映画「サウルの息子」を見た。アウシュビッツ=ビルケナウ収容所における「ゾンダーコマンダー」を描いた映画だ。
ナチス・ドイツはヨーロッパ中からユダヤ人、ロマ族を各地の「最終的解決」に送り込んだ。アウシュビッツ=ビルケナウ収容所では150万人*1がこの「最終的解決」の対象となった。その際、対象となるユダヤ人から募られた「特殊部隊」が「ゾンダーコマンダー」だ。彼らは自らの手で同胞の「最終的解決」を実行した。
暴力的で狂信的な政治が、この世に地獄以上の、酸鼻を極めた風景を現出させたわけだが、その中でもこの「ゾンダーコマンダー」という立場の壮絶さは想像を絶する。
そうした姿は映画を見ていただきたいと思うが、では、この壮絶は他人事なのだろうか。「ゾンダーコマンダー」は同胞を手にかける。同胞を手にかけなければ自分が生きていけない。強烈な弱肉強食の社会とは、まさにこれなのではないだろうか。企業においてリストラを進める人事や総務の担当者の姿は、「ゾンダーコマンダー」さながらだ。
労働者が労働者の職を奪い、雇用を奪う。お互いがお互いを叩きあう。
そうした競争を「市場原理」と言い習わし「自由競争」と言い、推し進めようとする。
「万人の万人に対する闘争」とはトマス・ホッブスが「自然状態」として提示した状態であり、それ以来人間はこの悲惨な状態から脱しうるように社会や国家を組み上げてきた。ところが、そうした歴史的議論をまったく無視し、投げ捨て、今の日本では「自己責任」や「自由競争」が声高に叫ばれている。
話は急展開するようだが、人気テレビ番組「笑点」の出演者である桂歌丸師匠が番組を引退されるそうだ。同番組に50年にわたって出演し続けてきたという事は凄い事だ。
こうして見るにつけ、「天職」を得た者の人生は幸せな人生であろうと思えてならない。
職とはヒトであり、ヒトとは職なのだ。(あるいは、近代的に歪んだ人間理解かもしれないが、自分の実感だ)
雇用こそが起点であるべきだ。
雇用が破壊されているから、若者が結婚できない。若者が結婚しなければ子どもなど生まれるはずがない、結果として少子高齢化を深刻化させているのは、雇用を破壊した失政の結果だ。
雇用が破壊されているから消費ができない。有期契約雇用をされ、5年先の保証が何もなければ住宅など購入できるはずがない。将来の不安が無いから消費ができる。逆に、将来の不安が高まれば消費を手控え、貯蓄をしなければならない。ここでも経済循環が滞る。こうして、いくら金融緩和をして流動性を高めても国内経済の循環は回らない。流動性(お金)は、資本を持つ者に渡しても循環しない。資本を持たない者にお金を渡せば、即座に循環が回り始める。
雇用が破壊されているから個人がアイデンティティーを失う。自分を見知っている人間、自分を承認してくれる人間が居なくなる。同僚として一緒に働いているどうしでも、すれ違いの有期契約であればお互いに信頼も生まれなければ関係も深まらない。こうして個々人は寄る辺ない個人に留められ、行き場を失う。(その結果が「在特会」などの歪んだ政治運動にもなる)
すべては雇用だ。雇用が起点となる。
すべての労働者、無産階級*2は連帯しなければならない。
「連合」の過ちはここだ。労働組合自体が雇用の流動化を容認したり、或いは推奨してみたり。こんな在り方は間違っている。私には「連合」の姿が「ゾンダーコマンダー」に重なって見える。
リバタリアニズム、新自由主義、市場原理主義を口にする労働組合など「最終的解決」をされてしまえばいい。必要ない、存在価値が無い。バカのように朴訥に、そして教条的に、雇用を守り、職場を守るのが労働組合だ。
雇用条件を緩めなければ企業がもたない?
