前回のエントリーではみ出してしまったので、減税日本政策Q&Aに新たに加えられた3項目についてはこの5日のエントリーで掲載するとしましたが、いま、その原稿を破棄しました。
理由は昨日、4日のエントリーに当の減税日本幹事長(ですよね、まだ?*1)の広沢県議から当ブログのコメントに書き込みがありました。
成りすましの可能性も否定はできませんが、ご本人からのご意見であると考えた場合、この書き込みの中にこそ、これ以上議論する必要も無いほど、問題点が明確に、端的に示されていると悟ったからです。
この問題点こそが、河村氏が「減税政策が日本国内で理解されない」と嘆く理由でもあるのでしょうし、なんとなく私としては「大学教育というのはどういう意味があるのだろうか?」と首を傾げたくなるような問題でもあります。
(ちなみにその投稿を含む当ブログのキャッシュを残しておきます。
【魚拓】減税政策についての再整理 - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0 )
その問題の前に政策Q&Aについていくつか指摘しておきたいと思います。
について。
名古屋は三割自治ではありません。また、自らリンクされた先の文章にあるように、「三割自治論の根拠は確かでない。いずれにせよ、これらの数字が地方の自立性をそのまま表すわけではないことにも注意が必要である」というのが現在のこの言葉への標準的な評価なんでしょう。ですから、当ブログで取り上げたように、その前の文章の表現は事実を踏まえていませんし、事実認識を踏まえていない意見もまた歪んだ物とならざるを得ない。
そして、そのリンク先の文章が言うように、この「三割自治」の問題は「三位一体改革」が是正を進めようとしている(していた?)問題であって、その問題は2001年ごろに浮上した話題です。
つまり、ざっくり言って、この文章は一周も二周も周回遅れになった問題意識から書かれた文章であると断じざるを得ない。
Q.税の再分配機能を否定しているのですか。
A.(略)
について。
税の再分配を否定していないのなら。さらに上の回答にあるように「残り1兆5千億円は国税として、一部は外交や防衛に*2、その他日本全国の自治体へ分配されています」と認識するのであれば、「名古屋市が国に納めている」と減税日本が主張するお金は、国によって有効に使われているのであって、それを名古屋の自主財源として留める必要も無いのではないでしょうか?
また、「地方を取り巻く環境はめまぐるしく変化してきました。超高齢化、山村の限界集落化、グローバル都市間競争や産業空洞化など、交付税制度創設時には想定できなかった事態が多数発生しており」という主張は、名古屋市の自主財源を増やす議論にはなじまないでしょう。今以上に「上納」が必要に思えてきますよ。
そして何より「交付税制度も疲労を起こし、マイナス面が目立ってきています」という主張ですが、具体的にどのような問題があるというのでしょうか?ここで具体的な問題点を指摘できなければ単なる居酒屋の政治談議と変わらない。
「交付税制度の早急なる抜本的見直しと新たな財源調整機能の創設が不可欠」という言葉は、それこそ「三位一体改革」の頃の掛け声で、それはすでに10年以上も前の話なのではないでしょうか?
やはりこの文章も一周、二周遅れの感が否めません。
Q.現在の減税は、将来割引価値でみて同額の増税が必要なのでは。ひいては消費者マインドは向上しないのでは。
A.公債を発行して行った場合はそうなりますが、行革等を財源とした場合はそうではありまえせん。(略)
これは酷いうそだ。この発言の根拠はどこにありますか?
当ブログが示した公共経済学の標準であろう麻生氏のスライドや著作でも、このような結論は導けません。
さらに2点指摘しておきます。
消費性向(c)が一定でも、乗数効果として減税よりも政府支出のほうが経済を押し上げる効果が高いというのが冷厳なる事実です。これを否定されるのであれば、否定できるだけの客観的な証明が必要でしょう。
また、現に名古屋市には市債が積み残っています。これを全部償還して、さらに余剰金としての市税収入を、歳出に充てるか減税に充てるかという議論をしている訳ではありません。市債が残っている中で、その償還よりも減税を優先するということは、その償還負担、公債負担を先送りしたことに他なりません。
この文章も、たぶん、この部分で多くの人は首を傾げることでしょう。
つまりこれらの修正は、このまま掲載していただけば、その方が河村流減税政策に対して不信感を持つ人が増えるであろうと推測できます。どうか、今後とも掲載し続けていただきたいと思います。
そもそもですね。変なんですよ。
当ブログで指摘をして、それに対するリアクションのタイミングが早すぎる。
党内で議論しているのでしょうかね?
