市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

片山善博氏講演会―スティグリッツ氏来日

 3月6日に元鳥取県知事で民主党時代の総務大臣でもあった片山善博氏の講演会が小牧市であった。演目も「『図書館』から地方自治を考える」というもので、先ごろ行われた小牧市における住民投票、いわゆる「ツタヤ図書館化問題」を捉えての講演であり、ツタヤ化を跳ね除けた小牧市民へのリスペクトも加えて、講演の代金もほとんど「お車代」程度でお引き受けいただいたそうだ。


 鳥取県知事時代に県庁の図書室を拡充し(図書を増やすのではなく、リファレンスを受けられる職員を増員されたらしい)図書館の重要性を再認識されたそうだ。

 というのも、県職員が上げてくる様々な提言に違和感をもった*1片山氏は、こういった施策の原資料を県職員に尋ねたそうだ。そうしたところ大体は総務省農水省といったような霞が関からの資料を受けて策定されている。それでは県民の利益にはつながらない。場合によっては霞が関と論争してでも鳥取県の為の主張をしなければならないが、その為には県職員が論理武装する必要がある。そういった情報を収集するためには独自の図書館を持ち、優秀なリファレンス要員が必要となる。

 つまり、地方自治体が独立性を確保するためにも、図書館は必要な機能なのである。


 また、小牧の住民投票を受けて「本来、地方自治が民主的に運営されているのであれば、住民投票など起こるわけがない。住民投票が起こるのは、その自治体の民主主義に不具合が起こっているからだ」と語られた。行政や議会が健全に機能していれば、日常的な活動の中ですべては処理されていく。住民投票といった非日常が起こることが、健全とは言えない。


 ある県で講演を行った際、その県の知事も出席されていたが、住民から「図書館の書籍購入費を3割も削減した理由はなぜですか」と質問が上がった。知事は「そんなことあるんですか?」と問題を把握されていなかった。職員からの耳打ちで事実と分かると、予算の復活を約束していた。

 地方自治において首長がすべての予算を把握することはおよそ不可能。
 片山氏でも県知事だったころ、自身で把握できたのは5%程度だったと言われた。

 図書購入費が3割も削減されたという事に不満をもった県民が、片山氏の講演を機会に直接知事と対峙し、知事も問題を認識することができた。

 この図書購入費が削減されたという背景には、担当部局が3割削減の予算要求を上げたという事情がある。所管する教育委員会が自ら3割削減、図書館機能の削減を申し出るはずがない。それは自身の職務の否定だろう。

 財政部局からの予算削減要求に応えて、まわりまわって図書購入費が3割削減されたという事だろう。(どこかの誰かが言っていた「プライスキャップ」という奴である)

 教育を司る教育委員会や警察行政を司る公安委員会は、政治からの独立を図るためにも、首長や議会とも異なる選定をされている。

 しかし、結局のところそれらの部局の「お飾り」となってしまっている。単なる追認機関となってしまっている。

 ・・・警察行政に批判的な公安委員会など見たことも無い。

 とどのつまり、こうした委員会が単なる「名誉職」と捉えられてしまっている。

 専任として調査、研究するほどの報酬も確保されていないし、実際これら委員が判断する材料は、そのほとんどすべてが審査されるはずの各行政職員から提出されている。

 自分たちの行政運営を自分たちで悪く言うはずもないし、そうした行政職員の作成した資料に対抗するような情報も委員たちは持っていない。

 このように財政当局から教育部局に歳出削減の要請が行き、それに対して教育部局が図書購入費を生贄に3割削減の予算を回答し、教育委員会はそれに諾々と追認を与え、知事が気が付かないままであればこの予算削減は通ってしまうのだ。

 その為、本来は予算編成過程で総務局調整や知事裁定があるのだが、こういった相互批判もなかなか機能しないのが日本という社会だ。

 つまりは財政部局と教育部局で、行政の中で行われた決定が、そのまま議論も無く、つまりは民主的な手続きも無いままに実行に移される。(最後の民主的な手続きの形式が委員会であっても、それが機能不全になっていれば真に民主的とは言えない)


