市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

一見、当たり前に見えること

 昨日は酒を飲みながら政治談議を行った。
 私は基本的には政治の話題を肴に酒を飲むのは好きではない。ただ、昨夜の政治談議は面白い事を気づかせてくれた。

 様々な話題が行きつ戻りつする中で、いわゆる「生活保護費の不正受給」の話題に行き着いた。その人は「生活保護を受給するヒトも3つに分ける必要がある。Aは病気などで働けないヒト、この人たちは守らなければならない、この人たちに対する生活保護は問題ない。Bは自分で生活を成り立たせよう、就労しようと思っているが機会に恵まれていないヒト。こういうヒトに対する受給もわかる。しかし問題はC、仕事もあるのに働かないヒト、こういうヒトが生活保護を貰っているのは許せない」と言っていた。
 「働かざるもの食うべからず」とも「働いているヒトと、生活保護を受けているヒトが同じ収入では、働いているヒトが馬鹿を見る。正直者が馬鹿を見るような世の中ではいけない」とも言っていた。

 それぞれに一理ある。たぶん、今の世の中では一理どころか社会的コモンセンスという意見なんだろう。酒席の列席者はほぼ全員がこの意見に賛成していた。

 「そういった受給者に渡すお金がもったいない」やら「そういうヒトは国を危うくするから、どっかへ出て行って貰った方がいい」ぐらいまで過激な意見も飛び出した。

 こういう意見も、私は過激な意見と思うけれど、今の社会ではそこそこ賛同を受ける意見なんだろう。

 こういった一見「もっともなように見えて実は間違った考え方」というものは様々にある。本質的問題は「視点の固定化」なんだが、それを考えていて「モンティ・ホール問題」を思い出した。


モンティ・ホール問題

 「モンティ・ホール問題」を簡単に説明すると、TVのクイズ番組などで昔よくあったスタイルについての議論だ。

 クイズの勝者が最後のチャレンジに進む。スタジオの後ろから3つの扉が現れる。司会者はこの3つの扉の内の1つに豪華商品があるという。挑戦者は3つの内の一つの扉を選ぶ、ここで司会者は選ばれなかった2つの扉の内の一つを開ける。と、そこはハズレ。ここで司会者は言う「さて、残った扉は2つです。ここで選択を代えても良いですよ」悩む挑戦者、スタジオの観覧席からは「代えろ」という野次や「代えるな」という野次が飛ぶ。さあ、代えるべきか代えざるべきか、そして挑戦者は豪華商品を手にすることができるのか。画面は挑戦者の顔をアップで映し、BGMも最高潮に雰囲気を盛り上げる。

 そしてここで、コマーシャル。

 モンティ・ホール問題とは、このような場合、挑戦者は扉の選択を代えたほうが有利なのか、代えない方が良いのか、または両者の確率は同じなのか。という問題である。

 さて、あなたはどんな選択が最も有利だと思いますか?


 生活保護の問題に戻ると、確かに「働かざるもの食うべからず」という考え方は尊い、米国にはピューリタンの精神があり、その貯蓄性向と勤勉さが米国の資本主義社会を成立させたといわれている。日本が明治維新の際、ピューリタンのようなキリスト教的裏づけがなくても資本主義社会に乗り出し、重商主義の中で富国強兵に成功した陰には、こういった街場の常識が働いていたのではないかという考え方もある。

 しかし、経済学的、社会学的な観点からは「働かざるもの食うべからずなので、社会から排除します」としたならば、その社会は成り立たない。

 また、「正直者が馬鹿を見る」という価値観も非常に重要だろうと思う。しかし私には、働いている者同士の中での、その成果と報酬というバランスであれば理解できるが、成果も挙げていない、または成果を挙げるべき機会も与えられていない生活保護という状況では比較にならないのではと感じ、生活保護の問題にこの考え方を持ち出す事に違和感がある。
 これは一見、汗水流して働いている者が正直者で、怠惰な生活保護受給者は不正直であると看做しているように思えるが、本当に事はそれほど単純だろうか?
 汗水流して働ける場を与えられている幸運と、それが与えられない不幸というものもあるのではないだろうか。
 実際に、これほど社会から働く場が失われ、ヒトの尊厳が踏みにじられていくと、働けるヒトは、その働けるということ自体が仕事の報酬以上に、その人にとって価値があるのではないだろうかと感じてしまう。

