市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

「なぜ(略)に答えてみる」で書き漏らした事など(後編)

 幾つかの盛り込めなかったトピック、論点を補足しようとしたら、またまた長ったらしい文章になってしまったので、最後の後編ではトピック毎のつながりを無視して列挙していくようにします。と言うような前口上を抜けばもう少し短くできるんですけど、申し訳ありませんね。

 最初は、軽い話題から。

 減税日本国政のページに「市民税・減税が東京スカイツリーを超えた」というページがあります。 http://www.genzei.jp/skytree.html

 東京スカイツリーに投じられた工事費用がおよそ400億円で、名古屋市で実施された減税がおよそ330億円となり、同程度の財政規模であるということなんでしょう。この論法は河村さんもトークでたまに使われているようですが、比較的リアクションは薄く、聞いた人々は皆ポカ〜ンとしているように思います。

 私は最初に聞いた時「減税を止めておけば、名古屋にあんなタワーが立ったのにね」と河村さんが反省したのかと思いました。実際にこの話を聞いた人の中には「減税よりタワーの方が良いんじゃない?」「減税は効果が見えないけど、タワーって今後も残るものね」というような声を聞いています。

 減税が良いのか、東京スカイツリーが良いのか。それこそ「主観的な価値観の相違」でしょうが。

 ◇◇◇

 私は河村氏は単純な新自由主義者であるとも思えません。もともと社民的な大きな政府論者、高福祉論者であると考えています。著書でも減税をしつつ福祉を増やしたというようなマジックのような事も言っています。

追記:メモを抜け落としていました。
 河村氏自身もトークなどで社民的な事を言っていますが。その支援者に特に社民的な人々が多いという特徴があると思います。こうした支援者が、なぜ社民的な高福祉と、減税政策という新自由主義的な政策を接合することができたのか。ここに河村流減税政策の説明のマジックがあると思われます。

 河村流減税の議論が迷路になっているのは3つの相反するテーマをごちゃ混ぜにしているからでしょう。1つ目はこの高福祉です。現在の福祉水準を維持するという指向。2つ目は「財政再建」です。ご自分では「国債は借金ではない」と言いつつ、それを増やす事には積極的ではない。これは財政の健全化という面では健全なのでしょうが、財政政策という面では硬直化した考えであると思えます。
 そして最後が減税政策です。そもそも河村氏はNPOへの寄附制度については古くから言っていますが、減税政策を言い立てたのは比較的最近です。小泉構造改革路線にのって小さな政府を目指し、歳出を削減させれば「減税」ができる。税のもう一つの側面「所得再配分」を無視して、しゃにむに「税」を「悪いもの」のように捉え「減税」を煽り立てれば自分も小泉首相のように人気が出るとでも思ったのでしょうか。
 小泉氏への国民の熱狂が強烈だったんでしょうね。
 今、日本国内のあちこちに、この小泉構造改革の尻尾のような政治家がいます。

 日本は既に十分小さな政府になっています。これ以上経済を収縮させてどうするのでしょう。また、「生産性を上げよ」と言います。「サプライサイド経済学」と言いますが、デフレにおいては供給が需要を超えて存在しています。生産性の向上とは供給をより発生させよという主張で、デフレを深刻化させるばかりであることは明白です。
 「供給は需要を創造する」とうのは、この「サプライサイド経済学」を成り立たせる「セイの法則」と呼ばれる考え方ですが、この考え方が破綻している事は今の日本の社会を見渡せば明白ではないですか。
 民間給与の減少をうけて、公務員給与まで下げよというのは単なる経済の収縮でしかありません。こういったデフレ圧力が「悪魔の碾き臼」のように人々を絞り、企業を絞っているのです。

 これが小泉、竹中の提唱した構造改革の結果です。おめでとう。

 日本人は19世紀。重商主義が世界を席巻すると、それまでの鎖国政策(一国平和主義)を打ち捨てて重商国家を目指してすぐさま実現させてしまいました*1。そして20世紀に入り、そのまま太平洋全域に手を伸ばして米国とぶつかり火傷を負います。その後、大量生産、大量消費の社会へと移ると、国家の在り方もすぐさま塗り替え、一大産業国として世界を席巻します。そして今、新自由主義についても米国を抜く勢いでそれを実現させようとしています。(これでTPP圧力の下、年金を401kのようなものだけに切り替えて、医療分野で国民皆保険を潰す自由診療を導入すればほぼ碾き臼の完成ですね)

 なんとも生真面目な国民なんでしょう。

 ◇◇◇

 ある方から問い合わせがあって、河村さんの著書「減税論」を見直していると次のような記述がありました。

 わしは名古屋市長になってから、市民税の10%減税を実現させた。
(略)

 2010年度の予算編成で見ると、161億円の減税だ。
(略)

 しかし161億円という額は、じつはたいした額ではない。名古屋市の予算というのは、(略)約1兆6000億円。減税分の161億円は、その1兆6000億円のうちの1%にすぎない。

 商売で考えてみれば、その額がたいしたことではないことはすぐわかる。たとえば、ある会社が取引先から、「卸値をもう少し安くしてよ。値引きしてくれないと、取引先を別のところにするよ」などと言われることは、この厳しい世の中、よくあることだろう。そんなときは、1%どころでなく、10%、20%も引くなんてことがざらにある。そう考えれば1%程度たいした額ではない。
河村たかし 「減税論」p.56)

 まあ、この文章を読んで肯定的に受取れる方はよほど浮世離れしている。民間企業に勤めている人なら、大抵お怒りになるだろう。
 そう、商売はこんなものではないし、今まで論じてきたように、こういった低い見識、浅い経済理解が日本社会をデフレ不況の真っ只中に叩き込んでいる。

