市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

2017年にあたって

前回のエントリーで「属性を愛する」という行為が如何に危険な帰結を持つか、次回の論考(つまり、今回)検討したいと申しましたが、もう少々先に伸ばします。

今回は新年ということもあり、もう少し明るい話題を取り上げたいと思います。

ちょうど、元旦の中日新聞でも堤未果さんと井手英策さんを迎え「分断社会を超えて」と対談を掲載している。ここでも面白い指摘がある。

すでに日本国内において平均所得以下の国民が人口の六割を占める。(平均線が全体の半分より上にあるということは、上に突き抜けて高い層が存在するということ)

本来であれば、この六割の層は再分配が実現すれば利益を得られる層ということになる。
つまりこの人々は「受益者=助けてもらう側」であり、再分配を主張すれば、国民の(有権者の)過半数を味方につけることができる。筈だが、そうはなっていない。
実際には再分配を訴えて、格差是正を主張しても「なんで自分がそんなことをしなきゃいけないの」と、冷たい眼差しになってしまう。

日本の社会では自分を「中の下」であると自覚する層が多い。つまり、まだ自分は中間層にとどまっているという意識がある。だから、実態として貧しくなっても自分は「負担者=助ける側」にいるという意識がある。


税とは所得の再分配であり、税を拡大させる(増税)とは、再分配の拡大であるならば、国民(有権者)の六割以上はその恩恵に預かれるはずだ。しかし、自らを「負担者=助ける側」にいると自覚する人々は、この再分配を否定し、負担を否定する。実はその負担など有りもしないのに。

これは全く実感する。

かのリコール選挙の頃、減税日本を応援している人が河村市長の減税政策に期待していると語っていた。しかしその人は年金受給者であり、河村流減税政策による恩恵は受けようがないのだった。

また、同様に河村市長の熱烈な支援者が、実は減税政策で利益など受けていないであろうにも関わらず、減税を受けていると誤認していた例もある。
 2011-11-10 河村・減税政策・一部市民


社会の中に様々な分断線を引く。社会を様々な階層、集団、志向に切り分けて個別に粉砕撃破する、あるいは相互に衝突させて力を削ぐ。(社会下層におけるネトウヨサヨクの衝突などこの最たる例だろう)そうして国民が(有権者が)本当に向かうべき課題に向き合わせない。為政者としてこれほど好都合のことはない。

実態として再分配を受けるべき平均所得以下の層(再分配による「受益者=助けてもらう側」)が、再分配(税)を否定し、「負担者=助ける側」の主張、減税、自己責任論を振りかざす。社会的な下層(無産階級・勿論私もこの層だ)が、さらに最下層を叩く構図を作り出す。(そして、更にその下層に移民、外国人労働者(研修生)を置くという構図になっているのかもしれない、まるで江戸時代の四民制のようだ)

こうした人々に「公務員は良い給料を貰っているゾ」と公務員給与削減を訴え、「地方議員は働きもせずにこんなに高給を貰っている」と議員報酬の削減を煽る。いたずらに対立を生み出し、分断を政治利用しているに過ぎない。地方議員とはいえ報酬の削減幅として突然「半減」を主張することが常識で考えて異常であると思えなくさせている。感情だけで*1政治的主張している。これがどれほど危険な事か理解しているのだろうか。

対談で井出氏は分断を企図し、対立を煽る姿勢を批判している。

政府やマスコミが「財政危機を煽りすぎ」とも指摘している。

財政危機を資産とのバランスを欠いた議論であるという指摘がある。私はそもそも国や地方といった公的セクタの債務は単に一国内での財のバランスが崩れているだけで、税制などでいくらでも調整できると考えている。MMT(モダンマネタリー理論)から見るならば、

公的セクタ損益+民間セクタ損益+貿易収支=0

なのであり、国や地方の赤字が民間企業(及び個人)の利益(資産の拡大)を生み出していると考えられる。(こうした値に比べれば、貿易収支は微々たるもの)


また、「肩車社会論」もそうで、単に年齢(六十五歳)で受益者と負担者を分ければ負担比率が増大するように見えるが、六十五歳以上でも働く人が増えたり、女性も就労する側になるのであれば負担比率は変わらないと考えているそうだ。


