市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

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日曜版:死者との共生

 大阪の橋下新市長から「敵」認定された中島岳志氏が北海道でラジオ放送をされているようで、その模様がポッドキャストで提供されている。過去の放送|中島岳志のフライデースピーカーズ|ポッドキャスト
 語り口もやわらかく、作業のBGMに丁度いいので聞かせていただいている。一回分が3時間にわたるのでなかなか聞きでがある。

 この中で「死者との共生」という話題が出てきたのでご紹介する。(放送では、2011年12月2日 「2011年を振り返る」の前半に出てきたと思う)

 放送の中で中島氏は、著述をしている際に、思わず手を抜いた文章を書いてしまいそうになるが、そんな時に最近亡くなった親しい出版編集者の事を思い出すと、その人がもし生きていたら、そんな仕事は許してくれるだろうかと思い、やはり文章を書くに当たって手を抜くということは出来ないと思い直した。というエピソードを紹介された。

 そして、この心の動きを考えると、この編集者は死んでしまっているけれども、自分自身にとっては強く心に突き刺さって、自分を律する存在として生きている。

 人間の倫理観を基礎付けるものは、このような死者の存在なのではないかと思える。

 このような例は誰しも持っていると思う。例えば子供の頃に「そんな事をすれば、天国のおばあちゃんがなんと思うでしょうね」などと親から諭された経験を持つヒトも居るかも知れない。

 中島岳志氏は自身を「保守」と位置付け、西部邁氏の弟子筋に当たるそうなので、社会とは歴々積み重なってきた人々の生活と死の上にある。これらの人々の営為が今の社会を形成しているのであって、けして今日(こんにち)ただいまの人々だけが突然現れて社会を形成したわけではない。というような伝統への尊重という意識もあるだろう。

 このような形での死者への畏怖、尊敬が積み重なって形式化すると伝統となるのだろう。

 実は、これも橋下新市長からは「敵」認定されている内田樹氏も「他者と死者」という本を書かれている。

他者と死者―ラカンによるレヴィナス

他者と死者―ラカンによるレヴィナス

 ここでも死者という他者を仮想することが、生きている自分たちに対して倫理を要請するという機序であろうかと思われる。(だったと思った、といった方が正確ですが)


 内田氏は最近も、橋下氏との関係から(というか、主に内田氏が「一般論」を語りだすと、橋下氏がご自分の事として気にしてツイッターで反論(?)するという事になっているのだろうと思いますが)「倫理の及ぶ範囲」というような論考を書かれたようだ。

 私は、この論考自体には触れていないが、その橋下氏の反論やら、内田氏の今までの主張から推測するところ、倫理にはその及ぶ範囲があり、その及ぶ範囲が自治にも必要となる。その範囲を超えてしまえばどうしたって話は現実から遊離し、空想がその間を埋めることになる。というような話しかと思っている。(と、この推定自体が危ういですが)

 つまり、例えば現在の政治状況も、実際には見たことも聞いたこともない事柄を政治的な議題として、どんどんと空理に空論を重ねているのではないかと思われる。

 死者という他者、または他者の中での倫理から導かれた言説は、断言を許さないだろう。
 そこに、様々な揺らぎや、隙間が許されている気がする。

 しかし、自分には突き刺さる。

 けれども、空理に空論を重ねて、現実から遊離した「正義」は断言する。
 他者に対して容赦なく、自己に対しては何も語らない。


 最近、某所で「市長と議員の役割は違うのだからとおっしゃるのはわかるのですが、それだと、議員はいつまでたっても、一部市民からの陳情を取次ぐ、市長のやることなすことにイチャモンをつける、市長と結託して利権のおこぼれにあずかり再選を目指すといった受動的な存在にとどまらざるを得ません。」という意見を頂いた。

 議員の存在が、この方の言われるような「受動的な存在」かは疑問です。
 陳情を取次いだり、イチャモンをつけるだけで、利権のおこぼれにあずかろうとする存在であるという情報は、そもそもどこから来ているか。ご自分で見たり聞いたりした情報であろうとは思えません。マスコミなどで定型的に語られる地方議員の姿をそのまま語っていらっしゃるように見えてしまいます。
 つまり、現実に見たり聞いたりといった体験に裏付けされない、伝聞といった空想に空論を乗せて語られる。そして、そのような言説で議論をすれば「市議は年間たった80日で1600万円も貰って、更に政務調査費を600万円も貰っている」というような話にも成りかねない訳でしょう。

 いったい、その1600万円というお金はどのような性質のお金か。また、政務調査費の600万円というお金は事実どのように扱われているか。どの程度支出されて、どの程度「返されて」いるか。そして河村氏が語ったような性質のお金であるとしたら、何故市議が政務調査費を「返す」のか。事実を積み重ねなければ何を語っても空しいだけです。


 その主張、言論は事実に立脚しているか。

 その主張、言論は他者に開かれているか。

 「正義」はまだしも、他者性を要しません。他者に開かれていない。

 「倫理」は様々な他者性を、己の身の内に引き入れることで、成り立っていくのかもしれません。

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上の写真はネットで拾ったイメージです。なんとなくいいなぁ〜と思いました。


 このイメージは愛知県公報に載った「河村サポーターズ」の収支報告書です。三宅さんも大変ですね。大変なんですかね?
ところで、会費を払った会員というのは13人だけなんですか?