市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

法と道

 この所論を展開すると私の「正体」がばれる可能性があるけれども、まあ、その件はどうでも良い。

 相も変らぬ減税日本ゴヤの河合市議への対応について、またもや脱力するような情報が入ってきた。それと先の鹿島市議のミニ集会に参加して起きたちょっとした問題。
 両者とも非常にささいでくだらない事ではあるけれども、減税日本ゴヤがなぜここまで実効性が無いか、その問題点を摘出する例ともなりますし、実は日本の社会にはびこる大きな問題点を浮き出させているようなので、少々長くなりますが*1説き起こしてみます。

 その問題点とは「法」と「道」の捉え方の問題です。

脱力する減税日本ゴヤの河合市議問題対応

 まず、減税日本ゴヤの河合市議への対応に関わる脱力する情報ですが。減税日本ゴヤは結局、河合市議に対して議員辞職勧告が出せずにいます。この決定について自分たちの会派だけではなく、どこかの党と共同提出できないかと探っているようです。しかし、その手法が稚拙というか、非常識というか。

 なんと!減税日本ゴヤは他会派に対して、河合市議の処分についての意見を「アンケート」で問い合わせたというのです。

 こんな話は聞いた事が無い。

 (誤解をされそうですが、判り易い喩えでいうのであれば)ラーメン店が近隣の商売敵であるラーメン店に「アンケート」を取りますか?

 そんな「アンケート」を他店に送りつけるラーメン店を顧客はどう思います?

 こういった折衝や調整というのが議会や議員の職能なんですから、「アンケート」を取るのであれば、団長なり幹事長なりが各会派を回って意向を聞いたり、調整をするのが当然の姿だと思うのですけどね。

 減税日本ゴヤや河村流の文化にはこれができない。

 団長、幹事長といえば減税日本ゴヤの余語幹事長はこの河合問題で非常に落ち込んでいるそうで、やはりマスコミ対応や党内の調整等で大変なんだろうなと思ったところ、落ち込んでいる理由が「騒ぎの為にシドニーに行けなくなった事」が残念で仕方が無いそうです。*2

鹿島市議ミニ集会の小さなトラブル

 8月12日に開かれた減税日本ゴヤ西区選出の鹿島市議が開かれたミニ集会に参加した事はすでに述べた。 鹿島市議ミニ集会 - 市民のための名古屋市会を! Ver.3.0 この時私は、事前に参加の連絡をしなかった。
 当初はこの集会を提案した「東区のMさん」を別の人と誤認していた所為で。後には別の理由もあった。その理由はここでの論旨とは関係が無いので公表しない。大切な点は、私はこの集会に故意に事前連絡せずに参加するつもりでいた事である。

 このミニ集会の案内は次のようになっている。

鹿島 としあき 『ミニ集会』 ゲスト 山田 真奈 市議
◎ と き   平成24年8月12日(日曜日)
        午後5時 開始 6時15分 終了
◎ ところ   名古屋市西区(略)
           喫茶(略)
◎ 会 費   飲み物代実費 (コーヒー 350円 など)
◎ お申し込み  喫茶店営業中に行いますので、定員を 先着15名と
      させて頂きます。 下記のメールアドレスに 11日・土曜日夕方
      5時までにお申し込み下さい。
        メール   (略)@i.softbank.jp
では、急なお知らせで申しわけございませんが、宜しくお願い致します。
《 お願い 》    市民の方々のご意見を伺うのが第一の目的です。
     当日は、他の一般のお客様もお見えになりますので、大声での
     ご発言はお控え下さいますようお願い致します。

鹿島としあき ミニ集会 | 世直し先生 鹿島としあきのブログ

 この記述から、私は申し込みに関して、事前連絡が必要とは読み取れない。
 定員を15名とするために、11日午後5時までにメールで申し込みを受けるという案内があるだけで、事前連絡をしなければ参加できないとは書かれていないし、そう汲み取る事もできない。

 私は故意に事前連絡せずに参加するつもりであったので、当日すでに定員に達しており、その為に参加を断られても仕方が無いとは思っていた。

 そして、当日時間どおりに指定の場所に出向くと、参加者が自分を含めて11名であり、参加を認められたのである。

 ところが8月14日に鹿島市議のブログに次のような文章が掲載された。

《 追伸 》 今回のミニ集会の参加の意志表示を11日・土曜日の午後5時までにメールで鹿島までとお願いしてありましたが、私への連絡も無しで、飛び入り参加され、急遽 座席を一つ追加の不手際が生じました。集会終了後、参加者の一部の方から、ルールを無視した行動を市議が許してはダメだろうというご意見も頂戴致しました。 今後はルールに乗っ取った集会を実施していきます。 ご迷惑をお掛けして申しわけありませんでした。

