市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

贋作「アシュラ」

 これも映画の話です。

 映画評論家の町山智浩さんが映画「ダークナイトライジング」のストーリーについてご自身の考えを述べている。

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 そして、実際にこちらの方が本編よりも面白い。ネットの中にはこの音源を利用してBGMまでつけた素材が転がっています。

 私もこれを見習って、この連休中考えた自分なりの贋作「アシュラ」を文章にまとめてみようと思います。完全に「妄想」ですので、読んでも何の益もありません。

 また、映画「アシュラ」は原作のエピソードを汲んでいこうという意識に縛られた部分はあるかもしれません。これは他のマンガ原作の映画にも言えることで、よく言われることですが、週刊連載という特殊な発表形態をとるマンガをそのまま一遍の映画に再構成する事は至難の業です。週刊連載ということは一ヵ年で50本からの短編を連ねた作品という事になるのであって、実際に現代のマンガは各週毎に次回への「引き」が盛り込まれています。こんなテンションの筋立てを、例えば一ヵ年分50本を一つのストーリーに整理して2時間程度の映像にまとめれば様々な欠落が発生します。

 また、この「アシュラ」は1970年の作品で、今思えば、叙事詩的な作品とも言える構成になっています。

 ですので、敢えて原作は無視してみます。

 設定と主な登場人物だけを剽窃して、贋作を語ってみましょう。

贋作「アシュラ」

 時は中世の頃、天災と飢饉により人々は疲弊していた。
 一人の身重の女が荒野を彷徨っている、やがて女は打ち捨てられた寺で子どもを生む。木の実を拾っては食べ、鳥や虫などおよそ口に入るものは何でも食べながら子どもを抱き彷徨い続ける。時には体を男に与え、幾ばくかのたつきを得る。ある時女は鳥が群れてたかっているところに飛び込む、鳥を捕まえようとしたのだ。しかし鳥は逃げてしまい女は落胆する。鳥たちが群れていたのは行き倒れの死体だった。鳥たちがついばんでそこここに肉がはみ出している。女は最初顔をしかめたが死体を見つめる目の輝きがやがて変わる。女はすばやく行き倒れの死体から肉片を取上げると隠れ家に戻る。

 暗闇の中、火を起こし、その火にあぶった行き倒れの肉を焼き、貪り食う女。
 乳は既に出なくなっている、歯もまだ生えそろわない子どもの口にこの肉を流し込む。何も知らずに口をもごもごと動かす子ども。

 女はやがて狂気に取り付かれたように行き倒れの死体を漁っては食べるようになる。

 そしてある晩、獲物(行き倒れ)を得られず、空腹に苦しむ女。子どもが空腹のため火の付いたように泣きはじめる、母乳を与える女、空腹は逆らいがたい、やがて女の目が狂気に支配され、火の中に我が子を投じて食べようとする。

 8年後

 一人の子どもが斧を担いで歩いている。空腹で腹がなる。

 場面は変わる。
 貧しい農家、少ない夕餉に親子三人が向かっている。子どもが雑炊(木の実や適当な植物のつるを水で炊いたようなもの。雑穀すら入っていない)のお代わりを求めてきた。母親は囲炉裏の縁に置いたなべからこそぎ落とすように雑炊の残りを子どもの碗に入れる。子どもが「これだけ?」というと、父親が「俺はもう食えねえ、お前これも食え」と子どもに碗を渡す。母親は心配そうに父親を見る、父親は静かに母親に目配せをする。

 その時玄関の戸板が乱暴に開けられた。斧を構えた子どもが立っている。

 「なんだ、お前は」父親が向かおうとする。
 「ガウ」斧を構えた子どもは犬の様にうなるだけだった。
 「食い物なら俺たちもない、他を当たってくれ」斧の子は農家の中を一瞥し、食物らしきものが見当たらないと判断すると、この父親に斧を振り下ろした、母親は反射的に子どもを庇う「この子だけは勘弁して」その母親の背中に斧が振り下ろされ、母親に庇われた子どもの頭にも斧が突き刺さる。

 子どものはらわたから肝臓を取り出して貪り食う斧の子ども。
 それをこと切れかけた母親が見つめ一言「オニ」と。


 やがて斧を持った子どもは法師に出会い、念仏を唱えれば飯が与えられると覚える。法師はこの子どもにアシュラと名付ける。

 (この辺りまでは映画の筋立てのまま、若干絵を変えてあるだけ。ここからは完全に映画からは離脱します。また、記述自体も粗筋立てにします)