この文章には「もまれた」形跡が無い。
党内で活発な議論が行われていない、議論の材料に事実に即した、または新しい、今日的な材料が揃えられていない。
非常に不健全な文章です。(顔色の悪い、血色の悪い文章とでも言いますか)
さて、では上で述べた端的な問題点について指摘いたしましょう。
それを考察することで、この文章の不健全さや、減税日本の政策が広がらない理由が明らかになってくるでしょう。
昨日のエントリーに「広沢一郎」名で次のようなコメントが掲載されました。
(略)
さて、減税の経済効果についてはなかなか平行線のままですが、限界的には公共事業の方が減税より乗数効果が大きいとの主張についてはその通りだと思います。ただ、その理屈だとどんどん増税してその分公共事業に回した方が経済効果が出ることになってしまい、限界的には正解でも中長期的にはマイナスとなると予想されること、
名古屋市の場合減税原資の多くが人件費であったことを考えれば単純に公共事業か減税かではないこと、
また好況時には公共事業を増やすとクラウディングアウトを起こすため経済政策として期待される公共事業はあくまで不況時に限られ、
その時には需要不足に応じて公債を柔軟に発行して原資とするのが定石であること、を指摘させて頂きます。
引用部分には一部省略をさせていただき、適宜改行を加えましたが文章自体には一切手を加えておりません。
この文章の中で一番奇異に感じるのは「限界的」という言葉の使い方です。
経済学で専門課程に入った人間が一番最初に引っかかるのがこの「限界」という言葉で、経済学者の(それも講義を担当するような人々の間で)この呼び名を改めようという意見も出るぐらい学生の足を引っ張っているのだろうと思います。(講師の中には「それだからいい、判りにくいからちゃんと勉強をしている学生を選別できる」というひとも居るぐらいです)
限界消費性向(Marginal Propensity to Consume)、限界費用 ( Marginal cost )などの “ Marginal” を単純に訳せば「限界」という言葉になるのでしょうが、数学で言えば「微分」です。(というか、そもそも経済学に微分を持ち込んだ時にこの “Marginal” という言葉が持ち込まれた)
なので数学の素養がある学生であれば「微分」でピンと来ますが、経済学に入る人って文系が多いせいか、それでもポカーンとしている。
そういう場合には私は「単位あたりの」とか「(最小)単位」と脳内変換すると良いですよとアドバイスをしています。
広沢さん、あなたこれ引っかかっていませんか?
減税日本の幹事長である広沢一郎県議は某有名大学の経済学部卒業となっている。経済学部を出て「限界」とか「限界的」とこういう使い方をされるかな?
(だから、この投稿者がご本人であると決め付けることはできません。ここでは決め付けずにおきましょう。あくまでご本人であると想定して以下も記述します。もし、いたずら、成りすましであったのなら、私の「くたびれもうけ」ということです。)
「公共事業の方が減税より乗数効果が大きいとの主張」は「限界的」(という言葉自体が何を意味するのかちょっと不明なんですけど)どうこうではなく、常に正しい。
「ただ、その理屈だとどんどん増税して(以下略)」等ということにならない事は明白ですよね。基礎消費は常にあるのですから、それを毀損するほどの重税は経済を破綻させる、またそれ以前に社会を破綻させます。
「限界的には正解でも中長期的にはマイナスとなると予想される」という言葉もどのような意味で使われているか、申し訳ありませんが私にはわかりません。
最後のクラウディングアウトの問題も理解できませんね。
好況時にクラウディングアウトを起こして民間投資を抑制しないようにするというのはその通りでしょう。しかし、一定規模の公共事業は常に必要です。*3
「経済政策として期待される公共事業はあくまで不況時に限る」と硬直的に捉えることはできませんし、そもそもどこから「経済政策として期待される公共事業」といえるのか、その閾値はどのように策定するべきでしょうか?
最後のセンテンスの「その時」というのが、「好況時」であるとすると、それ以降の「需要不足に応じて公債を柔軟に発行して原資とする」という文章とつながらないですよね。好況時には供給不足となり、インフレが進行するのでしょうから。
また、そもそも クラウディングアウトの定義自体が国内経済だけに限られ、変動相場制下において海外資金の流入を許しているという状況では異なる相を呈し、さらにデフレ状態の需要不足(供給過剰)時の評価にはさまざまな意見があり、まさに今「定石」といえるような政策があるとは思えません。
この辺りも議論を整理されたほうが良いと思います。
以前、このブログで書きましたが基本的に私は「経済政策議論」には足を踏み入れたくは無い。ありゃあ宗教の一種だと思っている。検証不能であり、比較実験ができないのだから。オカルトが跋扈する。
私の学生の頃は政治や経済の議論が盛んで、お互いが狭い知識の中で、一所懸命に議論を行った。そういった青臭い議論で徹夜という経験を何度も繰り返した。そういう経緯の中で、自分が信じるに値する知見を得るためにはどのような選別が必要かを理解していったのだろうと思います。一見、もっともらしい「経済理論」「政治理論」はいくらでも出てきます。時にはま逆の主張をする理論も生まれます。まったく「理屈と膏薬はどこにでもくっつく」といわれる通りです。
その理論が正しいか、正しくないか。その評価は非常に難しい。
新しい知見に常に開かれていなければならないのでしょうし、一方の意見にのみ偏ってしまってはいけない。百家争鳴する事態だからこそ、事実によって矛盾を指摘されたものは切り捨てる必要がある。事実の指摘に謙虚に向き合わない「オカルト」には付き合う時間すらもったいない。
信じるに足るものを得る方法は非常に難しく、信じるに足らないものを選別する方法は比較的簡単です。しかし、人間にとって一旦信じたことを、信じるに足らないと破棄することは難しく、また、人間は容易に、不用意に様々な事柄を信じてしまう。
そんな事を、私は学生の議論ごっこの中で覚えてきたのかもしれない。
河村流減税政策には事実に立脚した根拠が無い。
そもそも明確な論理が無い。
そして、支持者が増えない、生まれない。
なぜか、オカルトであり、論評するに足りないからです。
「減税の経済効果についてはなかなか平行線のまま」といわれますが、この広沢さんは何と平行線なのでしょうか?私は何も主観的主張はしていません。リチャード・クー氏の本を読み、名古屋市の提示した財政状況の資料に当り、そして公共経済学の知見を提示しているだけです。私の主張など一つもない。
こういった根拠と平行線なままであるということは、それが事実に即していないからなのではないのですかね。
政党である「減税日本」が支持を広げたいのであれば、このオカルトチックな、根拠のない「河村流減税政策」を真摯な議論の俎上に載せて、真剣に議論すべきです。
事実を根拠とした指摘に向き合わなくなったら、それは政治でも経済でもない、単なるオカルトです。