そんな企業は初手からもたないのだ。市場原理に殉じて退場していただくべきだ。
企業とは何か、企業を構成する要素「ヒト・モノ・カネ」を如何に構成して、新たな「ヒト・モノ・カネ」を生むかにある。「カネ」を稼いで、それを内部留保として積み上げている企業はバカだ。その「カネ」を次に回す知恵が無いのだ。日本は「モノ(知的所有権含む)」を良いように奪われている。しかし考えてみれば、日本もその昔、アメリカから「モノ」を盗んでいたのだから仕方がないのかもしれない。しかし、盗まれる以上に新たに「モノ」を生み出さなければならない*3。そのフィールドは幾らでもある。その為に必要なのは何か。
それが「ヒト」だろう。企業は「ヒト」があってこそ成り立つ、逆に「ヒト」のいない企業など死に向かっている姿ではないか。
バカ経営者は「ヒト」よりも「カネ」や「モノ」にこだわる。
「へぼ将棋、王より飛車を可愛がり」
さて、ここから話は急展開名古屋市に移る。
名古屋市にもへぼ将棋を打つバカ経営者がいる。
なんだこれは?任期途中で、それも自分が外部からわざわざ招聘した副市長を解任する?言ってみれば自分の手足をコントロールできない。そのような者が2万5千人に及ぶ職員、組織を動かせる謂われはないではないか。
巷間言われるところによると、この岩城副市長の解任のきっかけは次のような事情らしい。
名古屋市は日立製作所から訴えられている。陽子線治療センターの建設の際、河村市長が工事をストップさせたことに伴う工期の遅延による損害を賠償するように求められているのだ。河村市長の判断による遅延に伴う損害は4億8600万円に上るとされている。
この金額について、名古屋市と日立の間でADR(裁判外紛争解決手続き)が行われ、協議が続いてきた。結果として名古屋市が日立に1億5000万円を支払うという和解案が示された。名古屋市としては3億3000万円ほど損害が軽減されたことになる。
ところが河村市長はこの和解案を飲まなかった。「市民が納得しない」というのである。
市民が納得しないのは、そもそも日立に4億8600万円もの損害を被らせてまで、工事を停止する必要があったのかということだ。河村市長は「名古屋4大プロジェクトは、一旦立ち止まって、実施時期や規模を再検討する」と市長選挙公約に盛り込んだ。その際、「一旦立ち止まる」事により、事業者や名古屋市が追加のコストを負担しなければならない事を説明したのか。していない。
ひょっとすると、河村市長も、そしてこのマニフェストを作成した者も、プロジェクトを止めれば、追加経費が発生することを認識していなかった可能性もある。
その見落としがこの4億8600万円になっているのだ。
結果として名古屋市は和解案を蹴り、本訴に移ることとなる。
本訴に移れば4億円程度の支払いは避けられないだろう。
ここでも名古屋市民は、河村市長の和解案拒否の判断によって、1億5000万円で済んだ支払いを4億円に引き上げて被らなければならなくなっている。
ではなぜ、河村市長はみすみす2億5000万円がところ負担が大きくなる本訴を選んだのか。和解案を飲めば、1億5000万円で賠償は済む、しかし、それは今、市長である自分の責任において支払わなければならない賠償である。けれども、本訴になれば、その判決が確定するのにまだ数年を要すだろう。来年の市長選挙は確実に超える、うまくすると自分が市長でいる間には判決は確定しないかもしれない。
自分が市長を辞めた後に、4億円だろうと5億円だろうと賠償が確定しても自分の責任は追及されない。よって「今の和解」よりも本訴を選んだ。
絵に描いたような責任の先送りだ。
今回の判断によって、名古屋市、名古屋市民は差額2億5000万円を負担することになるだろう。しかし、河村市長の判断によって名古屋市、名古屋市民が被った損害は、2億5000万円ではない。そもそも河村市長が4大プロジェクトに対してもっと謙虚な姿勢でいたなら、この4億8600万円という追加経費自体存在しなかったのだ。