 片山氏の講演の内容から離れますが。

 行政というのは絶大な権限を持っている。

 ヒトも殺せるのが日本の行政権限だ。(こう書くと「死刑存置」がいかに非文明的か浮き彫りになるだろう)

 日本の行政権は人の命を奪う事もできる。

 その為に、その長は国民、県民、市民が選ぶようになっている。

 さらにその長を含めた行政全体を監視する議会も設けられている。

 そして、首長や議会といった政治性からも独立を守る為に教育委員会公安委員会などの行政委員を定めることとなっている。

 これほど、幾重にも網をかけても、行政の問題は発生し、それが訴訟に発展したり、住民投票という問題が生まれる。


 しかし、こうやって概観してみると、この日本における民主主義の問題は、その根は実は単純なのではないだろうか。

 警察行政に対して独立した立場で観察し、批判を行う活発な公安委員会が必要なのであろうし、父母や社会の代理として、場合によっては教育現場にも足を踏み入れ、その問題点を摘出、訂正するような教育委員会が必要なのだろう。

 さらに、行政全般に対しては、条例や予算を精査できるだけのスキルとパワーのある議会が必要となるだろう。

 その為には、それらの職に就くものに、重い責任と、責任に見合った報酬が必要な事は自明だ。

 こうして行政を取り巻く様々なプレイヤーがその本来の機能を取り戻すことが民主主義を強固にする。

 思えば、旧大蔵省の官僚(霞が関)が受けたと言われる「官官接待

 これも本来、相互批判を行うべき各省庁が、相互批判と議論を放棄して大蔵官僚を篭絡しようとした事例であり、民主主義の在り方には反する。

 しかし、問題の本質は大蔵省という一つの省庁の存在ではなく、その議論を回避しようとした霞が関の官僚の姿勢だったのではないだろうか。

 この「官官接待」の為に大蔵省は看板を失ったが、その実体は何も変わっていない。

 さらに、問題の本質であった議論については民主的になったとも思えないし、実際に課題として取り上げることすらまれだ。


 官僚批判、公務員批判ほど非生産的なものは無い。

 官僚である事を批判したり、公務員に対して、民間との比較で批判することはあまりに筋違いで実りが無い。問題は「相互批判の不全」であり「言挙げしない文化」ではないのだろうか。


 結果として単なる官僚不信、公務員不信だけを煽り「行政改革」というの名の行政の縮小化、撤退、すなわち行政が手助けすべき人々を切り捨てる、弱者切り捨てを続けてきたのがこの日本だ。


 3月16日にジョセフ・スティグリッツ氏が来日し(スティグリッツ氏の来日は恩師でもある宇沢弘文東大教授の一周忌記念講演の為だったそうだ)

 政府の「国際金融経済分析会合」に出席された。
 国際金融経済分析会合(第1回) 議事次第

 スティグリッツ教授提出資料(事務局による日本語訳)(PDF)

 
 スティグリッツ氏が指摘する現在の経済問題は「需要の不足」であり、歳出削減(需要の縮小)はこれ以上必要ない。財政出動を行い、需要を喚起すべきである。というものだ。

 そして、格差の拡大は経済にマイナスの要因となる。
 賃金引き上げを行うべきだ。(これがすなわち需要を作り出す)

 AEQUITAS

 法人税減税は投資を促さない。
 消費税の増税も時期ではない。

 というものだった。


 名古屋における減税政策は、歳出を削減し需要を縮小させるものである。
 また、税の再分配機能を否定するものであり、その点でもスティグリッツ氏の主張とは真っ向から反する。

 このようなバカげた政策は一刻も早く終了させるべきだ。

参考:
 アメリカの碩学の反TPP - スティグリッツ教授の日本へのアドバイス

 CiNii 論文 -  図書館のミッションを考える(<特集>図書館への提言)


*1:県で「食料自給率」を向上させる施策が必要だろうか。といったような。