 岩ばかりの川原、流れる水は少ない。両岸に人が並ぶ、人が多い岸に並ぶのは里の荘園の人々、着物も少々立派で帽子をかぶり、手には鍬や鎌を持っている。対する岸に並ぶのは山の民、着ているものは粗末で素材は皮など。中にはほとんど裸同然の者もいる。手には川原の石や棒を持っている。
 やがて里の衆から人が出て口上を述べる、この川の流域で獣を捌いてはならない、この川の水は里の田に引かれる。川に獣の血を流せば水が腐る。獣を捌くのは別の川で行うこと。これは地頭様のお達しで、すでに山の民には申し伝えている筈だ。
 山の民からも人が出て口上が述べられる。もう一つの川が枯れこの川しか残っていない。こうした場合は利用が認められている申し合わせの筈だ。下の里の衆に迷惑になるような量を捌いていない。

 やがて両岸から野次の応酬が始まり、投石が散発的に始まった。

 里の民の一人に投石が酷く当たり、倒れる。それを受けて両岸の人々が川を渡りいよいよ騒乱という時に、この両者の間を黒い影が通る。斧を持った子ども、アシュラだ。

 アシュラは投石で倒れた里人の首にむしゃぶりつくとその肉を噛み千切った。頚動脈から飛び出る血潮、人肉を咥えたアシュラの姿に里人の戦意は一気に喪失し逃げていく。
 里人の肉を食うアシュラに山の民の七郎が声をかける。お前、腹が減っているのか。もう人は食うな、これを食え。七郎は懐から芋を取り出しアシュラに与える。芋を与えられたアシュラは法師に教えられた念仏を唱える。

 七郎はアシュラを山の集団に受入れる。山の民の中には一定の基準で流れ者を受入れる掟がある。食べ物に念仏を唱えたアシュラはその基準に満ちていると七郎はアシュラを警戒する古老に主張する。

 この山の民はこの周辺の山に元々古くから住み着いている狩猟採集の民である。周囲の3つの山に(北、南、東)集落を構えて住んでいる。

 西の谷に開墾集団が入り込み、やがて荘園ができた。
 幾度かその地頭が山の民の征伐を行い、やがて山の民も一定の使役を提供する事で里との共存が叶う事となった。しかし、里の民と山の民の間のいさかいは絶えず、水争い、土地争い、子どもの喧嘩、入会の取り合いなどその都度喧嘩が起こった。

 この水争いも里の民に一人の犠牲者が出てしまったが、それで却って里人が怖れたのか後は沙汰止みとなった。

 アシュラは七郎やその妹若菜(妹という設定で、こちらの集落に居る事にする)らと暮らし、人は食わずとも獣を捕らえ、山の木の実や山菜、芋や他の穀物を得る手段を教えられ、七郎らと狩猟を行って山で暮らす。

 この時の若菜との交流などで、言葉を覚え、人間らしさを身に付けていく。

 七郎とアシュラは狩猟の集団なので三つの集落を巡るように生活する、この中で北の集落の一人の子どもにアシュラはなつかれ、ある晩、この家族の住居に泊まる(住居と言っても、単に木で骨組みを作った上に広葉樹を葺いただけの現代のテントに近いもの)
 この子どもとその母親、そして父親の姿に、アシュラは己が襲った一家の姿を重ね合わせ、やがていたたまれなくなって住居を出、山を彷徨う。

 心の中で法師と会話し、悔恨と人間としての目覚めの涙を流す。

 ある時、アシュラは若菜の奇妙な行動に気付く、若菜の後を付いていったアシュラは若菜が里の若者と密かに落ち合っている事を知る。
 この事をアシュラは何の考えもなく七郎に告げてしまい、若菜は七郎から里の若者とは会わないように釘を刺される。アシュラの告げ口を知った若菜はアシュラに怒り、それ以降口をきかなくなる。事情がわからないアシュラはただ若菜に嫌われた事が寂しく、辛い気持ちを抱く。


 夏が訪れる、空梅雨となり雨が降らない。山の水も乏しくなり、里には水がほとんど落ちなくなる。旱魃がやってきた。水田は全滅で収穫が得られない。山の民にとっても木の実や芋、山菜の収穫量が減る。冬が来て雪は降らない、いよいよ飢餓が始まる。やがて春が芽吹く頃になっても旱魃は続く。そんな中、北の集落から「のろし」が上がる。アシュラと七郎は北の集落に向かう、しかしそこにあったのは夥しい村人の死体と、それを襲う山犬や烏の群れ。
 北の集落に貯められていた木の実などの食料はすべて運び出されていた。

