市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

みえないネジレの話(思いつき)

 ある件について書こうと思いました。素材は作成したのですが、追加取材が可能かも知れませんので、追加取材ができましたらまとめて掲載します。または、追加取材ができないとわかった時点で、現在ある素材だけは掲載します。

 別のある件については、敢えて書きませんので悪しからず。

 また、その別の件については週明け2〜3日目に書く予定です。

 減税日本ゴヤ市議団のHPができたようです→こちら
 特に言うことはございません。遅かったねと。
 山田さんはなんでそんな不満そうな顔してるんですか?と。
 玉置君はなぜメガネを上下逆にしてるんですか?と。
 舟橋さんたちは三人固まっているとあらぬ誤解を受けますよ、と。
 林さんと中村(考)さんもいつも二人一緒だと、あらぬ誤解を受けますよ、と。

 まあ、言いたい事はこれくらいです。

見えるネジレと見えないネジレ

 ある本を読んで、自分なりに整理するために、一般論的な事を書きます。

 現在、国政は政権をとった民主党衆議院において多数派)と、野党となった自民党参議院において多数を形成)のネジレ状態が続いて、政権は安定化せず、予算成立に伴う関連法案で常に政権の存続が脅かされています。

 こういった状態では、政策の実行スピードが得られずに、国民の不満はたかまります。
 この国民の不満の高まりが第三極としての「地域政党」への期待となって、大阪においては橋下市長への支持となっているようです。*1

 これが目に見える国政におけるネジレ現象なのですが、もう一つ政党間の目に見えないネジレという物があるように思えます。そしてこれがもっと話をややこしくしているように思えるのです。

 それは民主党自民党の間の「大きな政府論」と「小さな政府論」の取り違えです。

55年体制の成立

 資本主義国において、国民は必ず2つに分断されます。
 資本を持つ「有産階級」と資本を持たない「無産階級」または「労働者」です。

 戦後の農地解放によって、地方において農民は耕作地を自己所有としましたから、彼らは「有産階級」と看做しても良いかもしれません。つまり、これら農民と、各種産業の資本を持つ「有産階級」によって支持される政治勢力が必ず誕生します。

 そして、その各種産業の担い手である労働者によって支持される政党も生まれます。

 単純に考えれば、こういった労働者階級というのは数の上では圧倒的なのですから、このままでは「プロレタリアート独裁」まで一気に進展しそうなものですが、話はそんなに単純でもありません。上に描いたように農村部には土地を持った自作農が「有産階級」として政治勢力を形成し、都市部においても中小企業、商店主、地主、大家などといった小規模「有産階級」がこういった政治勢力に支持を集めます。
 これらの人々は当然、私有財産の自由な運営を求めますし、社会保障についても個人負担を指向します。つまり、これが自由主義政治勢力であるべき自由民主党の原始的な姿で、本来であれば「小さな政府」を指向してしかるべきでした。

 労働階級の事情はもう少々複雑です。単純に数だけでみれば多い筈なのですが、路線闘争の結果大きくは共産主義勢力と社会主義勢力に分かれていきます。

 更に、ここから宗教的指向をもった人々が一定の勢力を持ったりするわけですね。

 おおよそこうして自民党政権政党として第一党を維持し、その周辺を野党が一定程度の勢力を維持するという所謂「55年体制」が形成される事になります。

世界一成功した社会主義国「日本」

 自民党の組織は官僚と不可分に繋がっていました。吉田茂―池田隼人―佐藤栄作といった「吉田学校」の人脈が官僚組織から供給された事からも明白なように、有産階級―官僚組織―自民党政権は後に「鉄のトライアングル」と言われるような構造を形作ります。

 ここから最初のネジレが始まります。
 つまり、55年体制化の自民党政権は、本来「小さな政府」を指向しても良かった筈です。経済政策としては建前上自由主義的な、市場主義的な体裁をとっていましたが、実際には、解体された筈の財閥は株の持合と言う形で、それぞれの企業グループが中心となる銀行を中心に関連を強化し、官僚組織は自らの権限を拡大させるために「大きな政府」を形成してゆきました。

