月曜日のNHKクローズアップ現代で「ひきこもりを地域の力に」という秋田県、藤里町の取り組みが紹介された。
NHK クローズアップ現代
この町も他の地方同様高齢化率が高まっているそうだ。
それにも関わらず、人口約3,000人の町に、「ひきこもり」と呼ばれる未就労の若者が113人も居たという。
番組で紹介された事例は、東京で就職したヒトが、仕事のスピードなどに付いて行けず、地元に帰った。ところが地方では雇用がなく、仕事を離れている間に仕事の環境自体が変化し、自分の持っていた技術が陳腐化してしまったそうである。
現在は職種に拘らず、アルバイトでもエントリーしているが、こんどは高学歴が仇となり、就職できずにいるという。
現代の日本において、生産性の追及、サプライサイド経済学は異常なまでに最適化されてしまった。
今日、ある経営者と話していたのだが、その人の言った一言が強烈に耳に残っている「今は何をやるにしてもヒトを雇ってはだめ」だそうだ。
今の日本は異常なまでに雇用が少ない。
選り好みしなければ職は得られる。という人も居る。
しかし、これは短期的な視点を捉えているだけだろう。短期的に若者が「今を生きていくため」に不安定で技術が蓄積されない仕事に就くとする。いわゆる「身過ぎ世過ぎの仕事」だ。そうして「今を乗り越えて」いる間に、若者も歳を取る。
そうなるとついに「身過ぎ世過ぎの仕事」にも就けなくなる。
雇用が安定しないが為に結婚ができない。雇用が安定しないが為に子どもを生み育てられない。少子高齢化への対策を言うのであれば、真っ先に考えるべきなのは雇用の安定化だろう。
本当の対策は雇用問題にあるのは明白だが、とりあえずは少しでも地域が吸収できる「対策」があるかもしれない。藤里町の取り組みはこれだろう。
・・・詳細には述べないが、「本質的な対策」はまた全然別のところにもある。
それは驚くべき社会設計を提唱している。いずれ機会があれば。
人口3,000人の町で100人を超す未就労の若者がいるとなると、名古屋にはいったいどれぐらいの未就労の若者がいるのだろう。
まったくアンバランスな話だ。
各地域では地域行事や自治会活動の担い手が足りない。
各地の商店街などでもすでに街はシャッター街に代わり、住民の高齢化は進んでいる。
町内の消防団でも充足率は満たされておらず、交通安全運動でも暑いさなか、炎天下に地域のご老人が交差点に立つ。そしてもうすぐやってくる年末の夜回りにも高齢者の姿は目立つ。
こういった場面に各地域の未就労の若者に参加してもらう方法は無いのだろうか。
未就労の若者と、若者の手が必要な人々をつなげる手立ては無いか。
実は「シルバー人材センター」に「家事補助」という制度がある。
http://www.sjc.ne.jp/hp_make/hp_main/hp_index.asp?user_id=1078
この紹介ページには「1回2,520円」と書かれている。
どなたでもシルバー人材センターに「家事補助」を依頼すれば、家庭内の軽作業を手伝ってもらえる。来てくれるのはシルバー人材センターに登録されている方々で、その方々には1時間800円が支払われるそうだ。
1回、だいたい3時間程度を見込んでいるようなので2,400円の労賃となる。
残りの120円は事務手数料となっているようだ。(800円に対する40円)
この制度を若者にも拡大することはできないのだろうかね。
登録した若者に、地域のお年寄りから依頼された家事補助をやってもらうというような。
そしてこういった制度が広く知れ渡り、地域の中でのヒトの行き来が活発になることが、様々な地域の問題を解決していくだろうにね。
なんとなく、これで話したいことはおおよそ話してしまった。
しかし、上で言う「本質的な対策」まで話を広げる気力はないね。
まったく違う話をしましょう。
技術の進歩の速さは恐ろしいほどだね。上のヒトもIT関連企業に勤めていたという事ですが、本当にもったいない限りだ。そういえば昨日、あるヒトと「NetWare」の話題が出ていたけれども、もうこの技術持っていてもな〜んにも使えないか?(理屈は使えるか?)
そうなると、現在、シスコ関係でウハウハ言っている(言っていないか)技術者も、いつ自身のノウハウが陳腐化するか判ったものではないな。
私はソフト技術者として「構造化技術」を進めてきた。
世にはびこる「スパゲッティ」をバッサバッサと切って来たと思っている。
「構造化」の後に「ニューパラダイム」とか言って「オブジェクト指向」が出てきた。
実は、「構造化技術」の視点から見ると「オブジェクト指向」は「構造化」の徹底程度にしか見えない。「オブジェクト指向」の中で持て囃された技術や考え方は、「構造化技術」の中で形は違えど行われてきたことだった。
なので「オブジェクト指向」の設計技法やらツール、言語が出てきても「便利」とは思っても戸惑うことはなかった。
そして「オブジェクト指向」華やかなりし頃にも自分は「構造化の子」と「 goto など書くな!」「グローバル変数を定義するやつは臍噛んで氏ね!」と騒ぎまくってきた。
そんなある日「もうこの世はオブジェクト指向ですから構造化技術は時代遅れですよ」とのたまう「バカ」が出てきた。私には「構造化」されていない「オブジェクト」自体が想像ができないのだが、いったい彼の頭の中ではどのような理解がされていたのか。
まあ、世の中には表層だけ掬って判ったような顔をするバカが多い。
なんとか3.0だとかね。
資本主義3.0 ? はぁ?
こんなの単なる原始資本主義、新自由主義の劣化コピーでしかないじゃない。
そもそもナントカ3.0とかってネーミングが香ばしい。
東弘紀の「一般意思2.0」をもじって「民主主義2.0」とかって言っていたヒトもいたけど、その「一般意思2.0」自体が底が抜けている議論で、「民主主義2.0」もとても有効だとは思えない。
それを「 資本主義3.0」とまで言われると、「おだいじに」ぐらいしか言いようが無い。
既存のものの中の良さがわからないのは、単なる勉強不足だ。
既存のものの中の良さを見出せていないだけだ。
既存のものを新しいナニカに代えれば素晴らしい世の中になると思えるのは、
単なる思い上がりだ。
既存のものに対する勉強もいい加減なまま、それを乗り越えるナニカが提唱できると思える心根が貧しい。
ヒトは常にヒトであり、テクノロジーが進もうと、パラダイムが変わろうと、ヒトの本質は変わりはしない。足を踏まれりゃ痛くて、誉められればうれしい。腹が減れば切ない気分になり、興奮すればのどの渇きを覚える。
ヒトの本質とは何か。という問いを見失ったナニカはナンセンスでしかない。
しかし、そういう事を口走って旗を振っている人々は、非常に原始的な人間の本質に素直であるから幾重にもわたって戯画だ。