市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

保守と右翼

保守とは、右翼とは

 本日は自分でもビックリの会合に出てきました。「新しい歴史教科書を作る会」の会合です。実は、数年前*1。今の様に巨大な組織になる前の*2会合に。私は参加しています。その時には特に公職者も居たか居なかったか。30人程度の参加者だったと思います。

 今日の会場はホテル(あの!アパ・ホテル)で、公職者も参加して、大勢の方が参加してみえました。*3

 こういう会合に行くと、最近では君が代も歌うのでしょうが、私はこういった馴致に慣れる事ができません。つまり、私の心のどこかでこういった「右翼的体裁を施した集団」に対して、違和感を感じざるを得ないのです。

 今年も大阪においては卒業式の場における国旗・国歌の問題が取上げられました。
 私はこういった場で、国旗・国歌を強制する事には違和感があります。
 あの、三島由紀夫もこういった強制を唾棄すべきものと定義していましたし、最近では一水会鈴木邦男氏も次の様に語っています。

 しかし、不思議だね。国旗・国歌が法制化された時「これは強制するものではありません」と政府や(当時の)文部省は言っていた。つまり、「日本の旗は日の丸ですよ。日本の歌は君が代ですよ」と確認するだけだ、と言っていた。しかし、法律を作ると、急にそれを拡大解釈しようとする人が出る。

 「じゃあ、国旗・国歌にふさわしい扱いをしよう」 「じゃあ、公立の中学・高校では生徒に歌わせよう」となる。さらには、「全員で歌った方がいい」となる。全員が立ち上がり、全員が口を開けて歌う。そこに「統一美」を感じるんでしょうな。また、それが「愛国心」だと錯覚する。いかんですな。

 さらに、「歌わない人間は困る」 「処分しろ」という発想になる。いやいや立っても「歌ってないじゃないか」と責める人がいる。「あら探し」が始まる。都内の高校で本当にあった話で、「実際に口を開けて歌っているかどうか」を写真に撮って歩いている人間がいるという。教育委員会や保守派の議員だ。やだね。法律ができるとこんな人間が出てくる。でも、写真を撮っている人間は少なくとも歌っていない。じゃあ、そいつが一番「君が代」を侮辱している「国賊」だよ。違いますかね。

 さらに「口を開いて、歌っているフリだけしている人間がいる。だから、本当に声を出しているかどうかを調べよう」という人もいる。つまり、音声を計るわけだ。いやだね。よくこんなことを考えつくもんだ。

 これじゃあ、君が代がかわいそうだ。ただ「強制」の道具にされているだけだ。左翼教師や「内心の自由」を持った教師を苛めるための道具にされている。「国歌」として大事にされていない。尊重されていない。まるで「拷問の道具」だよ。「踏み絵」だよ。

愛国者の座標軸

愛国者の座標軸

 こういった鈴木さんの主張を受けて「鈴木邦男は右翼ではない」という人も居るが、彼は間違いなく右翼だ。

 例えばお伺いしたい。あなたは右翼ですか?右翼を定義する基準は何ですか?
 あなたはご自分が保守だと思われますか?保守の条件とは何ですか?

 国旗・国歌を守って、愛国心に溢れているあなたは、右翼なのでしょうか、保守なのでしょうか。この問いかけに答えられますでしょうか?

再論、 サブカルチャーの右転び問題

 ここで、少し話題を変えましょう。

 以前「サブカルチャーの右転び問題」という文章を書きました。

 ざっくり再論すると。

 若者文化というのは既存の価値観やら「大人の文化」を否定する事から発生します。自分よりも前の世代の超克という事になるのでしょうか。今よりも前の世代の文化といえば戦後民主主義と、それに密接に関連する平和主義といえると思います。
 戦後民主主義東京裁判によって米国から押し付けられたものであって、この民主主義と平和主義の中で「本当の日本」は見失われている。「本当の日本」が見失われている今の社会で、自分もまた承認されていない。「本当の自分」も見失われている。

