市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

3つの思いついた事

 今日は3つの思いついた事を書かせていただきます。
 一つ目は比較的短い「警句」っぽい話しで。
 二つ目は先日お話した、橋下氏のやっている事、支援する人々のメンタリティの奥に、「デスノート」的な、社会を平板に捉える現代の病理があるとした論考で、語り損ねたもう一つの面について。功利的社会認識、設計主義の限界と言うところまで届けばしめたもの。
 三つ目は「サブカルチャーの右転び問題」といわれる物についての自分なりの理解をノートの代わりに整理してみます。

「信じる」とは

 ひとは自分が信じたいことを信じる。

 信じるに足ることではなく、信じたいことを信じる。

― 人間が信じていることのその多くは、よくよく追求してみると、信じるに足る根拠があるから信じているわけではなく、そう信じた方が楽だったり、便利だったり、またはそうやって信じたいと思ったから信じているにすぎない。

― 落ち着いて考えてみれば、学校で教育を受けるときも、何故そう信じろと言うのか、その根拠など示されるものは限られていた。ただ教師の言うように信じていれば、成績は保障され、親からも承認を受けられた。逆に、それに疑問を持てば一方的に間違いと決め付けられ、周りからも否定された。そしてその根拠など示される事はまれなのに。
 こうやって教師や親、年長者、目上の人々の言うことに対して、いつしか無批判に受け入れるという習慣を身に付けるようになる。それは、その方が「楽」だから。

 確かに、そうやって「授けられる」知識の大部分は間違いがない。この社会や世界を理解するに、整合性が取れている理解である。そういった成功体験がまた、それらの者から受けとめる情報に対する自己評価を甘くする。

 そして、信じたいような事を言う人の言葉を信じる。

 ― 人間は総じて「偏見」を持っている。それは何も身分やら血縁と言った社会学的な意味での「偏見」ではない。美醜であるとか好悪といった感覚的な判断基準だ。ひとは誰しもこういった一定の判断基準に左右される。この判断基準を乗り越えるのは中々難儀な作業だ「偏見」を持っていると自覚した方がよろしい。
 一日生活すれば、様々な言葉が目や耳に飛び込んでくる。ひとはこの様々な言葉の中から、注意を惹く様な言葉を選別して、更にそこから自分の感覚に合う言葉を受入れる。

 信用できる人の言葉を信じるのではなくて、
 最初から、自分が信じたいような事を信じ、
 そのような事を言ってくれる人を信用するのである。

 この逆ではない。

― この逆とは「様々な事柄をニュートラルに受け止めて、一つ一つに判断を行い、真偽を判定する」こんな面倒な事は誰もやっていない。
 また「信用できる人」というのは「嘘を言わない人」やら「事実に即した事を言う人」ではない(逆にそういう人は疎まれて、「信用できる人」に分類される機会が少ないようにすら思える)
 聞き手の耳に優しい言葉、その人がそう言って欲しいであろう言葉を口にするものの言葉が受入れられて、そうやって受入れられていくうちに「信用できる人」という関係性が出来上がる。つまり、それは「信用できる人が本当に信用できる根拠」という観点で言うと、実は何も無い。

バトルロワイヤル系

 先日の「デスノート」を援用した橋下市長についての論考で、Wikipedia に非常に手ごろな批評が載っていたので引用させていただいたが、もう一つ気になった批評があった。

セカイ系ではなくサヴァイヴ感を前面に押し出した「バトルロワイヤル系」ともいう新しい想像力が台頭しているとし、その代表例・到達点として本作を挙げている。そして、本作は夜神月の思想を肯定するような作品ではなく、夜神月の自信過剰・誇大妄想的な正義感は戯画的に描かれているのだとした上で、冷静に考えれば幼稚でしかない夜神月の思想も、現代のバトルロワイヤル的状況下で政治的な勝利をあげればそれが魅力的に見えてしまうということを露悪的に示す作品であると述べている。
(宇野常寛ゼロ年代の想像力早川書房、2008年 :Wikipedia の記述を孫引き、原典には当たっていない)

 この「現代のバトルロワイヤル的状況下」と言うのが何か。勿論、映画にもなった「バトルロワイヤル」を指しているのだろうと思われるけれども。あの物語がホッブスのいう「万人の万人に対する闘争」を戯画化したものであることは疑いをいれない。
 あの物語は酸鼻を極めているが。このような物語の登場人物総出で行われる「知恵くらべ」的な物語は特にこのところ多い。マンガや映画などでは福本伸行氏の「カイジ」や「アカギ」などの一連の作品群がそれに当たるであろうし、テレビドラマ、「トリック」や「ケイゾク」もその系統に属する(なにぶん、テレビを余り見ないのでこの辺りの情報の古さはご容赦願いたい)(と、助け舟が入って、「ライアーゲーム」というのもこの系統で、ドラマがそこそこうけて映画化もされているそうである)