 法律と風習とによって、ある永劫の社会的処罰が存在し、かくして人為的に地獄を文明のさなかにこしらえ、聖なる運命を世間的因果によって紛糾せしむる間は、すなわち、下層階級による男の失墜、飢餓による女の堕落、暗黒による子供の萎縮、それら時代の三つの問題が解決せられない間は、すなわち、ある方面において、社会的窒息が可能である間は、すなわち、言葉を換えて言えば、そしてなおいっそう広い見地よりすれば、地上に無知と悲惨とがある間は、本書のごとき性質の書物も、おそらく無益ではないであろう。

  一八六二年一月一日 「レ・ミゼラブル」 序文 
  ヴィクトル・ユーゴー(豊島与志雄訳/青空文庫より)


 昨今は生活保護受給費の削減が国民的コンセンサスになってきているように思える。
 生活保護の受給者を減らし、申請者を「水際作戦」とやらではねつけて、更に受給金額も減らしている。
 これも経済学的には誤りだ。
 これは結局、縮小均衡の経済学に他ならない。

 生活保護受給者というのは裏を返せば消費者でもある。
 こういった消費者の存在が、一定の商店の売上げを支える事になる。

 経済というのは循環なのであって、それを考えればただでさえ内部留保が溜まる一方の高収益企業に対して法人税率を引き下げ、更に内部留保を貯めさせても経済は活性化しない。それよりは消費性向の高い(というか、消費しなければ生きていけない)貧困層に財を分けて、経済の循環を図るべきなのだ。

 悲しい事に、利益を上げる企業というのは財の集め方も良く心得ている。
 公的セクタがこの部分に財を与えれば、その財はそのまま滞留するだろう。

 しかし、生活に困窮している層というのは財の貯め方を知らない。
 公的セクタがこの層に財を再配分しても、自然とその財は、財の集め方を心得ている層に移転していくようになっているらしい。そして、この流れこそが経済の活性なのかもしれない。


 生活保護社会保障という財の再配分は、次の経済を活性化させる原料となる。

 「企業であれば、こんな働かないような者は要らない」という意見もあった。企業と社会、国を同一視して考える人々が一定数居る。書店に行けばビジネス書などの棚にはこういった「誤った」考え方の書籍が山積みされている。

 企業は収益を上げることが目的であって、社員はその為の要員だ。それであれば目的に準じない存在は必要ない。そうかもしれない。しかし、社会や国には予めの目的はない。収益を上げるという考え方もない。そして、社会や国に生まれてきた者に対して、選別し、排除する考え方は誤りであり危険である。


 ニーメラー牧師の詩ではないが、こういった選別はどんどん先鋭化して、遂には社会を同質性の死に至らしめる。ナチス・ドイツ、軍国日本、文革中国、そしてカンボジアポル・ポトなど、排除の論理を振り回す社会がどのような末路を辿るかは枚挙に暇がない。

 現在の日本国憲法は全ての国民に無条件に「健康で文化的な最低限度の生活」を権利として保証している。これは何もその者に対する際限のない奉仕を示しているのではない。
 国民として生まれた者を社会の中に留めて置こうとする先人の知恵である。

 こういった知恵を無視すれば、社会から排除された者たちは国の中で自分たちのコミュニティを形成する。そしてそういった住民間の壁が社会の中に無数に存在すれば、その中で社会そのものを危うくしかねない存在まで産み落とされる。

 反社会的勢力としての「暴力団」であるとか「カルト」
 または「教条的暴力集団」などが存在できるとすれば、それは社会そのものが成員に対して選別、排除を構えた時である。