 そして最高に笑えるオチは、「1%程度たいした額ではない」と豪語した河村市長自身が、その1%程度の歳出削減を実現できずに、減税幅を10%から5%に後退させたという事実だ。

 名古屋市北区名鉄小牧線上飯田から地下鉄名城線平安通駅まで延伸されて、乗り換えが容易になった。この延伸部分は3セクで実現されている。
 この延伸にともなって味鋺駅から市内向けの市バス路線が廃止されたそうである。駅周辺の住民はバスを使わずに名鉄小牧線から地下鉄で市内に入る事になる。ところがこの味鋺から平安通までの名鉄線については敬老パスが使えない。

 廃止される前の市バス路線であれば当然、敬老パスは使えた。
 また、この延伸は3セクで実現されているので名鉄だけの事業ではない。同様のあおなみ線については敬老パスは使える。

 この不公平を是正する為の予算は、推定年間1200万円ほどだそうである。河村市長の理屈をお借りすれば、1200万円は 名古屋市の予算約1兆6000億円の0.00075%だ。「たいした額ではない」のではないか?
 もう、この日本という社会は、焼酎を飲んで良い調子になって語る政治談義のレベルでは、なんともならないほどガチガチになっている事にいい加減気が付いていただきたい。

 もう一つ、この「図表13収支不足額への対応」を見て欲しい。この中で「職員給与改訂」として「66億円」を入れている。

 このブログでは何度も取上げている河村氏の「嘘」である「人件費の10%削減」が為されていない事をここでも認めている。(名古屋市の職員人件費はおおよそ1800億円程度であり、その10%ならここは180億円程度が上げられている筈ではないか)
 204億円の幻想 - 市長のための市会ではなく、市民のための名古屋市会を! Ver.2.0

 ◇◇◇

 減税日本の市議、県議の中には「河村さんの減税政策が経済学的に根拠が無い事はわかる。それにそもそも河村さんという人を近くで見てみると、本当に何もできない人だというのは感じる」と現実に気が付いている人もいるようだ。
 「でもね、河村さんに借りがある」「河村さんのおかげで市議(県議)にしてもらえた」という人がいる。

 それって、私的な事情を市議や県議の身分に使っていると言えないか?

 市議や県議の座の私物化ではないだろうか?

 ◇◇◇

 経済学者の経済予想が当たらない理由。

 「まともな経済学者は発言の根拠を公的機関の分析結果から語ろうとする。こういった分析結果は発表まで3ヶ月、半年かかるので3ヶ月、半年後に3ヶ月、半年先の予測が発表されると言う事になる。
 中にはこういった根拠を無視して予測してくれる経済学者も居る、そしてそういう経済学者はまともとは言えない」


 ◇◇◇

 まだ生煮えのメモ。

 実需要が生まれない理由として、新しい商品が生まれていない。イノベーションが無いと言われている。
 日本社会の消費を形成するマス層、つまり「サラリーマン」にとって、人生における最大の買い物と呼ばれているものが3つある。
 1)持ち家
 2)生命保険
 3)自動車

 これらは、若干緩んではいるものの今も消費を支える大きな柱となっている。

 この内の自動車は60年代以降の内需を拡大させた起爆剤で、同時に道路整備、物流、観光などの産業構造も変革を迫られ、資本投資を促した。

 実は、これに変わる(この上に乗る)新たなイノベーションの芽は既に芽生えている。これを他国に先駆けて日本が育成できるか否かがこの国の最大の課題なのだろう。

 ここを潰されたなら、日本は当分、二流国のままだ。

 ◇◇◇

 「ガラガラポン」「ぶっこわす」「グレートリセット
 歯切れの良い、威勢の良い言葉が踊る。

 こういった言葉に、今の日本の社会では期待が寄せられるようである。特に、国民よりもマスコミが期待を寄せているように見える。
 こういった急進的な改革は動きが激しい。派手に人の目を惹きつける。
 その為にテレビも新聞も、その他の雑誌やネットメディアも、こういった言葉を発するものに惹きつけられる。

 しかし、こういった急進的な言葉には、先行きの不透明さがある。

 実現の可能性、安全性ということを考えた場合、非常に不安定で危険で、無責任な言葉なのではないだろうか。

 そんな最中にいる橋下大阪市長自身「右とか左とか、保守とか革新とかと言った言葉ではなく、自分たちは自分たちの価値観を云々」と語っている。彼の言っている事は、結局、この旧来の価値観に回収されてしまう、つまり、どうあがいても「日本維新の会」という存在は、右や左、または保守や革新といったマトリクスに同定される。

 しかし、私はここでこういった差異を乗り越える対立軸を構想できる。

 それは、「急進か斬新か」といったものだ。

 何等かの(確からしい)理論によって打ち立てられる、または打ち壊される改革や、一時の狂騒や「民意」と言った鵺のようなものに振り回される破壊ではなく。

 豊かな知恵と、多元的な価値観。

 様々な意見を織り込んだ、
 「端正な織物のような社会」を。

 端正な作品の製作に、
 時間がかかるのは当然であって、
 粗製濫造の政治ではなく、
   朴訥では有っても誠実な、

 「端正な織物のような政治」を。

 この端正な織物のような政治が、
 若者に、明日を真剣に考えさせ、
 老人が、
 明日を思い煩わずに済むようにするならば、
 この社会は どんな困難も乗り越えることができるだろう。


*1:追記:「維新」ですね。