対談では、こうしたオーバートークや極端な主張、「恐怖に踊らされないで」と警告を発している。


また「成長頼みより安心を示して」とも主張されている。現在のアベノミクスでは、経済成長など望めないだろうとは思っている。過剰流動性は高めたが資産の偏在、格差の拡大を生み出しただけで経済の循環は生まれていない。

政府(や一部、ポピュリスト政治家)が国民の不安を煽り、社会の分断を図り、その恐怖と怒りを政治利用しようとしている。こうした企図に振り回されて藁人形に竹槍を刺しているような行為は非生産的であり、そんなものは政治でも何でもない。

本当の政治とは国民に安心を与えることだ。
経世済民とは世を治(経)め民を救(済)う事であって、民の間に格差を生み出し、職を奪うもの(竹中平蔵)が経済学者であって良いはずがない。

井手氏や堤氏は日本国内における経済成長について否定的なようだが、アベノミクスなどなくても経済成長は起こりうる。経済成長の最大の要因はイノベーションである。

その大きな種が既に目の前に来ている。

 人口が減少しようとも、経済を縮小させる必要はない。
 高齢化社会が来ようと、いや、高齢化社会であるからこそ、国内総生産(総消費)は伸びる可能性がある。


 自動運転自動車においては、この2017年にも米国内で実証実験が始まるかもしれないという。映画「マイノリティ・リポート」で描かれた社会はすぐそこに来ている。

以前、取り上げたティシュ・エンジニアリングの分野でも、どんどん夢のような技術が実現化し、目の前に現れようとしてる。

こうしたイノベーションは確実に需要を生み出し、消費を発生させる。

人間は、いままで願っても手に入れられなかったものでも、金で手に入れることができるようになる。そうした事物が市場経済の上に乗るのだ。


人間の基本的な消費財は当初「食」だけだっただろう。

多分、江戸時代ぐらいまでは、衣料も住居も、自給自足で経済の上には乗らなかった。
「食」における塩が交換の対象となり、市場経済の上に乗った。やがて衣料も効率的に、集約的に生産されると市場経済の上に乗る。明治政府の出現によって土地所有の概念が変わると、住居(の土地)も市場経済の上に乗るようになる。
こうして基本的な消費対象としての「衣・食・住」が揃った。人々はこの中から自身の得意な分野に就き、あるものは住居を提供して衣料や食を得るようになった。

こうした消費対象はそれぞれのイノベーションを受け、生産性が拡大し、余剰の財を生み出す。その余剰の財が新たな消費欲求を生み出す。
情報(かわら版から、新聞、ラジオ、テレビ)、余暇(読書から出版、音楽鑑賞や観劇、スポーツ)、そして移動手段。

いまや現代人の家庭は家電で溢れ、人は移動手段として車を当たり前のように所有するようになった。

ティシュ・エンジニアリングが進展した社会ではヒトは自身の予備の臓器を準備するかもしれない。(映画「アイランド」で示されたそれは、あまりに醜悪であり、また効率が悪い)


古代においては、中国の支配者である皇帝しか望めなかったような願望。人間の根源的な欲望が、その一部とはいえ、ついに市場経済の上に乗ろうとしている。お金さえあれば、(限定的な)不老や不死が手に入ろうとしているのだ。

自動車登場以前に、自動車が人類の活動をどれほど拡大し、どの程度経済を拡大させるか予測不可能だったように、このイノベーションは確実に経済を拡大させる。人口は増えなくても、実質GDPがどれほど上昇するものか、想像もできない。


今の社会を近視眼的に見てはならない。ましてや対立を煽るような歪んだ扇動に乗って見誤ることはあまりに知恵がない。

恐怖と怒りのみを煽り、分断と対立を深刻化させる、扇情的な人物は、政治の舞台には要らない。

政治を語るのであれば、人々に安心を与え、若者に希望を与えるべきだ。

2017年がこうした転換の年であることを期待する。



[以前の関連記事]

 2016-09-19 豊洲の空洞とアジア大会の200億円

 2015-04-23 更に重ねて言う。勇気を持って経済を拡大させるべきだ



追記(2019/4/27):
ビジネス特集 お金がないなら刷ればいい!? | NHKニュース

*1:なんせ、議員報酬を法に準じて適正化した議会に対して、根拠もなく「許せない」と宣うのだから、もはや感情的に議員報酬の半減を求めているとしか考えられない。