 自分はこの戦後民主主義、米国追従主義、一国平和主義の世の中をぶち壊して「本当の日本」と「本当の自分」を取り戻さなければならない。天皇陛下万歳

 このような陥穽に陥って、自己を愛国者や右翼と規程した若者は、しかし悲しい事に「本当の日本」に辿り着けるとは思えません。
 特に、こういった心性から排外主義に走り、他国に対して排斥の思想を振り回す事は「本当の日本」からは程遠い事です。しかし、なぜ「右転び」した若者が、右翼の中でも(実は特異な)国粋主義に傾注するか判る気がします。なぜなら、そもそも「右転び」の動機自体が「戦後民主主義」への反発であったり、「平和主義」への反発でしかなかったからです。
 つまり、何等かの確かなモノに対する反発でしかないのです。ですから、他国に対して反発する事でしか自国(=日本)を定義できませんし、日本とは何かと聞いてみても、そうやって排外的に「日本以外」を否定していって日本を再発見するしかないのでしょう。

 ここで、慌てて注記しておきますが「右翼=国粋主義」なんて図式はありませんからね。右翼であれば日本の国柄、伝統文化を尊重するように、他国における国柄、伝統文化を尊重するという姿勢があったり。「五族共栄」「八紘一宇」という言葉があるように、日本の国柄、伝統文化に取り込もうとする理論すらあったのですから。これは排外主義の全く逆でしょう。*4

右翼とは何か

 右翼とは何かという問いかけに中島岳志さんが次のように応えて見えます。

 右翼は基本的に人間の理性による合理主義を信用しません。例えば、日本右翼の源流である国学では「大和心(やまとごころ)」と「漢意(からごころ)」を区別し、人間の理知的な側面によって政治的支配を確立しようとする発想を中国の考え(= 漢意)として批判しました。
 右翼の考えでは、日本というのは統治者と国民が神意に従って一体化した世界です。日本人であれば、みんなが神への敬意と畏怖の念をもち、神々の心に触れ合うことができる「大和心」をもっていると考えました。つまり、右翼の人たちは、理性的な計らいを放棄し、神々との一体化を体得する純真な「大和心」を共有することで、理想社会はおのずと成立すると考えたのです。(中島岳志著「保守のヒント」より)

保守のヒント

保守のヒント

 以前、ある方と論争をした事があったのですが、その時に行き着いた一つの答えがこれで、その時には「右翼とは確信である」とか「覚悟である」と表現していましたね。

 つまり、「天皇」を中心*5とした「かんながらのみち」に立つ者が「右翼」であり、これはもはや宗教的確信であって、主観的であり、他者や外部から促したり強制などできるものではない。*6

 右翼から見ると、その確信もないものに君が代を強制的に歌わせたり、尊重する心もないものに日の丸を仰ぎ見るように強制する事は異様な拷問にしか見えない。それよりも、そんな事に「使われる」君が代や日の丸がかわいそうだ。という事になる。鈴木邦男さんが右翼としての確信があるからこそこういった言葉になるのです。

保守とは何か

 左派と右派という区分けがされます。
 元々はフランス革命時の国民議会において、左側に革新派が座り、右側に保守派が座った事からこの名が付けられ、日本などにおいても55年体制では社会党共産党といった「革新野党」が左派、自由民主党が右派と言われたものでした。
 しかし、自由民主党は自主憲法制定を党是に掲げるという意味では革新であり、逆に「憲法護持」を掲げた社会党は保守なのではないかといったような議論もありました。
 今は、もっとややこしく、民主党の中に「スーパーライト*7」と呼ばれるような人が居たり、自由民主党の中に社民主義的な公共政策論者が居たりします。(ぶっちゃけて言ってしまえば、選挙区事情が大きいように思います)

 中島岳志さんの切り分けは非常にシンプルで有用だろうと思います。
 彼が見るに「人間の理性によってよき社会を作る事ができる」と考えるのが左派であろうというのです。この理性の根拠が「マルクス・レーニン主義」であれば共産主義と言う事になるのでしょうし。ロールズや最近流行のマイケル・サンデルなどの共同体主義コミュニタリアニズム)や社会民主主義なども人間の理性の働きを民主的に集約して、よき社会を作る事ができるという立場です。

