。「嘘がばれた」という表情ではない、「自分の覚えている記憶と事実が異なる」という、世界が歪んだかのような心もとなさを表情に浮かべるのである。

 これは演技でもないようだ。

 本当に彼らの頭の中では、彼らを自己正当化する「事実」が残っていたのだ。
 そして、自己を責めるような「事実」は痕跡もなく消し去られていたのである。

 こうやって自己正当化の為に捏造された記憶や、捻じ曲げられた考え方は一般性を持つことはできない。それは様々な事実と衝突を起こす。そして記憶を歪めた人物は徐々に社会から疎外されていく。

 それでも彼らは自己正当化することが止められない。彼らにとっては、彼らを疎外する社会の方に問題があるように見えてくる。こうなると、歪んだ社会批判と、捏造、フレームアップされた問題把握(陰謀論など)は相互に反響、補強を始める。

 拡声器などを使っている際に、スピーカーから出た音が、マイクに飛び込んでしまい、再度スピーカーで拡大される。この繰り返しが起ると「キーン」と耳に不快な音が出る。「ハウリング」と呼ばれる現象だ。*4

 捏造された記憶、歪んだ社会認識と、社会からの阻害はこの「ハウリング」現象に似ている。

 捏造された記憶、というのは他者との過去の出来事における食い違いを生み出す。
 歪んだ社会認識は社会からの疎外感を生み出すだろう。
 それが酷くなれば、自分を取り巻く複数の他者が語らって、自分を貶めるために陰謀を張り巡らせているように感じられるかもしれない。自分の主張が聞き入れられないのは、誰かが意図的に自分を疎外しているかのように思えてくるかもしれない。

 また、社会認識が歪んでいれば将来に発生する事象も予想ができなくなる、予想が外れる。
 そして頑迷になり、自身の歪んだドグマに固執する。

 これらの問題の大きな要因が、非常に単純で馬鹿馬鹿しい事、つまり「自己正当化」なのである。「謝ったら死んじゃう病」ほど厄介で危険な病はない。



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追記:
ネットにちょっと面白いものが転がっていたので。


*1:厳密には連想を構成

*2:つまり、こう考えると「変わり者」であることは誇らしいことのようにも思える

*3:あくまでカッコ付き

*4:まったく余分な事ですが、最近のマイクには自動ゲイン調整という機能があって、マイクの集音部分を手で隠すとハウリングが起きる。マイクの網掛けの部分に手や指をかけてはいけない。もっと下を持った方が良い。また、ハウリングが起きた時に、それを止めようと、マイクを手で覆う行為は逆効果となる