市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

幼稚な新自由主義に対する論考

 本日は新自由主義の誤り。特に「引下げデモクラシー」の誤りを指摘して。

 新自由主義者が、何故か勘違いしているような経済における「奪い合いの競争」の誤りも指摘しておきます。

 それと「河村塾」が示す河村市長の論理的矛盾を指摘します。
 (正直言って、800円でも高いですよ。こんなものに参加していたとあっては、人生の汚点でしょう)

追記:「河村塾」の受講料が800円だった。

 最後に、「自己責任」という言葉についてツイッターに流した言葉をまとめてみます。

追記:当初「幼稚な新自由市議に対する論考」というタイトルでした。
これは、「〜新自由主義に対する〜」のタイポです。

内田樹氏の発言

 橋下徹元府知事が仕掛けた大阪のダブル選挙の結果について、評論家で神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏は、12月9日発売の「週刊金曜日」にコメントを寄せているそうだ。
橋下徹氏を勝たせた「弱者」の心理-内田樹氏に聞く(12日の日記) | より良い明日をめざして - 楽天ブログ

 この中で、今の社会には「社会格差の拡大」「雇用環境の劣化」「消費の冷え込み」などが見られ「社会に元気がない」「閉塞感が覆っている」という漠然とした不満が鬱積していると認識している。

 そして、人々は「とにかく早く、劇的な変化を」政治や社会に求めている。

 そのような中で橋下氏の行動は、「特権にあぐらをかいていた既得権益の受益者」と断じる市職員や教員たちから、その「特権」なるものを奪い、右往左往するさまを見る「嗜虐的な愉楽」を提供してくれるものとして映った。*1

 市民にとって「自分には何か利得が約束されているわけではないが、誰かが利得を奪われることは確実である」という悲しい構図である。

引下げデモクラシー

 これは恐ろしい考え方である。利己主義に根ざして他人から奪うというのであれば、争奪であり(参加したくは無いが)まだ理解できる。しかし、ここに描かれているのはそれですらない。自分に得があるか無いかすら不明なまま、他者の利得を奪うという、幼稚で、凶暴な行為である。
 けれども大阪における市長選、そして名古屋におけるリコール署名から、トリプル選挙と市議選・県議選に至るこの橋下市政、河村市政を見ていくと、橋下氏や河村氏を支援した新自由主義的な志向の人々の心情は、そうではないとは否定できない。

 このように、自分が得になるか損になるか判らないが、とにかく他者の得を奪って、低いところで均衡を図ってやろうというような考え方を中島岳志は「引下げデモクラシー」と名付けた*2が、このような考え方が蔓延した社会が健全であろう筈はない。

蜘蛛の糸

 デフレ経済下で行政歳出を削減するというのは全く誤った経済理論であって、財政出動してでも歳出は拡大させるべきである。余剰の需要供給を吸収してデフレギャップを埋める必要がある。
 公務員給与を下げるぐらいなら、民間企業の給与水準を上げさせるべきだし、文化事業だろうと、土木事業だろうと公共支出を拡大して経済のサイズを大きくしていく必要がある。そうしないとデフレ経済は解消できない。
 公共セクタの歳出、文化事業への援助、公務員給与。これらのものを削減すれば、そのお金が民間セクタのお金に回るという事はない。民間給与が上がると言うこともない。それどころか確実に経済は縮小する。

 他人を引き摺り下ろし、蹴り落としている間に、自分自身も落ちていく。

 まるで芥川描くところの「蜘蛛の糸」にすがるカンダタではないか。

なぜ誤解をするか

 なぜ、新自由主義、自由競争原理主義者は公共セクタの支出を減らせば、民間セクタのお金が増えるような誤解お金が増えるかのような誤解をしてしまうのだろうか。

 それは、彼らが「奪い合いの競争」に慣れているからではないだろうか。

 自由競争原理主義者にとって、この社会とは「奪い合いの競争社会」と思いこんでしまっているのではないだろうか、

 受験戦争や就職競争といった、予め席の数が決まっているような事柄においては、確かに競争は「奪い合いの競争」になる。このルールのもとでは他人(ひと)を蹴落としてでも自分が勝ちあがらなければならないだろう。しかし、社会の仕組みにおいて、このようなルールになっている部分はほんの一部なのだ。

