戦争とズワイガニ食べ放題ツアー
私はあまりテレビを見ないのだが、ある人から「リーガル・ハイ」というドラマが面白いので見て欲しいと言われ、見ている。
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こんなコンテンツも有るようですが、どういった存在かは判りません。
一時間というテレビドラマの尺に、独特のテンポとリズム感で様々な問題を戯画的に描き出して興味深い。(そりゃあ、ツッコミどころは色々とあるけれど)
この中で第9話「恩讐の村人よ…美しき故郷を取り戻せ!!」は力の入った作品で。特に33分頃からの主演、堺雅人の独白は迫力満点、出色の出来となっている。
(内容は是非、見ていただきたいので書かない)
この中で堺は「彼らは『戦争』と『ズワイガニ食べ放題ツアー』の相違がわからない」という台詞が重い意味を持つ。
この台詞は現実にも説得力を持つ言葉で、「戦争とズワイガニ食べ放題ツアー」の相違がわからない人々は多い。(参照)
今回の名古屋市会における地域委員会募集にまつわる「チラシ問題」を引き起こした減税日本ナゴヤの市議もそうであろうし、「チラシを捲くぐらい問題ないんじゃない?」とこの問題が理解できない人々も「戦争とズワイガニ食べ放題ツアー」の相違を判っていない。勿論、あまりに政治を理解していない哀れな存在、ナゴヤ庶民連などもそうであれば、その総大将の河村たかし代表自体が、実は「戦争とズワイガニ食べ放題ツアー」の相違を判っていないのだろう。そういえば、河村氏の後援会活動と言えば「バスツアー」が主流であるというのもナントモ不思議な符合かもしれない。
政治とは社会的資源の奪い合いである。減税を行うのであれば、その財源はどこかから奪ってきたのであるし、敬老パスを高齢者に配布するのも、その財源はどこかから調達している。
敬老パスの経費は、若い世代が負担する事になるわけで、それは大勢の市民の同意を得られる事だろう。減税はその所為で確実に行政が劣化しているがその影響が市民の目には見えないために議論が具体化しない。しかし、そのように広く薄く収奪した減税財源も、河村市長が言うように「学区毎に4千万円」など還付されない。何故なら、それは法人も含めての減税であるから。法人の分布は勿論、学区など関係ない。*1
政治が社会的資源の奪い合いであると言う現実に目を向けるのであれば、「戦争とは政治の一形態」という言葉の意味も理解できる。
国家間の国際政治は文化的に展開される戦争であり、それは一国内の政治でも同様である。そしてその姿は地方政治においても同じであるのであって、政治の舞台に立とうという人間は、国際政治であろうと町議会選挙であろうと、この闘争のコロシアムに自ら身を投じているのである。
「議員」という存在が、何か「偉い人」であると勘違いをして議員バッチを付ける事が、単に「名を遂げる為」であるとか「社会的地位を求めて」などという態度で通用するわけが無い。河村代表は「人生逆転のためには選挙に出る事」というような無責任な事を言っているわけだが、河村氏自身そんな態度で国政に何年も居たために、結局「誰にも相手してもらえない」という次第に至り、党の代表選挙のための推薦人すら集まらなかったのである。*2
万人に「正しい政治」など存在しない
万人に「正しい政治」など決して存在しない。政治を行えば必ず誰かが割を食う。誰がどの程度の割を食うかを決めるのが政治であるならば、そこが闘争の場になることは当然である。そして、闘争であり、他人に負担を求める事を自覚しているからこそ、政治的主張には一定のつつしみが必要となる。
誰しもが「民の竈を暖めるために減税を求める」であるとか「地域の事は地域で決めるために地域委員会を展開すべき」という主張を「正しい政治」と捉えて賛成するべきであると思い込む態度自体が視野狭窄であり、幼稚な思い上がりなのである。
「自分たちの進める政策こそが正しいのであって、それに抵抗する者は何等かの既得権なり組織的利益を専有し、それを守ろうとしているのである。そのように歪んだ抵抗勢力の政治的策謀は民主主義のために打破すべきである」とでも思っているのであれば、その世界観はデパートの屋上で展開される「仮面ナントカショー」と変わらない。
百歩譲って、この世界に「ショッカー」なる存在が居るとしても、その「ショッカー」の怪人を次々と殺し「戦闘員」を無条件に抹殺して良いとはならない筈である。その「ショッカー」とも共存の道を探るのが現代の文明化された社会である筈だ。
つまり、政治的主張をあたかも「正しい事の実現」と独善的に主張すると言う態度は、自分たちが今から押し潰そうとするする人々の存在を省みない態度なのである。