 これらの物語に共通するのは、独特のルールが支配する激烈な争奪戦に、主人公が投げ込まれて、右往左往するうちにルールに秘められた「裏技」などを見つけて勝利を収めると言うようなものだろう。つまり、物語の中の登場人物と同時に読者や視聴者もこれらのルールや設定に秘められた謎解きに参加できるというゲーム性の高い物語と言える。

 こういった「知恵比べ」の物語というのは、登場人物の間での「出し抜きあい」の様相を呈して、争奪戦が殺伐としていく中で嘘と策略が錯綜するようになってくる。そして最後は「人間性」を再発見して終了するというようなつくりになっていると思うのだけれども、どうもこういった物語が訴えたい「人間性」的なものは脇において、知恵比べや争奪戦に参加しようという人は多いように思われる。

 「サヴァイヴ感を前面に押し出した『バトルロワイヤル系』ともいう新しい想像力が台頭している」というのは自由競争に信頼を置く新自由主義の主張であろうし、そこで敗北していく者に対して「自己責任」という言葉を投げかける者たちの態度は将にこれだろう。

 こういった新自由主義的社会風潮を背景に「現代のバトルロワイヤル的状況下で政治的な勝利をあげればそれが魅力的に見えてしまう」のが今の橋下市長の姿に見える。

 新自由主義の流れは、TPPに代表されるようにグローバル経済における競争も肯定する。日本もこのグローバル経済において自由競争に打って出るべしと非常に威勢が良い。
 この背景には、はるか20年以上前の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれた、製造業における日本の優位性を、今に至るも信じている人々の誤解が根底にある。

 どういうことかというと。あの当時には確かに日本の製造業には米国や欧州、さらには東南アジアに対する競争優位があった。それは戦後の焼け野原から営々と積み重ね、デミング博士などのノウハウも貪欲に吸収した、日本の労働者の勤勉さが築き上げた優位性であった。
 しかし、現代のグローバル経済における競争はこれらとは様相を異にしている。
 最近でも「富士重工の軽自動車からの撤退」であるとか「エルピーダメモリーの破綻」などの経済ニュースもあったように、ただ営々とモノを作り続け、そのノウハウを積み重ねても企業は潰れてしまうのである。現代のグローバル経済を支配するのはウォールストリートに代表される金融資本の論理であり、そこで評価されるのは唯一「利回り」だけなのである。

 実は新自由主義を(元気一杯)標榜する政治家というのは実は、こういった市場で商売というものをしたことがないのではないだろうか。
 橋下氏は弁護士だし、河村氏は法律学校に通っていた何にもセンムだったにすぎない(勝手に価格競争を起そうとして父親に仕事を取上げられた)
2012-02-14 - ▼CLick for Anti War 最新メモ

 こちらにすばらしい論考がある。
 「企業は『競争しないこと』で成功する」とは全くその通りで、河村氏が言うように価格競争(プライスレース)を言い立てる経営者なんてのは下の下と言って良い。(経営戦略上、「安売り」と言っている企業でも、じっくりと見てみればちゃんと収益源は確保されている)

 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれた頃は、自家用車においても米国や欧州の車と、日本の車では着目点が違ったのではないだろうか。米国の車が安いガソリン価格を頼って大排気量に走り、欧州車もいたずらに内装や居住性に着目していた時に、日本車は省エネであったり、小さくても高出力のエンジン(高回転に耐えるホンダやマツダのエンジン)など。その後の石油価格上昇を受けて市場を独占する優位性を持っていた。また、テレビなどは既に米国では製造ラインが無かった。

 製造業においては製品間の競争は様々な形で展開できる。機能、デザイン、訴求購買層などなど。一つのフィールドで敗退しても別のフィールドで巻き返しを図る事もできる。
 ちょうど、パソコン市場で劣勢に立たされたマッキントッシュiPadiPhone という製品展開で市場を獲得したように。

 しかし今となっては広範な産業が金融資本の傘下に組み込まれている。

 ここでは激烈な価格競争が起きる。(そして、これがまたデフレ経済を加速させる)
 価格競争はやがて企業の脱落を生む。
 こうして一つの産業分野が寡占化し、
 やがては独占化する。

 そして、独占化した途端に、価格は上がり品質は劣化する。
 つまり、競争が無くなったために「後はやり放題」となる。

 これが新自由主義的な社会の「オチ」だ。

 大抵のバトルロワイヤル的物語世界においては、小賢しく立ち回る三枚目が、ひとを出し抜いたような顔をして途中で優位に立つが、最後にはどんでん返しを食らう。

 私には本質を外した橋下氏や河村氏が、こういった小賢しく立ち回る三枚目にしか見えないのですよね。彼等は「敵」を作って「勝っている」気になっているみたいですが、その実あちこちで負けてもいますし。
 そして、自分が勝った場合には、負けた相手に「自己責任」と平気で切り捨ててきましたが、自分が負けたときには非常に見苦しく負けを認めない。または、勝負そのものが無かったかのように振舞う。とてもフェアではない。

