市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

道を見失った時にどうすべきか

多数決(民主的手続き)は「正しさ」を担保しない

 社会運営は航海や旅に喩えられる。「首相に国家の舵取りを任せる」とか「国家の進路を決める」というような表現も実相から外れているとは思えない。

 日本という国は1億人からの人間が集団で旅をしているようなものだ。この旅の進路を決めるのは、首相という一人のリーダーかもしれないが、そのリーダーの決断までには様々な民主的手続きがとられる。

 1億人の中から年齢によって成人を認定し、すべての成人によってそれぞれの地区の代表を選択する選挙が行われる。そしてその代表によって一人のリーダーが決められる。

 私はこういった選挙による民主的手続きが万能であるとは思えない。
 選挙で形成された多数派がすべての事柄を決めてよいとするのは誤りだ。

 その理由は、選挙において争点は様々に提出されるが、選択肢は限られているという制限にある。
 この政策についてはこの人の言うことが正しく思える、しかしこちらの政策はこちらの人がより納得できる。しかし選挙ではどちらか一方にしか票を投じることができない。という選択の不全は常に起きる。

 また、特定の少数者の切実な問題について、多数者が価値観を押し付けることが正しいとは思えない。社会には様々なマイノリティがある、このマイノリティの切実な問題について、多数者が横暴にも多数者の価値観を押し付ける行為は許されてはならない。

 さらに、選挙において、有権者はすべての情報を開示されるべきだ。しかしその情報に触れることができるものは一部に限られている。十分に時間とお金があれば情報に触れることも可能だろうが、そうはならない。つまり有権者は非常に限られた、一部の情報だけで代表を選択する事になる。私からみると、有権者は目隠しをされたまま選択を迫られ、いざ選択後に失望しても「あなたが選んだのですから」と言われているに等しいと感じる場合がある。また逆に、有権者の目の前には、とても目を通しきれないほどの情報が置かれているがために、結果として有権者は情報の消化不良を起こして有効な選択ができないということもあるように思われる。

 日本国内の選挙について、一票の格差問題であるとか、世代間の投票率の問題などが取りざたされるけれども、私にはそれ以前に、選挙制度というものが果たして有効に機能しているのか疑わしいという疑問がある。

 と、なってくると衆愚批判に近くなる。いわく「一般有権者には全うな政治判断などできはしないのだから、現在行われている普通選挙などは"おためごかし"にすぎない。もっと、全うな政治判断ができる国民だけで選挙を行うような、試験なり資格制度を設けたらどうだ」というような意見が出てくる。

 しかし、私はこういった意見にも同意できない。どうせこのような制度を作ったところで、歪は常に内包されるのだろうし、それは問題を別の部分に移しただけに過ぎないと予想できるからだ。また、こういった考え方は普通選挙の本質を理解していない。

 「広ク会議ヲ興、万機公論ニ決スヘシ」とされれば「正しい政策」が得られると解釈するのは誤りである。このような手順を積んだ結論は、手続きとして「正しい政策」とされるだけなのである。つまり、「皆が決めたことであれば、その結論がどのようなものであっても、皆が甘んじて受け入れざるを得ない」という「消極的覚悟」が普通選挙の本質だろう。

 この視点に立てば、衆愚批判は意味を成さないことが判ってくる。
 自らも衆愚の一部としてこの社会に身を置く以外にないのだ。

「圧倒的な民意」が論理的に間違っているという事例

 長々と判ったような、判らないような事を書き連ねたのは、前回のエントリー「減税日本は何と『平行線』なのか」における論考と、それ以降の広沢県議とのやり取りについて考えていると、河村市長を選び、市会リコールを成立させ、減税日本の市議、県議を生んだ名古屋市民の選択とは何であったのかと考えざるを得ないからである。

 この一連の議論で、河村市長の市長としての選択も、減税日本の政策も、現実的な政治選択として有り得ないという事が理解できる。もはや政治選択、政策論争ではなく、良く言って宗教、はっきり言うならば「オカルト」でしかない。