 では、右派とは何か。

 左派が前提とする「理性」を疑うところに、右派の人間観があります。人間の理性はどうしても不完全なものなので、理知的な努力によって平等な理想社会を作ることなんてできない(略)
 右派は人間の理性の万能性を疑っているわけですから、当然、世界全体を理性的に捉えきることなんてできないと考えています。「世界の未規定性」というものを認め、人知を超えたものへの畏怖の念を共有します(略)
 共産主義は、究極の理性主義ですね。別の言い方をすれば、合理主義に基づく「設計主義」が思想の根本のところにあります。人間の(特にエリートの)力によって素晴らしい世界を作ることができるんだという強い自負心が、その思想の根底にはあります。
 右派は、その発想そのものを否定します。(中島岳志前掲書より)

 人間自身の不完全性の自覚が右派の前提です*8。ここから人間の「計らい」を「意」*9として排除し「大和心(やまとごころ)」「大御心(おおみごころ)」に依拠するのが右翼です。

 保守は(略)長年の歴史の中で蓄積されてきた社会的経験知や良識、伝統といった「人智を超えたもの」を重視します。歴史の風雪に耐え、多くの人の経験が凝縮された社会秩序に含まれる潜在的英知を大切にしようとするわけです。(略)
 この立場は、「過去に戻ればすべてうまくいく」といったような「復古」でもなく、「今のまま、何も変えなくてもよい」という「反動」でもありません。なぜなら、人間が普遍的に不完全である以上、過去の社会も不完全であり、また現在の社会も不完全であるからです。(略)
 保守は、過去を単純に理想化する立場でも、一切の制度改革を拒絶する立場でもありません。「革命」のような極端な改造には、「社会を一気に理想形態に作り変えることができる」という理性の驕り・過信が含まれているため、それを厳しく批判しますが、時代の変化に応じた斬新的改革には積極的に取り組もうとします。
 (中島岳志前掲書より)

 つまり、理性の不完全を伝統や経験知によって補おうとする態度が「保守」のあるべき姿なのでしょう。謙虚に歴史に学び。深く人間を理解しようとする姿とも言えます。

 こういった保守主義者が「新自由主義」を批判的に捉えるのは、新自由主義の「設計主義」と急進的な「構造改革」に懐疑的だからです。*10 *11

 さて、というわけで。
 「歴史教科書」を変えることは「はからい」で「設計主義」ではありませんか?

 まあ、そもそも中学校や高校の歴史教科においては、せいぜい19世紀か明治期までしか教えないでしょうから、ど〜でも良いですけどね。

 更に、上で言ったように、若者は常に前の世代への反発を持ちます。
 今、戦後民主主義がスタンダードになった教育現場によって若者が右傾化したように、強い「運動体」の活動によって(つまり「はからい」によって)愛国心を押し付けるような教科書を強制すれば、さぞや強固な左翼思想にかぶれた若者が大量生産されるのではないかと期待してしまいます。


追記(2015年10月7日):
保守リベラルの考え方を簡潔に表している文章に出会った。

フェンスを外す人 - β2




 <緊急告知!>
 「南京事件を自由に議論する議員有志の会」が5月19日に南京事件について「公開討論会」を開催するようです。

 日時:5月19日 午後2時

 場所:名古屋市北文化小劇場

( 北文化小劇場:施設のご案内 )
( 名古屋市北文化小劇場 )


*1:西尾幹二さんが原案を書く前の段階です。

*2:多分、名古屋における第一回目。

*3:いろいろな意味で運動体が変質していることを感じました。

*4:今の様な「反中国」であったり「嫌韓」というような行動は、単なるアンチとしての活動としか理解できませんし、非常に非生産的な活動です。

*5:正確には「中心」概念も無いかもしれない。

*6:教科書で教えられるようなものでもない。

*7:まるでビールみたいですが。

*8:カール・ポランニーは「人間の理性の万能性に対する懐疑」と表現しました。

*9:本日の佐藤参議院議員の発言で「意なくば立たず」とされていた事には違和感を感じました。

*10:本日も橋下大阪市長が中野剛志さん(彼も自身を保守主義と定義しています)をツイッターで批判するのに「改革の速度が遅い」と言っていましたが、まったく的外れな批判です。「(方向性も間違っていますけど)改革の速度が速すぎること」を中野氏は批判しているのですから。

*11:名古屋における河村市長の「庶民革命」であるとか「減税政策」が馬鹿馬鹿しいのは、そもそもこういった「設計主義」自体に懐疑的である上に、その論理すら間違っているわけですから、二重に失格と言えます。