 更に、各地方、各業界からの意向を受け、自民党の「部会」が各省庁を拡大させる方向に行動するようになります。つまり、議員が「予算を分捕ってきた」という事は、その部会に対応した省庁が拡大したということと等価でしょう。

 マスコミも社会の問題を取り上げれば、省庁はその問題に対応するために新たに予算を獲得し、担当部署を作ります。野党が問題を追及しても同様です。

 このように本来「小さな政府」を指向する筈である、有産階級の支持によってできた自民党政権が、官僚組織との繋がりも相俟って「大きな政府」を形成し、やがて日本は「世界で一番成功した社会主義国」と呼ばれるほどに、貧富の差がなく、社会保障も充実した国となります。

自民党をぶっ壊す」

 しかし、政―官―財の「鉄のトライアングル」は安定し、強度があるだけに腐敗もはびこりました。田中政権における汚職以降、制度的に織り込まれているかのように金権腐敗が続き、やがてそれは「リクルート事件」を引き起こし「これに連座していないような議員は力や能力がない議員」と言われるほど転倒した状況を作りました。

 そしてそれらの国民の不満を背景に出てきたのが「自民党をぶっ壊す」といった小泉政権だったわけでしょう。

 彼は「自民党をぶっ壊す」と言いましたが、確かに壊れました。政―官―財のトライアングルに楔を打ち込み、それまで積み重ねてきた「大きな政府」を否定し、「小さな政府」と市場原理至上主義を展開しました。

 バブル崩壊というのは、単なるデフレ不況の現出と言う状況だけではなく。新自由主義的市場原理至上主義の出現と言う側面も持っていたのでしょう。財閥の一画であった住友の中心をなすべき住友銀行も解体吸収され、それまでは考えられなかった企業間の合従連衡が始まり、厳しいコスト削減競争と人員合理化が、より一層デフレを進行させました。

 デフレ局面においては「小さな政府論」は逆効果の経済政策である筈ですが、「民間が厳しいコスト競争に晒されている中で、公共部門だけが経済合理性を追求せず、<無駄な支出>*2を続けるのは許されない」とデフレが進行すればするほど、人々の公共部門に対する政策的圧縮指向は高まり、それがまたデフレを誘発するという悪循環が発生しました。

見えないネジレ

 小泉以降、安倍―福田―麻生と若干「大きな政府」を再現しようという動きもあったものの、国民からは「官僚政治の復活」などとも指摘を受け、支持を得られないまま敢え無く政権を民主党に譲り渡す事となった。

 さて、ここからが問題となる。

 「有産階級」の自民党に対して、労働者・無産階級の民主党政権であれば話は単純だ。ナショナル・センターとしての連合の支持の下、民主党がこういった層の支持による政党であれば、ここで日本の政治は「大きな政府」へ舵を切り、デフレ克服のためにも積極的な財政出動の一つでもできるのかもしれない。

 しかし、この民主党において大きなファクターとなる小沢一郎氏と彼の周辺議員は、民主党が政権を目指す時にこそ「生活が一番」と「大きな政府」指向のようなアピールをしたものの、小沢氏の「日本改造計画」においては明確に新自由主義を打ち出しており、実際に小沢氏周辺の議員には新自由主義的「小さな政府論」者が多い。

 なんとなく、対自民党政権で「小さな政府論」を打ち出している内に、その自民党から出てきた小泉氏にお株を奪われて、トラウマにでもなっているようにも見える。

 つまり、こういった経済政策は、経済局面で切り替えるべきなのだろうと思う。

 政治信条として経済政策に殉じるというのは違うように感じる。

 そもそもインフレ局面であれば「小さな政府」を指向し、通貨流通量を下げ、経済の過熱を縮小し、デフレ局面においては「大きな政府」を指向して、通貨供給量を上げて貨幣価値を下げ、安定的で緩やかな成長がはかれるようにバランスすべきだろう。

