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映画「アシュラ」

 この連休に見た映画についてどうしても述べておきたい。

 映画は「アシュラ」だ。

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 「アシュラ」とはジョージ秋山氏の初期作品で、その残酷描写が問題となって「有害図書」に認定もされたそうだ。私は子どもの頃、そんな事は知らずに読んでいてショックを受けたものだけど。

 舞台は中世の日本。当時の日本はまだ武家社会が形成されきっておらず、荘園制度を基盤に、農村を形成し田を開墾し、稲作によって経済が成り立ってきた。

 ここでちょっと話を嫌味なわき道に逸らすと、今ぐらいの時期に農村に行って一面金色に映える水田を見て「自然って好いなぁ」という人は「自然」を判って居ない。

 水田というのは大規模な開発の成果であって「自然」ではない。

 日本の稲作には二つの大きな問題がある。

 一つは稲にとっての北限の問題で、日本はそのギリギリの境界線上に居る。
 また、日本列島というのは火山島で広大な湖沼(勿論、淡水による)は望めない。

 つまり、中世の頃の稲作においては、ちょっとした冷夏や長雨などの天候不順で稲作は不作に終わる。また火山島という性質から、長雨が降れば土砂崩れなどが起きて村落を一夜に消し去る。逆に雨が降らないと稲作どころか飲み水にも困難を伴う水不足に見舞われる。

 長雨による土砂崩れによる村落の消滅など、これは現在でも起こる。また、天候不順の水不足による稲の不作もつい最近まで繰り返された事なのだ。

 中世の荘園形成時には人々はこういった飢饉や天災に度々見舞われ、その悲惨さが日本における仏教の形成に資したという側面はある。

 西欧型の石造りの家ではなく、日本は木造の家屋である。それはけして倒壊しない強固な建造物を作るのではなく、どうせ壊れるものだから壊れる事を想定して作るという、松岡正剛の提唱するフラジャイルという思想にも通底するのだろう。

 ここでもう一段脇道に。現代の日本で城を木造で作りたいというバカ殿がドコゾに居るという事だが、木造の城を作るには、木造建築のノウハウと原料となる木材を用意するという植林の文化までが必要となる。今の日本にはこの両者が既にない。木造築城に求められる大黒柱、そんな木は既にない(あったら天然記念物級でしょう)ので、複数の木材を合成して製材しなければらない。これでも「本物の城」というのだろうか?
 伊勢神宮などの社寺においては、一定期間で「遷宮」という行事が行われる。一定期間で社殿を取り壊して作り直す。勿論、こんな事は「経済合理性」からいうと「無駄」に見える。しかし、こういった作業を繰り返す事によって社寺建築のノウハウが維持できる。つまり、こういった社寺は、その周辺に存在する建築技術者(宮大工)も含んで、一つの文化的存在として成立している。

 そもそも木造高層建築を法で縛り、近視眼的な経済合理性から杉の単植を全国に展開してしまった現代日本において、そういった文化的背景のないガジェットとしての木造築城など「本物の城」の複製、物真似でしかない。
 政治家芸人のバカ殿には似つかわしいだろうけど。

 と、閑話休題

 ジョージ秋山の描くアシュラはこの中世の世界に生まれ落ちる。そこでは天災や飢饉が繰り返し起こり、人は生きていく為に獣のような闘争を余儀なくされる。アシュラ自身、自らの「母親に食われかける」。

 「アシュラ」に描かれた残酷描写とはこれです。アシュラのテーマ自体がこの人肉食から離れる事は出来ません。

 やがてアシュラは長じて「人を食う立場」に立つ。人を襲ってはその肉を食うという「獣」として生きていく。そこに「法師」の説法などが加わり、アシュラ自身が人の心を取り戻し、その矛盾に苦しんでいくという物語だった。

 映画は、・・・「ひどい!」の一言に尽きる。後に述べるトンデモの結論(映画のストーリー、ネタバレはしませんからご安心ください)は別にしても、最初からストーリー展開が冗長で、その為にテーマが読み取りにくい。

