市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

社会を健全に保つ為には

 このエントリーは取りとめもない話です。
 題名は後から付けてみました。

 あまり面白くないと思います。

 なので、面白い文章をご紹介しましょう。
 私のツイッターでなんだか人気が出てあちこちにリツイートされた情報です。

 こちらは、カルト的人気を誇る、石原慎太郎氏製作総指揮による怪作映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」という映画の「企画意図」という石原氏の文章です。
 この映画のHPに掲載されていました。

 凄い文章でしょ。*1

 といった訳で、以下で取りとめもない話がはじまります。


 今の日本の社会には、激変を求める声が大きくなっている。長く続く不況と、将来への不安。その不安を解消する筈の国家行政機構への不信感から、「ガラガラポン」と社会をひっくり返してしまえと言う乱暴な言葉が平気でメディアを賑わす。笑ってしまうのは、こういった乱暴な発言を支持する人というのは、この「ガラガラポン」で自分は浮き上がれると思っていることだ。

 自分の会社や家庭、人生を他人が振るサイコロに託すという神経の太さはご立派。それに気が付いていないのであれば●゛カとでも言うしかない。

 小泉構造改革で日本の雇用形態を「改革」*2した竹中平蔵が、人材派遣サービスを行う「パソナ」の会長に就いたという事実が、こういった言葉の裏側を教えてくれる。

 乱暴な発言で社会を煽る人は、けして自分はその賭けには乗らない。

 賭け事は胴元が必ず儲かるようにできている。



 年金問題などで国家行政機構、つまり、「官僚」「霞ヶ関」は国民の信頼をまた一つ失った。消えた年金と呼ばれた問題は、文字通り国民の生活の安定を保証する重大な制度である。それにもかかわらず不正が暴かれるにつれ、年金という制度そのものが、一義的に国民の生活の為にあるのではなく、まるで、この制度を運営する行政機構そのものの為だけにあるように写った。つまりは厚生官僚、年金シンジケートの為にあるという実体がはっきりと国民の目に曝された。

 しかし、この問題は一部の不心得な官僚が画策した陰謀であるという問題でもなく、官僚組織というものが本来持つ、利権の温床という側面を表しているということだけでもない。また、三権分立の原則の中で、行政権の優位性が際立っているという問題だけでもない。それらすべてがない交ぜになって、そして長年にわたって放置されてきた事によって、大きな問題となったのだろう。

 この問題を霞ヶ関を「ガラガラポン」すれば解決がつくのだろうか。

 つくはずがない。

 「ガラガラポン」はまた新たな利権構造を生むだけである。利権構造から利権構造への移転が起こるだけに過ぎない。*3

 年金問題などの行政機構の問題は、それを監視する筈の立法府、議会の力の無さと、それら権力を監視する筈の報道の力の無さを示している。

 立法府の権力、議会の権力の源泉は何だったのか。

 それは、田中角栄世代ほどまでに見られた「使命感」だったのではないか。

 私利私欲を完全否定しない。しかし、優先順位は国民にある。「将みずから止欲に服さざれば、もって士卒の飢飽を知るなし」(六韜 竜韜 励軍第二十三より

 国民を豊かにすれば、自身も豊かになれるという意識と使命感が、ああいった世代の政治家には残っていて、それが彼等の力、説得力を支えていた。

 今の政治家にはこの意識が無いように思われる。私利私欲を優先して満たすかのような上記の竹中氏のような在り方を肯定できるのであるとすれば、もはや価値観自体が私とは違うのだろう。これは石原氏や河村氏にも感じることだが、一時言われた「ミーイズム」つまり、自己の幸福や満足を求めるだけで他には関心を払わない生き方。早い話が自己中心主義が、否定もされず、社会の責任ある層に横溢すれば、その社会は立ち行かないのは当然だ。

 これは言いがかりでもなんでもない。一度、石原氏のこの度の辞職会見や、河村氏の定例記者会見を(どれでも良い)見てみてください。その時、石原氏や河村氏の発言が、「他者からの視点」に移ることがあるか、確認してみてください。

 特に、石原氏のこの度の辞任記者会見では、「愚痴ばかりではないか」と批判されていますが、発言がすべて主観的で、一時(ひととき)も石原氏自身から離れません。彼の自己中心主義、自己愛は異常と感じます。