 まあ、これも「自由競争」なんですけどね。つまり、「新自由主義」における競争は、「自由競争」であって、「公正な競争」ではない。ルールすら一方が勝手に変更できる「自由な競争」なのです。

  おっと、「設計主義」については語り損ねた。上念司氏なんぞも俎上に上る話なんですが、また今度の機会と言うことにしておきましょう。

サブカルチャーの右転び問題

 これは中島岳志さんの作られた言葉のようです。

 つまり、今の若者文化やストリートカルチャーといわれるものが、非常に右翼がかっている。例えば、米国におけるヒップホップなんていうと、やはり抑圧されたマイノリティーが現代の社会や政治に対して異論を唱えることから生まれているのだろうし、若者文化というのは元来、こういった既存の文化や国家といった様な権威に対して否定していくものだった筈で、それが日本のヒップホップでは国家を称揚するものまで出てきている。

 中島岳志さんはこういった文化について、俳優の窪塚洋介さんやら高岡蒼甫さんの仕事や発言、記述などを追って、若者がなぜ右傾化するのか。サブカルチャーはなぜ「右転び」するのか。を探っています。(中島岳志さんは橋下市長批判者の一人で、同じ北大という事で山口二郎さんと関係があるように思っている人が居るようですが、全然違いますね。どちらかというと西部邁氏に近い「保守主義者」で、そういう意味では山口さんとは 真逆です。中島さんはご自分を「リベラル保守」と定義されているようです)

 そもそもややこしいのですが。保守と右翼は違いますし。更に資本主義と親米派というのもあります。民族派という立場もありますし国粋主義もあります。所謂「自分はなんとなく保守だと思うんですよね」と言っている若者の内、たいてい話を聞くと単なる「右翼」であることが多く、「保守」に分類できるような人に遭った事はありません。民族派やら国粋主義者というのも、自称は多いですけど実態的に根付いている人はまず居ませんね。

 簡単にザザッと述べますが。上で言うように若者文化というのは既存の価値観やら、「大人の文化」を否定する事から発生します。そしてこれは健全な事でもあると思うのです。そして、今の若者の右傾化も、こういった「大人の文化」の否定の結果と看做せます。
 つまり、戦後民主主義というものは東京裁判極東軍事裁判)によって米国から押し付けられたものであって、この民主主義と平和主義の中で「本当の日本」は見失われている。「本当の日本」が見失われている今の社会で、自分も承認されていない、「本当の自分」も見失われている。

 自分は、この戦後民主主義、米国追従主義、一国平和主義の世の中をぶち壊して、「本当の日本」と「本当の自分」を取り戻さなければならない。天皇陛下万歳

 とまあ、こんな感じになっているんでしょうね。
 で、戦後民主主義の象徴が、あるいは戦後教育であったり、日教組であったりね。

 面白いのが、「打倒日教組!」といっていた若者が居たので、さぞや組合が強い学校に通っていたのだろうかと思って聞いたら、この人は「学校の先生は全部日教組に入っているんだろう?」と「日教組」の実態は知りませんでした。

 例えば、あなたの周りでも「日教組教育反対」とか言っている人が居たら、「どういうものが日教組教育なんですか?」とか「日教組の教師になにか変な事教わったの?」と聞いていただくと、高い確率で実態的に日教組と遭遇していない事が多いです。
(というか、そもそも「日教組の教師」というのも、そろそろ絶滅危惧種っぽくなっていますでしょ)

 では「サブカルチャーの右転び」や「若者の右傾化」の何が問題かということなんですが。所謂「伝統文化」に対する変な愛着と、無理解が混在化するために却って伝統文化を壊すという事になっていると思います。これなど、明治神宮をでっち上げて、神道世界を混乱させた維新明治政府に近いメンタリティがあると思います。(司馬遼太郎は「鬼胎」と呼びました。)
 なぜか日本の右翼勢力というのは伝統文化を大切にするあまり、それを逆に壊す傾向がある(これは、欧米における右翼反動勢力にも言えることか)

 そして、「若者文化というのは既存の価値観やら、「大人の文化」を否定する事から発生します。そしてこれは健全な事でもあると思う」と言ったように。文化というのは世代ごとに、破壊と再構築を繰り返していく中で、強度を持っていくと思うんですよね。

 ところが右傾化した若者はこういった批判精神を失っていくのです。

 これは本当に不健全な事です。

 少なくとも、保守を言うのであれば、渡部昇一とか西尾幹二とかが何を言ってきたかぐらい自分の頭で評価して欲しいものだ。(それでも評価できるなら何も言えない)

 そして、石原慎太郎程度なら、三島由紀夫がなんと言っていたか。
 少なくとも、これぐらいの作業はしてからでないと、恥ずかしくて保守とは言っていられないでしょう。それと、四書五経ぐらいは読まないとね。