 また、企業の成員は常に生産性を求められる。
 与えられた資本財から、それ以上の価値を生み出し、付加価値を求められる。

 国民にそれを求めるのは「サプライサイド経済学」である。
 国民に生産性を求め、より安い賃金で、より働くように要求する。
 社会にも投資資本とそこから得られる利益が常に意識され、投資資本に見合う利益、利便が得られないものを「無駄」と切り捨てる。


 企業であればこういった「サプライサイド経済学」は当たり前だ。

 しかし、社会においては誤りだ。

 特に、現在のように需要がふるわないデフレ期においては、サプライサイド経済学を振り回して総供給を増やしても、それこそ無駄だ。経済がより一層困難になるだけだ。

 それよりは国民の中の総需要を増やす必要がある、つまりいっそ、生活保護受給者に、より保護費を配って、より消費をしてもらっても良いぐらいなのだ。

 あなたが商店の経営者で、彼ら受給者を顧客としているとすれば、どう考えますか?

 生活保護議論に対して「生産性」の視点だけを持ち出すのは、そして「消費者」の視点に立って考えられないとすれば、視野狭窄であり、誤りでしかない。


 さて、リミットが近づいてきたのでモンティ・ホール問題に戻ろう。

 1.3つの扉(A,B,C)の内一つに当たりの景品が入っている。残りはハズレ
 2.挑戦者は1つの扉を選ぶ
 3.司会者は選ばれなかった扉の内、1つを開ける
 4.その扉はハズレである
 5.司会者は挑戦者に扉を選びなおして良いと告げる

 さて、選びなおすべきか、そのままが良いのか。はたまた、どちらでも同じか。

 答えは「選びなおすべき」

 上の5のシーンで、第二の挑戦者が現れて、それまでの状況が判らないまま、二つ残った扉の内、どちらを選びますかという事であれば2つ残った扉は50%づつの当たり確率となる。
 また、司会者が3のシーンで2つある扉の内、どちらを開けるか全くランダムに選択するとすれば(つまり、司会者も正解の扉を知らないとすれば)2つ残った(残ったとして)扉の当たり確率は50%だ。(というか、司会者が当たりの扉を開けてしまう確率もある)

 今、挑戦者がAの扉を選んだとしよう。Aが当たりの確率は33.3%でB,Cのどちらかの当たり確率は66.6%である。
 ここで司会者がCの扉を開ける。
 そうした場合、Aの扉の当たり確率は50%に増えると考えてよいのだろうか?

 そうではない、Aの確率はそのままで、B,Cの内残ったBに、B,C二つの扉の確率66.6%が移るのである。
 この移る作業は正解を知っていた司会者によってなされたのである。

 生活保護について、一見すると正しいように見える考え方も、サプライサイドにだけ立った視野狭窄の結果でしかない。彼らが消費者であるという視点に立ってみれば別の考え方が現れる。

 モンティ・ホール問題においても、何も知らない挑戦者という視点に立ったまま考えを硬直化させれば、残った扉の当たり確率は同じに見える。しかし司会者の視野に立ってみると別の世界が開けてくる。

 この世の中には一見すると直感的に当たり前のように見えて、実は間違っているという事柄は幾らでもある。

追記:
 かといって、私は生活保護の不正受給を肯定しているわけではない。

 適正な受給のためにはケースワーカーの増員が急務だろうと考える。そしてきめ細かな対応が必要とされる。
 しかし、「生活保護なんかに税金を使うな」という主張の方々は、こういったケースワーカーの増員という経費にも批判的であったりする。

 実は、ケースワーカーの増員というのも、雇用の創出なのであって、社会的要請が高まってきているのであれば増員するのは当然だと思うのだが。

追記:
 上で言っていた「働くものと生活保護受給者が同じ収入」という問題、またはその逆転は、働くものの最低賃金が低すぎるという問題であって、ここで生活保護費を下げるというのは転倒した考え方だ。
 こここそ、労働組合が声を上げるべき事柄で、民主党が声を上げるべき事柄なのではないのか?

 それができない民主党なら要らない。