 【魚拓】減税日本は何と「平行線」なのか - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0

 この一連の広沢県議の回答を読んでいると、私の頭の中には映画「八甲田山」のあのメロディーが浮かんでくる。

八甲田山 特別愛蔵版 [DVD]

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 この映画は、企画した某社の存在から、集団の運営論を裏テーマにしているのではと言われ、実際に企業などの研修でも視聴されるようだ。(映画封切の際には某団体が大量にチケットを配っていましたからね)

 この映画で語られるのは、集団を率いるリーダーの決断には何が必要かという教訓です。

 三国連太郎演ずる青森歩兵第五連隊の山田少佐は、傲慢にも道案内を断り、気象条件にも無頓着に歩を進める。深夜になって酷寒の辛さから、根拠もない推測で行軍を開始させ、結果として大量遭難を引き起こす。

 翻って高倉健演じる弘前歩兵31連隊の徳島大尉は、案内人たるさわ女(秋吉久美子)の言葉にも謙虚に耳を傾ける。全隊員がさわ女に敬礼をもって別れを告げるシーンは、日本映画の中の名シーンといっても過言ではない。

 青森連隊の本来の雪中行軍指揮官である神田大尉(北大路欣也)は山田少佐の横車と、好転しない気象状況に「天は我々を見放した」と呟きます。この映画のもっとも有名なシーンでしょう。
 天の意思は判りませんが、歴史の知らせるところでは、この世の中はそこそこ因果関係が成立します。つまり、現実の状況に目を向けず、思い込みで行動すればしっぺ返しを受け、現実に謙虚な者に、やがて成果は微笑む。

 この一連の広沢県議の言葉には、謙虚に事実に向き合おうという姿勢が感じられません。

 まず、減税政策を掲げて成果を挙げた例を求めたところ、「レーガン減税」「ブッシュ減税」を挙げている。いわゆるレーガノミクス、小さな政府論の頃のお話ですが、当時の米国は確かに連邦政府の要員が多かった、肥大化した政府要員を削減するという意味はあったのでしょう。
 しかし、今の日本がそのような大きな政府でしょうか?
 日本の公務員数は多く、人件費率が高いのでしょうか。

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 こちらに一つの資料がある。
 日本は財政規模でいうと、米国に等しいが公務員数では多くない。

 この差が児童虐待問題で課題になった、ロサンゼルス郡児童保護局(DCFS)にソーシャルワーカーが4000人いて、名古屋市には49人しかいない差の理由の一つなんでしょう。(人口比でいうと名古屋市には1000人程度の配置となるそうだ)果たして河村市長は、本当にこれを参考にした児童虐待対策を進めることができるのでしょうか?

 さらにレーガノミクスの当時、米国はインフレ(スタグフレーション)下にあった。
 供給不足だったのであり、サプライサイド経済学が有効に機能する下地があった。しかし現在はまったく逆だ。今のように供給過剰が明白でデフレが続いている際に、生産効率を上げてさらに供給を増やすというのは正気の沙汰ではない。

 また減税政策の根拠となる経済理論をと求めたところ、ハイエクフリードマンがそれだとおっしゃいました。

 おっしゃいましたね〜。

 フリードマンの仕事に「恒常所得仮説」という考え方があります。これをフランコ・モディリアーニが発展させ「ライフサイクル仮説」としました。

 恒常所得仮説あるいはライフサイクル仮説によると,消費は「恒常所得」に依存し,財政政策は恒常所得を変化させないかぎり消費に影響をおよぼさない。恒常所得は現在および将来の予想所得の加重平均であるから,たとえば,一時的な減税の効果は,恒常所得仮説によると,きわめて限られたものになる。