 現在のように明白なデフレ局面において通貨供給を縮小させる「小さな政府論」は政治選択ではなく、単なるテクニカルな経済政策として方向性が間違っている。

 今、政権を担っている野田政権は財政バランスを気にしている。

 小沢氏も財政バランスを気にしている、更に増税には反対と来ている。

 現在の局面においては増税は「大きな政府論」である。
 (ここでは、増税の是非(規模の評価)は置く、問題は政府支出の拡大か縮小なのである。拡大していけば経済は刺激される、そしてそれは「大きな政府」を指向したことになるだろう。逆に、政府支出を縮小する方向に経済政策を舵取るなら経済は一層縮小する事となる、そしてこれは「小さな政府」論に乗ったということになるだろう)

 自民党は明確には増税に対して反対を表明しないようである。これは責任ある政党として、政権を担う可能性がある以上は、容易に「反増税」とは言えないという覚悟を表しているようだ。そして自民党の指向は「大きな政府」ということになりそうだ。

 つまりここに来ても「小さな政府を指向する民主党(特に小沢派)」と「大きな政府を指向するかもしれない自民党*3」という構図となり、完全なネジレが現出する。

余分な二つの論考

 この「小さな政府」を指向する、労働者・無産階級の民主党、と。
 「大きな政府」を指向する、有産階級の自民党。というネジレた関係には、次のような2つの事情が関係しているような気がする。(気がするだけ)

 民主党の支持母体である、ナショナル・センターとしての「連合」の組織率が落ちており、更に、非正規雇用が増加している中で、「連合」に組織化されている労働者自身が一種独特の位置を占めるようになっている。つまり、労働者・無産階級の中での分断が起きており、本当に政治力を必要としている、経済原理からは排除されている階層が民主党の支持基盤に入っていない。

 もう一歩、敢えて意地悪に論考すると、「連合」に組織化されているような労働者は、比較的地位が安定している。この安定した地位に居る労働者にとってデフレは長期的には不利には違いないが、短期的には不利とはならない。つまり、一定の収入が保証されている階層(早い話が大企業の正規雇用社員)では物価が下がる事は歓迎される。なので、敢えてデフレを克服するような政策に対しては消極的で、デフレを進行させる政策に積極的なのか?
 しかし、これはこぼれ落ちた層(非正規雇用者はデフレの進展とともに賃金も下げられていく)については厳しく、安定的な層に対してもやがてデフレ圧力は襲い掛かるのだけれど。


 自民党支持層について、なぜ55年体制下で有産階級が「大きな政府」「高福祉高負担」な社会を志向したか。
 これについては、日本型ピューリタニズムや「近江商人における『三方よし』の精神」といった考え方が背景にあったかもしれない。

 フォードはT型フォードの生産に当たって、労働者に対しても、自社のT型フォードが買えるような労働分配をはかった。これによって労働者自身がT型フォードを買うことで、T型フォードがよりよく売れるというスケールメリットが獲得できた。これはドイツにおけるフォルクス・ワーゲンの生産においても参考にされたと言う。
 そして日本の戦後経済成長期においては、車や電化製品、建売住宅などが労働者のモチベーションとなり、これらの消費意欲がまた産業を活性化させた。

 こう見てくると、55年体制下においては、政官財の癒着は、一部に不適切な腐敗を産みはしたものの、全体として幸福な資本家と労働者と言う関係を作り、21世紀に入って以降の日本においては、労働組合の機能不全によって新自由主義の過剰な進行が発生し、格差が生まれ、デフレが放置され続いているということになるのだろうか?



追記:名古屋市長に公式の場で(特に、女性、海外の公人の臨席する場で)「銀映」の話をする事を禁ずる条例を提案します。参照 →
 「銀映」の是非ではない、公式の場や女性臨席の場であると言う節度と品格の問題だ。


*1:しかし、この支持には落ち着いて考えてみると根拠はないですから。

*2:ケインズ経済学では、この無駄な支出でもデフレを克服する大切な要因だったはずです。

*3:この自民党の「大きな政府指向」は国民から「官僚主導の政治」の復活と写るかもしれない。