  彼等の理解とは別に、社会はこのような奪い合いのゼロサムゲームにはなってはいない。

 経済は循環であり、公共セクタの支出が増えれば経済循環も大きくなる。

 公務員給与を下げても民間給与は上がらない。経済は新自由主義者が考えるような「奪い合い」ではない。公的セクタと民間セクタがトレードオフの関係はなっていない。公的セクタと民間セクタがトレードオフの関係にはなっていない。

長い箸の話

 この話をつらつらと考えている時に「天国と地獄の長い箸」という逸話を思い出した。これは宗教逸話のような体裁をとっているが、どうも宗教逸話ではない。ましてや儒教の話であるわけが無い(孔子が天国や地獄の話をするわけが無い) 簡単にこの逸話の話をしておくと。

 ある人が地獄と天国を見物できる機会を得た。最初案内されたのが地獄だった。地獄と聞いてさぞかし凄惨な場所だろうと想像していたら、そこにはテーブル一杯に食物が並べられていた。それでいて地獄に落とされた人々はガリガリに痩せ細っていたのである。これはどうしたことかと思って見ていると、地獄に落とされた人々はこの食事を長い箸を使って食べるようにされている。
 目の前には豊富な食べ物があるのに、地獄の亡者たちは長い箸でこれらの食べ物を口に運ぶことができない。箸が長すぎて箸先が口に届かないのだ。
 箸先から滑り落ちた食物は砂に変わり、あまりの飢えに手づかみで食べようとすると、その食物も砂に変わってしまう。
 地獄の亡者は幾ら飢えても目の前の食事を口にすることはできない。やがて飢えと怒りに亡者は泣き叫び、暴れまわる。暴れまわれば食品は全て砂に変わってしまう。

 見学者はあさましい事と、目を伏せた。

 今度は天国に連れてこられた。天国でも豊富な食品がテーブルに一杯積上げられている。そして、ここでも地獄と同じように長い箸が置かれている。見学者はこれでは地獄と同じではないかと奇異に感じながらも見ていると、天国の住人はその箸をつかって食品を取ると、自分の口には運ばずに、隣の人間の口に食品を運んでいく。皆、そのように長い箸を使ってお互いに食品を口に運んでいるので、天国の住人は思うまま食事をすることができる。自分の事ばかり考えて奪い合った地獄の亡者は、結果として食事が得られず、自分の事よりもまず、利他の心を忘れなかった天国の住民はお互いに満足を与え合うことができる。
 このような話になっている。

 この話で重要なのは、天国と地獄を現出させる要因が、その住人が支配されるルールの設計(箸の使い方)と、そのルールを形成する考え方(利己主義か利他主義か)だけに拠っているということだ。

 そもそも群生、共棲を サルや、その前の地ネズミの頃からやってきている哺乳類・人類は、利他的な社会、利他的な態度に様々な仕組みが適合している。そこに、短絡的で幼稚な新自由主義、競争原理はそぐわない。

 短期的には上手く行くように見えるかもしれないが、そのような社会は長くは続かない。人間のあり方を無視しているからだ。

 ※「経済は拡大可能である」というと、資源は有限ではないかという反論を聞く。確かに、その側面はある。だからといって「奪い合い」に参加して必要以上に収奪するのが正しい姿だろうか。
 そもそも資源は有限であるのは間違いないが、決定的に不足はしていないだろう。
 そして、必要なのは「奪い合い」ではなく、知恵のある分配だろう。

 更に、経済は常には資源を基底としない。
 医療・社会保障と言った分野、更には情報処理や芸能・エンターテインメントといった分野は「高付加価値」または「ほとんど、原料を使わない産業」であることは疑いをいれない。

 実は、もっとも心配される「食料資源」にしても、いつまでも幻想の外需を追いかけるのを止めて、勇気ある内需に目を向ければ、大胆な産業を興し、そして大幅な打開策を打ち立てることも可能なんだけれど、とてもではないがこの紙幅では書ききれない。

素人のボランティア議員は実現可能なのか?