岩城副市長は副市長として、弁護士として、このADRによる和解案を飲むように河村市長に進言したようである。それに対して河村市長は頑として受け入れを拒否、結果として今回の解任につながったようだ。
さて、このバカ経営者。4月28日に中日新聞が「2期目任期あと1年」と特集を組んでいる。記事の中で特に取り上げるに値するような内容はない。見事なまでに「何も残っていない」のが河村市政のこの7年間だ。
同じ28日の新聞に次のような記事が載った。こちらの方が重要であろうし、名古屋市政の現状を端的に表している。
東北震災の際、首都圏の「帰宅困難者」がたいへんな苦労したことは有名だ。
南海トラフ地震などで、名古屋市においても同様の問題は想定される。
なぜ、その「帰宅支援ステーション」の地図が更新されなかったのだろうか。
予算が付いていないからだ、専従者を配置する余裕がないからだ。
バカな歳出削減論により、行政を縮小し、減税を行おうという狂った経営者に名古屋の市政を任せているから、こうした問題が起こる。(ここに指摘された以外にも、名古屋には放置されたままの問題がいくつもあるが、当ブログは指摘しない。指摘することがバカ経営者を利することになるからだ。名古屋市民の目につくようになるまで黙っている事に決めた)
可哀想な事に、河村市長の周囲には人は残らない。名古屋大学の後教授、民間企業から副市長として迎えられた大西氏。そしてこの岩城氏。さらに、減税日本という国政政党に所属した人々。皆、河村氏の下を去って行っている、見事なまでの「遠心力」だ。
今回、リコール運動で減税日本の落選議員である湯川氏や金城氏の名前も見えるようだが、この両名。さらに現役市議である田山氏(団長)などに申し上げよう。
なぜ、河村氏の下から、これほど人が逃げるのか。あなた方はその理由が判るはずだ。
そして、なぜ今、これほどまで河村氏が「城」にこだわるのかも、あなた方はよく理解できるはずだ。
しかし、それは「私利私欲」なのではないのか?
あなた方は「河村市長を助ける」として選挙に出たが、それは市長としての河村氏を助けるつもりであって、自分の名前を名古屋に書きとどめたいという、観光地の名勝に自分の名前を落書きする児戯に等しい幼稚な私利私欲のために「城」を作ろうとする個人「河村たかし」を助けるためではないだろう。そもそも市議とは市民の付託を受ける存在なのであって、名古屋市の市政は名古屋市民の為の者だ。市長個人の為に名古屋市政が蹂躙されて良い筈がない。
離脱するなら早いうちが良い。
・・・と、今減税日本ナゴヤの人事を確認する為に見たら。
なんとも独特なスタンスを維持している人々が「団員」に留まっている。
名古屋城の木造化について、言及に至りませんでしたが。
奈良大学学長の千田嘉博氏が貴重なコメントを上げていらっしゃいます。
名古屋市が名古屋城天守の木造復元計画を発表したとのこと。この計画は、国特別史跡の整備を実施するのに必要な調査や検討手順を無視している疑いが高く、適切さに疑念がある。そもそも天守の木造再建より先に、国特別史跡として整備すべき本質的価値をもつ構成要素があるのを見落としている。
— 千田嘉博_奈良大学 (@yoshi_nara) 2016年3月29日
名古屋市が名古屋城天守の木造再建計画を発表する一方で、愛知県は継続的に藩主御殿があった名古屋城二の丸に建つ愛知県体育館を大改修する計画で、城の整備に全力で逆行。地元自治体は、名古屋城をどうしたいのか。県と市の整備方針が不一致のまま、天守だけ木造にしても、適切な活用はできません。
— 千田嘉博_奈良大学 (@yoshi_nara) 2016年3月29日
この千田学長にしても、広島大学の三浦正幸教授にしても、日本の城郭についての権威者が名古屋ご出身というのはやはり、名古屋城の影響も大きいのでしょうか。
ここは、「特別史跡名古屋城跡全体整備計画」に立ち戻るべきでしょう。
http://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/page/0000007591.html
というか、喫緊の課題は愛知県体育館についての愛知県との協議なのでしょうが、すでに手遅れでしょう。