 最初のアシュラの出産から、「母親に食われかける」までの説得力はゼロだ。飢餓の苦しみや苦痛が実感をもって描かれていないと思った。

 ジョージア秋山のマンガを現代風のアニメに描きなおすには、絵画的なリアルラインの再設定が必要な筈だ。「銭ゲバ」を実写で演じきった松山ケンイチの役造りは立派なものだ。「アシュラ」においてはこのブレが酷すぎる。
 特に、アシュラの母親の胸は後半においても悲惨さを感じさせない。
 飢餓の限界線上にいる場合、子どもはあばら骨が見えるほど胸部が痩せ細り、腹部は膨らむ。皮膚は粉を吹いて乾燥し、目や唇の粘膜は組織異常が起こる。そして母乳を与えたくても母乳自体が出ない、乳腺は収縮し母親の胸は老婆のそれのようにしぼみ、しわに覆われる。飢餓の中で出産をすると女性は体に過度な負担がかかり、あたかも老婆の様になってしまう。

 この映画に描かれたアシュラ親子はこれほど悲惨には見えない。周辺の雰囲気が(説明的に)悲惨だよ〜♪悲惨だよ〜♪というだけで、両者の悲惨さが描ききれていないので「母親に食われかける」シーンが唐突に見える。

 この辺りから「この映画には乗れないな」という気にさせられた。

 やがて、サブキャラクターである「七郎」との出会いのシーンが来るが、ここも唐突で、ここで起きるある事件について、物語の軸になる筈がそうもならない。私はこの部分必要ないのではとさえ思えた。この差別部落の住人「七郎」と荘園村落の娘「若狭」更に、地頭という人物間の葛藤が物語を推進していくのか?と思ったが、これらの人々も表層的に語られているだけだ。

 アシュラの前で展開される物語自体が表層的だから、アシュラ自身が獣から人間に移行する苦しみや、人間としての苦しみの中で葛藤する姿が描かれていない。最後の「ある物」を巡ってのアシュラと若狭の対立、葛藤も全然説得力を持って居ないし、そもそもテーマから論点がずれている。

 人間は雑食動物だ。人間は他者の生命を食べなければ生きていくことは出来ない。
 つまり「原罪」を背負って生きていかなければならない。

 しかし、その罪を背負い、もがき苦しんでも生きていくから、
 「美しい」

 これがジョージ秋山の訴えたいテーマなんでしょう。

 なら、アシュラが今まで人を殺してきた事に対して、どこで悔悟があるのでしょうかね?最後の戦いのシーン、ここでアシュラが人を殺す事を否定して逃げる事に徹するというような筋立てになっていれば、まだテーマは浮き出てくるのでしょうが。
 この戦いのシーン、そもそも何と何が、なんの為に戦っているのかサッパリ判らない気分になってきました。

 そして、問題の蛇足、最後のシーン。

 この映画は良くあるようにエンドロールの後にワンカット挟まれる。

 絶対に、エンドロールで席を立たずに、これを見てください。
 これは言ってもいいでしょう、映画のストーリーのネタバレではないでしょうから。

 京都の都が描かれるのですね。

 実は、映画の製作協力に「京都市」が関わっているのですよね。一体どういうつもりか判りませんが。

 良いですか、中世の日本の荘園で、吸い上げられた税はどこへ行ったか。それは大部分がこの京都に来たわけですよね。京都の街を支える寺社や貴族、商人の財は、その根幹を周辺地域に点在する荘園が生んだ穀物生産に頼っているわけです。

 ならば、そもそも「アシュラ」が描いた天災や飢饉によって生存闘争を余儀なくされる農村地帯と、静謐に描かれたこのラストシーンの京都の都をどう整合的に理解すれば良いのでしょうか。


 人間は他者の生命を食べなければ生きていくことは出来ない。
 つまり「原罪」を背負って生きていかなければならない。

 しかし、その罪を背負いながらも生きていくから、
 「美しい」


 というテーマ自体が、このような描き方をする限り、
 生き残った方の得手勝手な一方的な論理でしかないではないですか。

 この悲惨な闘争、獣の世界というのは現代に引き移せば「新自由主義的な経済競争の中で、99%の人々を押しのけて生き残る1%の獣」といえる。

 アシュラが今まで殺してきた罪に対しての悔悟を描き忘れた製作者たちは、この1%の中でぬくぬくと生きているようにしか見えない。

 その1%の獣を肯定し、「美しい」というのであれば、そんな美しさは要らない。

 そして、私のこの歪んだ目には、この静謐な京都の都自体が「どうしようもなく醜く見える」