 橋下大阪市長の「維新塾」に呼応するように(というか、真似て)河村市長も政治塾を開いている。名古屋市からしてみると、東京まで出かけていって政治塾を開く暇があるのなら、名古屋市の市議たちを教育して欲しいものだが。

 河村塾なんぞ受ける方もどうにかしている。今の減税日本の状況を見てみれば、河村市長に人材育成能力が無いことは明白だし、河村氏の著書を20ページも読めば、政策的に何も学ぶべき事など無いことは直ぐに底が割れる。

 河村塾という存在自体が河村氏の理論が矛盾、破綻しているという証でもある。なんとなれば、河村塾の存在は「政治を志すものは予め専門的な知識が必要である」と言う、世間の常識を肯定するものであるからだ。
 この世間の常識を否定して「素人でじゅうぶん」と言っていたのが河村市長だったのではないのか。

 また、報道によると減税日本ゴヤに「アドバイザー」を付けるともいう。議員が一年や二年ではモノにはならない、「アドバイザー」が必要だと言うのであれば、これも今まで河村氏が言って来た事と矛盾する。

 つまり、河村氏は「市議は素人がボランティアでやって、2期8年程度で入れ替わるのが良い」と言ってきたのではないか。

 しかし、実際には素人ではやりきれないから、専門的な知識を教える塾が必要なのだろうし、2期8年の内、一年や二年は勉強の期間と言うのであれば、今後議員のマンパワーの内、4分の一や8分の一はムダになると言っているに等しい。

 効率を求めた議会改革とはえらくかけ離れた結論ではないか。

自己責任に担保された自由などない

 「自己責任」という言葉に違和感を感じたのは「イラク人質事件」の時だった。あれが2004年なので、すでに8年前になる。
 そもそも「自己責任」というのは、それを言う人自身の「責任回避」の響きがあった。利害関係があって、責任を追及されそうな時や、選択の自由を与えて、その結果責任について使われるのが「自己責任」という言葉であったはずだ。ところが「イラク人質事件」においては、そもそも責任主体でもない、利害関係も無い筈の第三者である一般市民が、人質になった人々に「自己責任」という言葉を投げつけていたわけだ。無視をするのならわかる、しかしなぜ、それほどまでに攻撃的に批判をするのかが判らなかった。

 しばらく観察して判った事は「イラク人質事件」で人質たちを批判していた人々こそが、自分自身が社会から「割を食っている」という疎外感を抱えていたのではないかということである。彼らの中に不公平感が鬱積していて、そこに「人質」として手厚い保護を受ける対象が現れた。その事が許せない。といった心情があったのかと思える。

 つまり「奴らを保護するぐらいなら、俺を保護してくれ」と言いたかったのではないか。

 どうも、「自己責任」という言葉は、このように非常に底の浅い言葉なのだろう。

 選択の自由、あらゆる事柄に対して「自己責任」の名の下に自由を与えるという考え方もあるだろう。しかし、「自己責任」だからといって全ての事柄が許されるわけではないのは明白だ。

 死をもって償っても許されざる罪もあるのだから。


*1:こういった愉楽がテレビや新聞、雑誌などのメディアで受けることは間違いない。メディアが人々に「嗜虐的な愉楽」を撒き散らしかねない危険性を指摘しておきたいし、その自覚を失ったメディアはメディアである資格はない。

*2:命名丸山眞男に遡るようだ。