経済分析第101号 恒常所得仮説の拡張とその検証 他|内閣府 経済社会総合研究所

 さらに世代間の移転までを考慮に入れたのがバローの議論ということになるだろう。

 フリードマンハイエクの経済理論の評価はおくにしても、こうやってちょっと考察を深めれば、フリードマンの理論も減税に、それも河村流減税に否定的であることが判る。*1

なぜひとは論理的に間違っていても離れられないか

 以前、当ブログで「外傷性の絆」による「認知的不協和」の問題を取り上げた。
 減税日本ナゴヤ市議に送る、市議養成講座(3.1) - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0

 この時の斉藤環氏の指摘を若干修正して展開してみよう。

 中心者と信者は「外傷性の絆」で結ばれている。Uとその信者の場合は震災と原発事故がそうであったが、党首と党の構成員でも良いだろう。良くわからないまま、巻き込まれるように立場を与えられてしまった。そして、どのような仕事でもそうであるように、それなりの困難に遭遇し、それらを乗り越えてきたという共有体験が「外傷性の絆」を強化する。
 やがてこの関係に次のような傾向が現れてくる。

1)権力(情報)関係が一方的である。
2)嘘をつく行為は気まぐれな優しさや愛情を装いつつなされる。
3)信者は自己防衛のために(外部から指摘される)嘘や捏造を否認する。
4)外傷的な絆のもとでは、信者は現実の認識すら変化させてしまう。

 絆を持つ中心者と「世間」との間で齟齬が起きる。それでも「信者」は中心者との絆を断ち切れずにいる。すると信者は選択を迫られる。中心者を取るのか、「世間」を取るのか。
 やがて「世間」は中心者の存在が疎ましいのであり、そのために自分たちは批判を受けるのだと「合理化」し始める。
 何かと何かが矛盾したときに、その前提としたどちらかが誤っていると思わずに、その間に何か別の事情(陰謀)があると推測してしまう。

 天の星は地球を中心に周回している。一見夜空を見ていれば明白なこの仮説をプトレマイオスは唱えた。「天動説」です。ところが天空の星の中で、一部の星だけが天球とは関係のない動きを見せる。天球とは別に後ずさりをしたり加速して追い越しをしたり。
 これを見た観測者たちはそれを「まどい星(惑星)」と名づけた。

 天動説と惑星の動きを説明するために、天動説信者は奇妙な仮説を唱えることになる。
 http://rikanet2.jst.go.jp/contents/cp0320a/contents/rekishi/answer03/

 つまり、「一部の星(惑星)は天球を回る軌道の周りを更に回っている」

 説明が複雑になるときにはどこかに嘘や無理がある。こう考えるのが「オッカムの剃刀」です。河村流減税にも色々な説明がありました。いわく経済活性化、いわく不況の時には民の竈を暖める、いわく行政改革を進めるプライスキャップ、いわく納税者に対するお礼。
 そして、河村流減税政策には一切のデメリットがないと。

 また、行政改革が進んでも(つまり、行政の歳出が削減されても)市民サービスは劣化しないと。

 河村減税さえ実施されれば、この世はバラ色ですばらしい世の中になるのですか?

 世迷い事も大概にしてください。
 これほど判りやすい「嘘」が他にあるか?

 今、ここでそれを認めるのは、自分自身のプライドが許さないのでしょうが、こういった事は後になれば後になるほど引き返すのに力が必要となるのです。



追記:
8月1日のエントリーで投げかけた質問について、メールをいただいた。

名古屋市会議員の職責、本分とは何か?
明瞭に答えられますか?

名古屋市会議員としての遵法精神の在り方と議会品位について - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0

 残念ながらメールの回答は間違いでした。
 その方には解答をお返ししましたが、
 これ、答えられますか? > 減税日本関係者の皆さん。

 「名古屋市会議員の職責」は「地方議会議員の職責」でも同じですので。


*1:減税が恒常所得を増やすと期待できるのは、すべての公債を償還してから、行政サービスを縮小しても社会が成り立つときに得られる「結果としての減税」が行われた場合であろう。