 生き残りの報告によると里の民が突然襲って食料を根こそぎ持って行ったそうだ。

 アシュラは死体の中に、折り重なるように亡くなるあの家族を発見する。

 アシュラは子どもの死体を抱えて泣く、「なんて世の中なんだ」

 やがて二度目の空梅雨が訪れる。川は干上がり山の緑も枯れ始める。

 山の民は南の集落を捨て、すべての食料を東の集落に集め砦を作る。

 里の民は地頭を先頭に砦を囲み、やがて攻め落とされる。アシュラはこの東の砦の攻防戦で若侍のような装束をまとった若菜の逢引の相手と出会う。この若侍に、お前は若菜も殺すのかとアシュラは迫る。若侍はお前はなぜ、若菜を知っている。もし若菜がまだ生きているのであれば、里に逃げてくるように伝えてくれと告げる。食料を奪われた山の民の生き残りは更に山の奥に逃げ込む。

 食料を奪われ、人数も少なくなったアシュラたちは山の奥の洞窟に逃げ込み、そこで古老などが亡くなるとその肉を「鹿が捕れた」などと言って肉鍋にし食べる事になる。
 しかし、この事を知った若菜は肉鍋に手を付けなくなる。アシュラは若菜に肉を食うように迫るが拒否される。最後に里の若侍の話を告げて里に下りるように促す。しかし若菜は山の民を捨てて自分だけ助かることは出来ないと山に留まる。

 秋が訪れ、一人猟に出たアシュラはサルの親子を見つける。母サルは痩せ細り、今にも倒れそうである。子ザルはその痩せ細った母サルに必死にしがみつく、が、栄養失調で死にかけて手は揮え、目も開かない。母サルは必死で乾ききった木の皮まで剥がして口にしてみるが食べられそうにない。アシュラはその母サルを斧でたたき殺す。その衝撃で子ザルは跳ね飛ばされる。アシュラは必死で母サルのはらわたを抉り出し肝臓を探り出すと口に含んだ。はらわたがはみ出した母サルに、目も見えず、手の震えが止まらない子ザルがすがりつく。アシュラは冷酷に子ザルの上に斧を振り下ろす。

そして静かに言葉が口を付いて出てくる「生まれてこない方が良かったんだぎゃあ」

今度はもう一度、天に向かって、搾り出すような叫びで繰り返す「こんな争いばかりの世の中、生まれてこなかった方が良かったんだぎゃあ、ずっと争いばかりだぎゃあ」

ここで法師との心の会話が展開する。

法師「人とて生きていく為には他の命を奪わねばならない。
 他の命を奪ってまで生きていかなければならないのが人だ。
 罪を背負い、それでも生きていく。
 もがき苦しむのが人間だ」



 ここまで来て、私は逡巡している。
 映画と同じようなテーマに着地させる事はできない。

 やはりどうしても、ここで「罪を背負い、それでも生きていく。もがき苦しむから人間は美しい」という着地にするのは違うという気がする。

 しかし、一方でそう判断する自分を「甘い」と断じる自分もいる。

 他の命を奪ってまでして生きて行かなければならないのが生き物としての人間の原罪だ。それは理解できる。しかし、だからといってここでそれを「美しい」としてしまっては、生き残った方の贖罪を進めるだけで、奪われた方の回復ははかられない。

 やはり、現代の問題であるところの99%対1%という図式に引き写すと、これは新自由主義の、リバタリアニズムの肯定にしかならない。(おお、日本の仏教の根深い問題に触れそうだ)


 現代の様に「豊かな社会」というのは、せいぜいこの200年、100年といったところの話のようだ。それ以前は「力こそ正義」の時代で、それを打開したのは石油と電気などを基盤とした工業技術の進展、それによって起こった食糧生産の増大、工業化が大きいだろう。

 確かに今日ただ今に至るも、まだ飢餓は完全には解消されていない。しかしそれでもこれほどの人々が生き、生を謳歌できる世界はまだ100年そこそこの事なのだろう。

 その反面、人類は原爆を抱え、人類どころか地球そのものすら危うくするほどの破壊力を得てしまっている。これも「共棲」をはからせる上で影響力を持つ。

 この100年そこそこのたまさかの平和と共棲が、実は生物としての人類には異常な事態なのであって、人類は本来生物的な、獣性に生き、闘争の中にいるべきなのだろうか?