ミニ集会を終えて | 世直し先生 鹿島としあきのブログ

 これが私の事<だけ>を指して言われていない可能性はある。私は他の参加者の事情は知らないから。しかし、私がこの文章でいう「飛び入り参加」であることは間違いない。

 果たして私は「ルールを無視した行動」を取った事になるのだろうか。とてもそうは思えない。思う事ができない。

 私は当該ブログに以下のコメントを投稿した。

鹿島さん、抗議をさせていただきます。

 私は11日の午後5時までにメールアドレス( (略) @i.softbank.jp )に連絡せずに参加しました。

 ですので
「私への連絡も無しで、飛び入り参加され、急遽 座席を一つ追加の不手際が生じました。 集会終了後、参加者の一部の方から、ルールを無視した行動を市議が許してはダメだろうというご意見も頂戴致しました。今後はルールに乗っ取った集会を実施していきます。」という表現は、私が「ルールを無視した行動」を取ったと看做される表現ですが、8月10日の告知には「事前連絡がなければ参加できない」というルールは明記されていません。

 「お申し込み 喫茶店営業中に行いますので、定員を 先着15名とさせて頂きます。 下記のメールアドレスに 11日・土曜日夕方5時までにお申し込み下さい。」

 事前連絡を敢えてしなかった理由も有りますがそれは述べません。

 10日の告知の通り事前通告なく伺って「先着15名」に入らなければ参加を断られる可能性があることは十分承知して事前に連絡をしなかっただけです。

 明記されていないルールを取上げて「ルールを無視した行動」と詰る行為は不当です。
よって、
1)本文の訂正を求めます。

2)当該参加者への「事前連絡無き参加も『ルールを無視した行動ではない』旨の事情説明」をお願いしたいと思います。

 私は当日あなた方減税日本ゴヤ市議団に「言葉を大切にすべき」と申し上げたばかりですが、その直後にこのように言葉を大切にされない事例が発生する事は誠に遺憾です。鹿島さんの猛省を求めるとともに、上記2点の対応をお願いします。

以上

 「テロリスト」だとか「アートピアホールの怪人」とか言われて、ナゴヤ庶民連の会合では満場の「帰れコール」を受けたぐらいですので、今更「ルールを無視した行動」といわれるぐらい本当はどうということはありません。
 しかし、この鹿島さんは「世直し先生」と自身でいわれるように、子どもたちに勉強を教えてみえた塾の先生、経営者であります。

 例えば、次のようなストーリーを思い描いてください。

 「M君は算数が得意です、鹿島先生の塾でも算数をとって、クラスで上位の成績を収めているのが自慢です。この夏休みに算数の得意な生徒を対象に、塾で特別教室が開かれます。定員は15名です。しかしその日はM君の参加している少年野球チームの試合の日に重なっています。どうしようか逡巡している間に申し込み期間が過ぎてしまいました。
 当日、試合が思った以上に早く終り。M君はこの特別教室に参加しようと塾に駆け込みました。幸い参加者が11名であったので参加が叶い、講師の先生から特に注意も受けませんでした。
 この教室にY君も参加していました。
 Y君はいつもM君に算数のテストで負けています。この教室でM君に差をつけられると思ったのにM君が飛び入りで参加してしまいました。また、当日の講義でもY君が答えられなかった問題をM君が答えるなど面白くありません。
 Y君は両親にこの事を話しました。するとY君の母親はすぐに鹿島先生に電話をかけ『飛び入り参加という、ルールを無視した行動を許してはだめだろう』と詰め寄ります。
 後日、鹿島先生は『連絡も無しで、飛び入り参加され、急遽 座席を一つ追加の不手際が生じました。参加者の一部の方から、ルールを無視した行動を許してはダメだろうというご意見も頂戴致しました。今後はルールに乗っ取った実施をしていきます。』と教室に張り紙をしました。M君は自分が『ルールを無視した行動』をとったと言われて戸惑います。
 しばらくしたある日、M君が教室に入ると机に『ルールを無視』とマジックで書かれているのを目にします・・・」

 この世の中には様々な人がいます。暗黙のまま「参加には事前告知が必要」と思う人も居るでしょうし、この場合「事前告知すべき」と感じる人も居るでしょう。
 それは理解できます。「事前告知できるのであればすれば良かったではないか」と言われるのも判ります。しかし、それが明記されていなかった以上、事後に事前告知を「ルール」と主張するのは誤りです。

 そして、これだけ細かな事を煩く言う私のような存在は、関わりたくないと鹿島市議が思われる*3のなら、それも理解できます。確かにこれはクレーマーのようなものです。

 つまり、私は今、8月14日の鹿島市議の「追伸」という文章に対して「抗議」を表明していますが、事が市政にかかわる事でなかったなら私はこんな抗議はしません。

 その「抗議」にも書いたように「減税日本」は*4「言葉を大切にすべき」と思うから敢えて指摘しているまでです。

法と道

 減税日本ゴヤ市議団が、河合市議の処遇について、市会他会派と折衝や調整をしてその解決に向けての行動が取れない。塾経営者として見識もあるだろう鹿島市議が上記の様な過ちを起す。
 ここには日本社会(本当は、東アジア一帯)に根付く「法と道」という問題があります。この話をさせてくれるのなら何時間でも話しますが、思い切り要約をして話します。*5