 こういった「ノブレス・オブリージュnoblesse oblige)」とでも言うべき義務が、ないがしろにされ、否定してかかっているように見えます。そんな人たちが「国民の為」といって打ち出す「政策」なるものが。
 「公務員給与のカット」*4であるとか「議員定数の削減」*5であるとか、挙句の果てが(たった0.6%の)減税、現金のばら撒きだ。*6

 こんな「政策」からは、その人物が、この社会を真剣に見つめ、

 「国民の生活が立ち行くようにする為には、どうすれば良いか」
 「高齢者に明日を思い煩わせる事なく、老いを養ってもらう為にはどうすべきか」
 「若者を、明日の社会に希望を持って立ち向かわせるには如何にすべきか」

 などといった問いに、向かい合ったという形跡がない。

 こういった根本的な問いかけと、自身の中での思想の激闘といった痕がみられない。

 「反原発?」「環境保全?」「二酸化炭素の削減?」「日本の領土保全?」「国歌を歌って国旗に敬礼をすれば愛国心が養われて国が繁栄する?」

 笑わせないでくれ!


 国家行政機構というのは権力機構である。

 これに対する監視を怠れば行政機構は自分自身の利益確保に走る。

 これを監視する筈の立法機構(議会)も報道(第4の権力)も、自身の私利私欲だけを考えるのであれば、この絶対的権力に平伏して、そのおこぼれにあずかればよいのである。

 公務員給与の削減など、行政機構の権力中枢にとっては痛くも痒くもない。*7


 行政機構は絶対的な権力である。年金問題、財調の問題、海外ODAの問題、そして河村氏も馴染みが深い「電電公社の公社債問題」

 さまざまな形で、行政機構は国民の冨を簒奪してきた。*8

 しかし、だからといってその簒奪だけを訴えても意味がない。

 民主党が「埋蔵金」といって、この行政機構の中に溜まった「アカ」を暴き出そうとした。メディアも拍手喝采でこれを迎えたが、結果、言われるほどの「アカ」は存在しなかった。

 国家行政機構が絶対的権力である事は間違いない。絶対的権力は絶対腐敗する事も間違いない。

 しかし、日本の官僚機構の少なからぬ健全な部分は、自らの絶対的権力性を自覚し、内部で小さな革命を起し、健全性を保持しようとする。こういった健全性を失った組織、つまり無謬性を誇る組織は、内部の矛盾が腐敗し、必ず自壊する。

 こういった内部の健全性を保持する為にも、行政―司法―立法といった三権と、更に、報道という四つの権力が、相互に監視し、牽制しあい。緊張関係を保つことが必要なのである。



追記(10月28日):日刊ゲンダイ亀井静香氏のコメントを載せています。石原氏の国政転出に厳しい見方をしていますね。

「オレが国民のため、日本のためにオールジャパンでやろうと言った時には断っておきながら、今になって何サマのつもりだ。アンタが今やろうとしていることは、国民のためじゃない。それこそ我欲じゃないか。政治家というのは、国民のために己を殺すものだ。アンタは間違っている。オレは合流しないぞ」

http://blog.goo.ne.jp/ozawa3news/e/084789cc5979c0d2ace64afc8856d14b


*1:最近の済藤さんの文章の方が判り易い。

*2:「ぶっこわした」というのが本当のところでしょう。

*3:まるでフランス革命かJ・オーウェルの「動物農場」だ。

*4:単なる経済の収縮、合成の誤謬を生むだけである。

*5:議会機能というのは国民の意志の代理なのであり、国民の権利である。ただでさえ弱体な立法府を、より弱体化させてしまえば、利するのは行政機構だけではないか。完全に倒錯した政策と言える。

*6:名古屋の嫁入りじゃないっての。

*7:彼らは、「葉を隠す為に、森を作る」存在なのである。「名目」上給与が削減されたのであれば、その削減率が実質で無効になるような物価そのものの操作をしかねない ― そこまで利己的ではないと信じているが

*8:増税はこの場合、簒奪とはならない。予め明らかなルールのもとで徴収される税は、その明らかなルール自体が立法にかけられる。しかし、上記のような例はルールが隠されていたか、後付で改竄されてしまった。