 それとも、そのような闘争自体を押さえ込み、共倒れを含めて共棲が可能なのだろうか。少なくとも現代のこの平和は、豊かな農業産品、工業産品のおかげである。

 今年、米国の穀倉地帯を襲った旱魃や、中国で発生しそうな飢饉、これら地球規模での食糧危機が起これば、アシュラが苦しんだ中世の日本社会と同じ困難が、世界的に再発しないとも限らない。私たちの子孫は、またアシュラの味わった地獄の中で生活しなければならないかもしれないのだ。

 ・・・そうか、人間に必要なのは、この映画で述べられたような宗教的な思索ではなく、もっと具体的な生存の為の戦略のような気がしてきた。


「市議養成講座」前説他一件

 10月3日の当ブログでお約束した「市議養成講座」の執筆は進んでいる。

 別に、私は市議の経験者でもなければ実務について詳しいわけでもない。ただ河村市長が進めようとしてきた地域委員会制度について調べていくうちに、減税日本ゴヤやその周辺者。または様々な方々と「政治」を語る機会を得た。そしてそこに大きな欠落を感じる事もあった。現実的な政治や行政を語りたいという態度の人も居れば、単にお遊びの様に、理念的な政治談義に終止する人も居る*1。この両者を分けるのはつまり「事実を求める謙虚な姿勢」と「自覚された価値判断による目的意識」である。

 例えば今に至るも「公務員の給与は削減されるべきだ」とおっしゃる人々が居る。この意見には二つの根拠があるように見える。一つは「公務員は働いていない」ということともう一つは「給与の官民格差」だ。
 この内の「公務員は働いていない」という意見には「では『働く』とはどういった状態をいうのか」といった検討が必要となるだろう。そして、それが実際には非常に難しい。
 「区役所の窓口で市民が順番待ちの長い行列に並んでいるのに、そのカウンターの奥の方で暇そうに新聞を読んでいる職員が居る」というようなステレオタイプの事例を持ち出す人も居るが、例えば名古屋の市役所、区役所にこのような事例は実在するだろうか?
 そもそも、こういった事例にしても「働いていない」ということではなく、他の業務に口を出せないというセクショナリズムであるとか、忙閑の差を考慮した人員配置が為されていないという問題ではないのだろうか。

 公務員、もっと厳密に言ってみれば「名古屋市本庁の職員」が「働いていない」とは思えない。その業務に対して目的意識がずれている人は居るでしょうし、時に酷い事例も見受けられるのは確かですが、大多数の職員がそれぞれの業務をこなしているのは間違いが無い。語られるべきはこの合目的性ではないかと思われる。

 つまり、圧倒的多数の「公務員は働いていない」という言説には根拠が無い。

 次に、「給与の官民格差」についてはここにも二重の誤解がある。現在のようなデフレ期においては大企業と公務員の給与、更に年金などの硬直性のあるお金はデフレ圧力に対して反応が鈍く、結果としてデフレ圧力に敏感な物価や民間給与(中小企業、非組織的労働者)の下落との間に格差が発生する。
 しかしこれはまた逆も真なりで、インフレ期には物価や民間給与が敏感に上昇する。私はバブル期に「公務員試験には受かったけれど、このままバイトを続けた方が給与が良い」と公務員合格を蹴った事例を見聞きしている。あの当時、公務員に就職するのはよほど家族がうるさいか手堅い人物ぐらいだった。

 更に、公務員給与を下げても歳出は下がらない。国や県、市の歳出に占める公務員給与の割合は驚くほど少ない。今後増加する社会保障費を賄うような事は出来ない。
 こういった議論もある「国民は社会保障が削減、減額される痛みを飲むのだから公務員も痛みを分かち合うべきだ」
 こういった主張は典型的な「合成の誤謬」である。

 国民の痛みである社会保障の減額は国内経済の縮小が原因である。デフレが一番の問題なのだ*2。これはまた別の機会に述べる事もあるだろうが、小泉構造改革やその劣化コピーとしての「構造改革派」「新自由主義派」の最も根本的な誤解は、現在の経済的困難に対して「生産性を上げる」「経済効率を上げる」事が解決であると思っている事である。
 デフレの問題は需要よりも供給が「過多」であることが問題であって、生産性を上げたり経済効率を上げるという行為はこの供給をより一層積上げる行為でしかない。つまり、そういった行動はより一層のデフレギャップを生み出すだけなのだ。