そうであれば、政治をそのように無責任に理解している人々の態度に内省は無く、つつしみもない。そして反対を表明する者に対しては容赦が無い。(自分たちが「正義」なんだから、相手は「悪」なんでしょう)
その顔は全く「ズワイガニ食べ放題ツアー」に参加している人々と同じ顔になる。
以前、私はナゴヤ庶民連に「暇つぶしならばもっと他にやる事がある」と言いましたが、その通り、政治などという事柄に(無理に)コミットせず、こういった旅行でも企画して出かけているほうが多分有意義な時間だろう。
今回の減税日本ナゴヤの問題で、思った以上に「ノルマンディー上陸大作戦」というネーミングに批判が集中している。私は単なる語呂合わせかと思ったが、相対する当事者にしてみれば「ナチス・ドイツ」に擬せられて良い感情が沸く訳もないだろう。
興味深いポイントとして(1)小選挙区の区割りを使っている(2)総務環境委員会の委員長である湯川市議が統括の位置にいる(3)6月1日というどん詰まりの日程で動こうとしている。と3ポイントを指摘しましたが、ある人と話していて4(1)も大きな問題を孕んでいるだろうと思えてきました。
つまり「区役所での状況確認」として「地域で課題が多い学区及び町の聞き取り調査を行い、この情報をもとに、区政の方と話合う材料とします。」としている。
これは市議が区役所で各地域や学区の状況を聞き取り調査して、その情報を持って当該地域の区政と話し合うという事をプランニングしている。
これは私の持つ常識とは逆、または異なる姿だ。
私の理解では、地域の問題や要望を、区役所や市役所に上げて行くのが市議と言う存在であって、区役所に上がっている地域の要望などは、そういった行政のルートとは別に、当然、把握しているのが市議なのではないのだろうか。それを「区役所での状況確認」というのは、いったいどこの誰から選出された市議なのですか?と伺いたくなる。
確かに、選挙区に禄に居住実績が無かったり、連絡所すら設置していない市議がいる減税日本ナゴヤでは、自分の選挙区であっても、その地域の状況を区役所に聞かなければ判らないのかもしれない。(地図が無ければその区役所にも行けなかったりしてね)
「脱原発」という亡国のポピュリズム
と、実はこの文章は6月15日の文章の前に書かれていた。書いたけれどもボツにした文章である。それを整理して掲載する事にした。「『戦争』と『ズワイガニ食べ放題ツアー』の相違がわからない」人々が良かれと思って「 ズワイガニ食べ放題ツアー」に参加する感覚で政治に参画する。その人々が自覚しないまま政治はしっかりと行われ、それによって圧殺される人々が居る。
そのような構図がまた一つ出来上がりつつある。
なんでも減税日本では減税の旗はいったん降ろして「増税反対」という事にするらしい。それでも有権者の反応が鈍いので、もう一つ踏み込んで「脱原発」を大きなテーマに据えるそうだ。
なんでもこれは河村たかし代表自身の意向ではなく、奥さんの河村名帆子氏の意向らしい。去年の5月に河村氏が入院した際に、病室に脱原発の本が置かれていたそうであるが、それはすべて奥さんが持ち込んだと言う。
飛びぬけているのは、減税日本は現在「脱原発」で発言を繰り返している武田邦彦氏を将来的に「市長候補」と考えて、減税日本市議や県議主催の講演会を名古屋市内で開くように号令をかけているのだそうである。
失望以前の問題だ。
武田教授と言えば、そもそもゴミ分別の問題を批判して名を上げた。名古屋市のアドバイザーとして、この自論を展開して*3高コストになっている、名古屋市のゴミ分別を緩和してくれるのかと思ったら、何もしてくれなかった。
また、確かに原子力発電については元々専門家らしいが、その原子力発電に対する問題点の指摘、見識のレベルは甚だ危うい。(北区でも講演会を行うそうなので、そういった部分を質問させてもらえないかね)(参照:余りに多いので一つ二つ例示するよりもこうした方が早いでしょう)
リコール署名の時に、「既存議会」を批判する事は容易だった。市民の大多数はその名古屋市会の実態など知りもしないまま、リコール署名を行った。リコールする事が「良い事」であるかのように思い、言い、そしてマスコミもそのように扱った。
そして今、原発に関しても「脱原発」「反原発」がまるで「良い事」とされている。
あたかもこの段階で「原発存続」を言う人々は、電力会社と何等かの関係でもあって、その利権のおこぼれでも期待しているのだろう。とでも言わんばかりだ。
ここで再度言う。「万人に正しい政治などない」「戦争と ズワイガニ食べ放題ツアー」を混同してはいけない。
正直言うと、私は消極的原発存続派だ。そして今、大都市に住んで大量の電力によって生活を支えられ、それでいて「脱原発」を叫ぶ人の身勝手さに虫唾が走る。(その人たちはつい最近まで、火力発電所の二酸化炭素排出を問題にしていなかったでしょうか?)