 古代中国の人間の捉え方に「性善説」と「性悪説」があります。性善説は「人間は本来良い心を持っているのであるからお互いに判りあえる」というような立場で、性悪説は「人間はほかっておくと我儘勝手な事ばかりをする」という立場です。
 この二つの考え方から*6法と道という社会制度の設計思想が生まれます。法とは法家、道が儒教です。*7

 儒教的な、徳治主義の考え方は「人間は本来良い心を持っているからそれによって社会を築いていく」というもので、今日的に言うと「道徳的」ともいえるでしょう。

 法家の思想は「人間はほかっておくと我儘勝手な事ばかりをするので、抑制すべき事柄を罪と定義し、それに対して罰を定めこのような行為を抑制する」というものです。

 人間を「性善」と捉えるか「性悪」と考えるかは人それぞれの深い価値観に根差す事だと思う。しかし、そこから波及する法家と儒教の差異はあまり意識されない。*8

 現代の社会においては法家の思想は法定主義、罪刑法定主義として確立し、ヒトは(予め)法に定められた罰以外は受ける事がなく、法によって規制されている事柄以外は何をしても自由という立場をとっている。
 しかし個々の人間が法の定めを正確に知る事はできない。そのため、一般生活においては道徳的な社会規範*9を守れば法に触れる事はなく、法も徒に形式主義にはしらないように調整されている。*10

 漠然と考えると、人間の善を信じて理想の社会を作ろうとした儒家の思想は優れたものに思える。人の悪に着目して禁止事項だけを作る法家の社会は、最初から禁止事項を作って、社会が混乱に陥らないようにするだけで、理想の社会というものは目指していない。*11

 しかし実は儒家理想社会は恐ろしく非寛容となる。つまり社会の価値観(「=世間」)とズレを生じたものは生きていけない。儒教的、封建的社会が「村八分」などの非寛容で閉鎖的な性質を持つのは、罪刑法定主義のように、予めの禁止事項を定義できないが為に、コミュニティーに異を唱える者とは共存ができなくなってしまう為である。

 減税日本ゴヤ市議団は市会他会派と会話ができない。それは自民党公明党民主党共産党のそれぞれの価値観や利害の異なる人々と折衝、調整をするための言葉を研ぎ澄ましていないから。逆に、彼らは河村流の「言質を取られない」漠然として不確かな言葉遣いしかできない。そしてそうやって言葉をぼやかして誤魔化している間に、実は自己撞着の矛盾に陥ってしまうのである。

 鹿島市議は残念ながら上記のように正確性に欠ける。それは別に社会的な不適合を現してはいない。逆にここまで厳格に言葉の定義を求めるのは「煩い」というものだろう。しかし、こういった「煩い」人も包括していくのが地域社会なのである。

 河村たかし支援団体である「ナゴヤ庶民連」もこの因習に絡め取られている。なので価値観を異にする人々の言葉が理解できず、すぐに「リコール」であるとか「帰れコール」といった非寛容な姿勢を示すのだろう。(政治にコミットするのは諦めて、皆でバスツアーでもする趣味の会にすれば良いのに。)

 実は、因習固陋な封建社会の悪はこの理想社会を夢想した儒家の思想が生み出したものであり、その理想社会はしかし排外的で閉鎖的なものにならざるを得ない。(この思想が、江戸三百年の対外戦争のない平和な国家を生みだした)しかし、日本という国家が世界に開かれれば、様々な価値観が日本社会に上陸する。また日々の技術革新は人々に様々な価値観の揺らぎを迫る*12、それらの変化に対して社会を柔軟で開かれたものに保つ為には、この日本社会に根を張る儒教の限界を知る必要がある。


*1:本当に長いですよ

*2:20日より住田副市長と各会派の幹事長がシドニーに「姉妹都市提携マラソンの調印式」に出かけます。減税日本ゴヤは河合市議の政務調査費問題、女性同伴視察問題を受けこの旅行への参加を見合わせました。

*3:後述する「道」の考え方です。

*4:市民の皆様に正直に真実を語る党である。なんて寝言を言う以前に。

*5:細かなところは不確か、誤解し易いと承知してください。

*6:ここ思い切り議論をワープさせますが

*7:道教」と「儒教」が異なるものである事は十分承知しております。この場合の「道」とは現在の意味の道教とは異なります。・・・・以下略

*8:というか、「性悪説」を「礼」に回収した荀子が法家の起点ではない。荀子自身は儒家である・・・・以下略

*9:「他人に迷惑をかけない」「ひとの嫌がる事をしない」

*10:それでも、自分の子どもに対する「躾」はどの程度まで許容されるのか。であるとか、そういった親の体罰に対して社会はどの程度介入できるのか。といったような問題は、家族や個人の尊厳などといったテーマを含み、法も道徳も規範を築けていない。

*11:もうお判りいただけると思うが、この法と道の取り違えが「憲法に国民の義務を盛り込む」であるとか「憲法で理想の国家(というか、国体)を作る」という混乱した議論に繋がっている。法ではそもそも理想国家建設などはできない。

*12:果たして小学生に携帯電話を持たせる行為は正しいのか間違っているのか?