少々前にテレビキャスターがヨットで太平洋を横断しようとして遭難し、救助を求めたところ、その救助費用を「自己責任で負担せよ」という意見があちこちからあがったようだ。
このテレビキャスターが、いわゆる「イラク人質事件」の際に、若者三人の「自己責任」を追求し、国の救援費用等を負担せよと煽ったからという理由らしい。
確かに、「イラク人質事件」については酷い言説が振りまかれ、今に至るもこの「自己責任」という言葉は日本の社会に悪性のウィルスのようにはびこり、社会を痛めつけている気がする。*1
「イラク人質事件」の際には「自己責任」という言葉は「責任も取れないようなイラクにのこのこと出かけているんじゃないよ」というような「同調圧力」として作用した。
「ヒトが取れる自己責任には限界があるのだから行動にもおのずと限界がある」という主張とも取れる。これは「世間様に迷惑をかけない」という非常に伝統的な日本の社会における「同調圧力」と整合性がある。*2
今回の救助を受けて彼のテレビキャスターに「あの当時、自身は自己責任論を展開したのだから、今度は自分が自己責任で救助費用を負担せよ」と主張する背景には、「イラク人質事件では人質が自己責任論を追及されたのだが、そもそも人質となった人々は被害者であり、その痛みを理解せよ」というような批判が含まれているような気がする。
こういった心情的な主張は理解するし、「自己責任」を訴えていたヒトが「自己責任」を追求されるという人生の皮肉、悲喜劇も興味深い。
しかし今、当のテレビキャスターに「自己責任論」を押し付ける行為は正しいのだろうか?
私は正しいとは思えない。
それは一部で言われるように、「現に今、彼のテレビキャスターは被害者なのであって、今の段階で自己責任論を再論しても議論が感情的に流される。更に、同行者という存在もある」というような感情論のレベルでの話ではない。
ここで件のテレビキャスターに「自己責任」を求める理論は、単に「自己責任論」自体を認めてしまうことに他ならない。そして、このテレビキャスターが救助費用を全額払ってしまったとしたらどうなるのだろうか?
このテレビキャスターは「自己責任」を果たしたのであるから、今回の行動については誰に何を言われる筋合いも無いということになりはしないか?つまり、「自己責任を果たすことができる者」もっとあけすけに言うと「払うべき金を払うことができる、十分な金持ち」は何をするのも自由ということになり、「自己責任論」(「ヒトが取れる自己責任には限界があるのだから行動にもおのずと限界がある」)はより強化され、さらに「責任が取れる度合い(あけすけに言えば、金のある度合い)」でヒトの間には「自由に差がある」という事にもなってしまう。
「自己責任」という言葉は「新自由主義」の呪文である。
「自己責任」さえ取れればどのような愚行であれ自由であるという発想が「新自由主義」ともいえる。経済理論を無視して、妬みなどの感情に任せてデフレ不況時に「引き下げデモクラシー」を声高々に叫ぶ恥知らずも自由だし、震災の直後で、他の地域の困難も尻目に減税を行い、今また城を木造で作り変えようとする愚行も自由だ。
ブラック企業といわれようと、そこで働くことも自由だし、その安い居酒屋を利用するのも自由だ。さらに言を左右にして恥知らずにもその経営者に政権党が公認を出すのも自由だ。
一地方の貴重な歴史資料の展示を廃止して都会的なカフェを図書館に併設することも自由だし、歴史的な事実も理解せずに適当な妄言を吐くことも自由だろう。
人間は自分がどこまでも「自己責任」を果たすことができるのなら、何をしようとも自由である。こう考えるのが「新自由主義」だ。
この考え方は徹底的に間違っている。
ならば、この社会が、自分の言いなりにならないのなら、いっそ破滅してしまえとテロに走り、サリンを撒く事も自由なのか?*3
その罪を受け、自己責任を果たせば人は何をしても良いというのか?
河村たかし名古屋市長の言葉にも、こういった制限のない「自由」への希求が感じられる。しかし、人間は無制限な自由など持っていない。*4経済理論を無視して勝手な解釈を行えば、社会は毀損し、その被害を蒙るのは自分たちではなく次の世代だ。図書館を破壊し歴史資料の展示をやめればやはり被害を蒙るのは次の世代であり、前の世代の労力をも無に帰すことになる。
人間は様々な関係性の中で生きている。
この選挙で「しがらみのない候補」という人物がいたが。そんな人物に政治ができるわけがない。彼(というか、彼女)は単に自分に関わっている「しがらみ」を無視しているだけに過ぎないのだから。
人間は様々な関係性の中で生きている。
その関係性はこの社会を様々な方向に向けようとする。
この方向性の調整が「政治」と呼ばれる。
政治とは調整のための技術である。
ところがこの政治の現実をまったく理解していない人々がいる。
「民主主義は多数決で意見を決める」と豪語する人々である。
まことにご苦労様、そして幼稚だ。*5
その昔は複数の人間集団の間の利害調整は肉体的な実行力で解決したらしい。
平たく言うと、部族間の対立や国と国との利害は戦争で解決を図った。
戦争には「正義」もなければ「悪」もない。(「悪」はないが「バカ」は居る)
戦争において「正義」を求めることは無駄な行為である。戦争は「正義」が勝つのではなく、「勝った方の主張が正義として喧伝される」のが歴史が教える事実だ。
戦場では部族や国の利害を背負った代表者が、それぞれの運と力を使って戦う。
勝負は時の運。そして勝った方の主張が通ることとなる。
第一次大戦、第二次世界大戦と、悲惨で広範な戦争を経験した人間は、人間集団の間における「戦争」という調整を排除しようとした。そしてそれは日本においては一世紀弱成功している。
日本という社会は「戦争」という形で他国と政治を行っていないし、国内においても国家が一方的に「暴力」を独占しつつある。(合衆国修正2条の精神は日本にはない。日本にあるのは、太閤秀吉の刀狩の精神なのかもしれない)
多数決というのは実はこの「戦争」と大差は無い。
戦争に「正義」が無いように、多数決にも「正義」は反映されない。
人間の集団が常に「正義」を選択できていたなら、歴史上の悲劇は起こらなかっただろう。そろそろ謙虚に気が付くべきだ。人間は賢くは無く、集団で決を取っても衆知を集めて正しい選択ができるとは限らない、と。
多数決など、民主主義の推論の一つでしかない。
人間は関係性の束の中にいる。自分が今ここに存在するのも、親やそのまた親の存在があったればこそであり、今、自分の物であると思っている物も、実は単なる預かり物でしかない。自分が亡くなればそれは自分の子や孫に譲るのであるし、特に、公共の物であれば、より良くして子や孫に譲るべきではないのか?
今、この時の。刹那的な多数者による横暴を許してはいけない。
過去から未来へと流れる時間を意識し、その中にいる自分としての自覚と責任を持って、過てる「自己責任」を言い募り自由を、いや、放蕩をなす者に否やを突きつけなくてはならない。