(あの、「おおい町」に電力消費地の大阪から「人殺し」とかといって電話をかけるような人が居るとなると、この日本の文化であるとか、教育、そして報道の有り方を見直す必要がある)
原発について「脱原発」なんて結論を出している人に聞いてみたい。その結論の根拠は?次の3層の思考を潜り抜けても、あなたはその「脱原発」を言い続けられますか?
1)何が起こったのか明確になっているか?
今、脱原発を叫ぶ根拠は、今回の東電の原発事故を受けての事でしょう。しかし、その東電の事故で何がどのように起こったのか明確になっていますか?
明確でないのに何故結論を急ぐのでしょうか。
2)本当に脱原発しなければ事故は防ぎきれなかったのか?
3.11発災直後、東北電力女川原子力発電所は、その敷地内にある体育館に周辺住民200名以上を受入れて避難所にしている。原子力発電所が震災発災直後の避難所として機能したのである。
なぜか、女川原子力発電所周辺では一番、震災に耐性を持っていたのが原子力発電所だったからでしょう。
電源喪失、その直後のアンコントロール状態。更に、そういった場合のフェールセーフ。それらの設計が、東京電力における問題であった事が幾つか出てきている。
つまり、原子力発電所の問題ではなく、東京電力の問題では無かったのか?
3)本当に脱原発はできるか?
ダチョウと言うのは砂嵐がやってくると、頭だけを土に埋めて砂嵐をやり過ごすと言う。一説には目や鼻だけを守ればよいと言う事でこういう姿になるようだが、それでも砂嵐という危機が近づいたときに、頭だけを隠すという姿は戯画的だ。
今現在の日本国内の「脱原発」を主張する人々は全てこのダチョウと同じだ。
サーチナ-searchina.net
これは中国の原子力発電所の運転中から計画中までの分布図である。
日本国内が「脱原発」しても日本人は「脱原発」などできはしない。
最もばかげているのが大阪の橋下市長がいうような「必要最低限の稼動」だ。
発生リスクと便益を考えた場合、必要最低限の稼動であれ、レギュラーな稼動であれリスクは同等で、便益は大きく違う。
そして、今、日本国内だけが(ダチョウの如く)「脱原発」すれば、日本は原発からの便益は受けないまま、リスクだけは背負い込んだままだ。
これでも「脱原発」を言い立てるのだろうか?
その論理的な理由は?
今というタイミングで、良く判りもしないまま(つまり、武田教授の話に頷いてしまうような状態で)「脱原発」の声を糾合して( ズワイガニ食べ放題ツアーを募集するように)参加者を募り、そういった「市民の声」を「民意」として支持を得ようとするのだとしたら、それはポピュリズムだ。それも飛び切りの。国を危うくする「亡国のポピュリスト」だ。
もうこんな「亡国のポピュリスト」河村たかしの口車に乗せられてはいけない。
追記:
書き漏らしていました。これを見れば、河村市長が市長として市民の被曝をどの程度本当に心配しているか判るでしょう。
何故、昨年9月に滋賀県が独自に作ることができた「ハザードマップ」を河村市長は一年以上も作れなかったのでしょうか?