 現在、市の窓口業務(図書館などの窓口業務も含む)などは市の職員が当たらずに民間の業者が受託している。この民間の業者は一時雇用などで人員を賄っているようだ。これは市の歳出を削減する効果があるそうだ。つまり同じ窓口業務を行うのに歳出が減ったということは、単純に窓口業務に従事している人間の人件費を下げたというだけに過ぎない。更に落ち着いて考えて見れば、介在する民間業者の管理費用や利益も含んでなお歳出規模自体が削減されたとすると、現場作業者の遺失利益はどれほどだろうか。これが言われる「官製ワーキングプア」である。
 また、この趨勢には次のような背景もある。つまり、こうやって窓口業務に従事する職員を減らし、その部分を業者に委託すれば会計上人件費から業者に対する委託費、物件費として計上できる。つまり、偏頗な公務員人件費削減要求が「官製ワーキングプア」を形成し、会計上だけの人件費削減を達成させる。

 これは市の場合だが、このような「人件費の抑制」は民間部門でも進んでいる。すべて「生産性を上げ」「経済効率を上げる」行為であり、供給をより過剰に廉価に積上げる。

 しかし、需要自体はあがらない。なぜか。
 非常に簡単だ、需要とは何か、この働いている人々の要求自体が需要であり、彼等の可処分所得が需要を形成する。市職員として身分が安定し給与も安定していれば、所得以上に将来所得を担保に持ち家を買うかもしれない。しかし一時雇用で民間業者に管理費などを抜かれた窓口職員では結婚すらおぼつかないと言われている。

 今年、自衛官の給与が下げられている。国家公務員の給与削減に連動しての動きだそうだ。守山で飲食店を経営するある人物が、お客さんから「家計の都合でもう外で飲むことは出来ない」と言われたそうだ。

 公務員も当然労働者であり消費者である。公務員給与を下げれば下げるだけ、国のGDPが下がるだけなのだ。経済というのはトレードオフの関係になって居ない。公務員の給与が下がれば民間企業の給与が上がったりはしない、逆に消費者の一部を形成する人々の収入が減れば、そこを市場としている民間業者の収益が減ることは理の当然だ。そして、収益が減った民間業者はまた人件費削減を行うだけだ。
 経済はメリーゴーランドのようなものだ。

 右から左にモノとお金の交換がぐるぐると回り、円環構造を形作る。この円の流れこそが経済の活性で、より多く、より大きな交換が起これば経済は活性化する。

 必要なのは「経済効率の向上」ではなく、「経済の向上」なのだ。

 ここが判って居ない。

 そりゃあ、ある一定の「価値判断による目的意識」を持っている人々は、こういったデフレ、不活性な経済を推奨しているでしょう。つまり、人間の生活よりも自然が大切というような人々だ。正直言って、こういった人々には私は「ではあなた率先して死になさいよ、あなたの存在は環境負荷が無いのですか?」と聞いてみたい。(ここにも「事実を求める謙虚な姿勢」に反する、(自身の存在が環境負荷を持つという)事実を敢えて見ない傲慢な姿勢がある)
 こういった「価値判断による目的意識」を自覚していればまだ良い。しかしそれすらも喪失されているのが現状だろう。

 あるマスコミは「市長の妄想が暴走している」とニュースで語りました。

 その原因は「事実を求める謙虚な姿勢」と「自覚された価値判断による目的意識の喪失」であるといえる。この問題を修復し、地に足の付いた「政治」を語るための提言をしてみたいと思う。

 そして、それならば私でも出来ると思う次第だ。

 また、減税日本ゴヤには具体的な提言も3つほど出来るだろう。

 ところで、この部分を書いているのは10月10日なんだが、実は本日、減税日本の皆さんには「面白い問題」が起こっている。多分、自覚されていないだろう。明日になるとこの問題が確定するので当ブログでは明日以降ご指摘させていただく。


*1:そういえば、こういった「政治」を商売にしている「政治屋」と言うしかないようなどうしようもなく「さもしい」人物にも出会った。

*2:少子高齢化もこの需給ギャップの一つの要因である。高齢化は需要を喚起する要因にもなりえるが、今の経済政策では逆に働いている。これについては別に述べる。