市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

映画「セデック・バレ」


映画「セデック・バレ」を見てきた。 

 映画『セデック・バレ』公式サイト

 第一部、第二部と全体で4時間36分に及ぶ長尺で、逡巡したが、作品の性格上、今を逃すとDVD化された後にレンタル等では見られなくなるのでは、との危機感を持って上映館を探した。幸いなことに「シネマスコーレ」と「シネマテーク」の両館でかけていてくれるので、どちらかで見た。どっちで見たかはナイショ。

 昭和初期、大日本帝国統治下の台湾における原住民族の抗日蜂起である「霧社事件」を映画の題材にしている。とはいっても単純な旧日本政府による侵略批判を描いているわけではなく、重層的に文明の衝突を描いてみせている。

 そういう意味では、名作「アポカリプト」の「その後」とも言えるし、「アバター」が描ききれなかった問題を正面から見据えた作品ともいえる。また、「もののけ姫」が寓話的に描こうとした世界観にも近い(音楽もどことなく似ていた)

 つまり、「アポカリプト」+「アバター」+「もののけ姫」と足しこんで、3では割らないといった面持ちの4時間36分だった。

 また、映画的にはとても難しい部分があった。私自身は今でも飲み込めていない部分がある。その口当たりの悪さは、物語的収まりといったものよりも、より史実に忠実になろうとした製作者側の誠意の表れでもあるのだろうが、それだけに、製作者自身にも、この史実とストーリーの中に肯き得ない何かを感じているのでは無いだろうかとも思えてくる。

 先ほど、「文明の衝突」という言葉を使ったが、これは、アノ(今となってはトンデモ本の部類である)S.P.ハンティントンの書籍を指したつもりではなく、もっと単純に、近代まであった各国の独立した「文明」が辿った悲劇のひとつであるという意味で使った。

 南米におけるアステカ文明、インカ文明。北米におけるネイティブ・アメリカンの文明。またオーストラリアにおけるアポリジニなど、こういった文明の衝突によって消え去った、または消え去ろうとしている文明は多い。

 台湾原住民族であるセデック族の一つの集落の頭目であるモーナ・ルダオは日本統治という忍従の末、蜂起を決意する。
 このホームページに掲載されている写真やポスターに描かれているのが、主人公モーナ・ルダオです。演じるのはリン・チンタイさん。本職が牧師で、勿論映画は初出演。それでいてこの存在感。

 映画、というかどんな物語でも、主人公の葛藤というのが、ストーリーの葛藤でもあり、その葛藤をどう解消、昇華させていくかというのがテーマにもなると思うのです。しかし、この葛藤を内面に抱え切れない「俳優(女優)」が多い中で、このリン・チンタイさんは葛藤を見事に背負ってくれています。というよりも、その葛藤自体、製作者も回答を出し切れて居ないと思いましたので、それをそのまま演技に置き換えるというのは大変な作業であっただろうと思います。

 謂われなき占領によって、彼らセデック族は狩場を奪われる。
 (これは、予告編にもあるようなのでネタバレにはならないでしょう)
 モーナ・ルダオたちの狩場に別の集落の部族が侵入してきた。それを咎めるモーナ。ところが、その別の部族が侵入した理由は、日本人が狩をする為の道案内だった。その際に、その日本人の子供がいう「マヘボ社(「社」とは「集落」)の猟場だ、トンバラ社の猟場だというけれど、全て日本の領地じゃないか」

 そして、彼らは彼等の「文化」である「首狩り」の風習を取上げられる。

 この辺り、この映画が「獰猛な映画体験」「価値観が乱される」と訴えるだけのことはあります。普通「首狩り」の風習と聞けば、肯定的には捉えられない。前近代的で野蛮な風習として頭から否定しにかかることでしょう。この映画は、その一方的な文明観自体に疑問を投げかけてきます。つまり、大日本帝国という近代とセデック族の文明の衝突を描きながら、同時にこの史実と、観客の間の文明の衝突も味あわせてみせているのでしょう。

 この自分自身に突きつけられた、飲み込むにはやや飲みにくいストーリーを、どう飲み込むのか。どう付き合っていくのか。あるいは4時間36分、居心地の悪い気分に陥るかもしれません。


 現地の住民と友好な関係を築いた小島巡査(安藤政信)に同情できるか。同化政策で日本人として師範学校まで出たダッキス・ノービン(日本名:花岡一郎)の行動をどこまで理解できるか。(正直に言いましょう、私は彼の行動が結局理解できません)
 物語の中で日本名を付けられたセデック族の若者が数人出てきます。その中でも巡査として統治する立場に立つ二名の若者は、自分の中にある部族の血、民族の誇りと、日本がもたらした文化、文明の恩恵に心が引き裂かれます。
 この両名に対する歴史の仕打ちは非常にむごい。

 エドワード・サイードなどが発掘したポストコロニアリズムなどでも指摘されたような、宗主国が植民地に押し付ける「好意の文明導入」がどのような歪をもたらすか。この両名の運命がその一例を示します。

 やがて蜂起の時が来て、モーナ・ルダオは蜂起を押し留める友人にこう言います。
 「文明が我々を否定するのであれば、私は野蛮人の誇りにかけて戦う」

 確かにこの場面、熱くこみ上げるものを感じないでもない。

 しかし、モーナ・ルダオたちは自分自身を破滅させる戦いに身を投じるわけで、彼等の「虹の橋」はイスラムテロを支える「ジハード」の思想「アーヒラ」の信仰と変わらないのではないか?
 そういった意味でモーナ・ルダオや彼の「家族」たちが辿った破滅的な道は「そんな選択しかなかったのか?」と叫びたくなるほどに切ない。

 つまり、私はどうしてもこのストーリー(=史実)を受け入れることができない。事実は事実なのだから、それは受入れるのだけれど、だからといってそれを肯定的に受入れる事はできない。歴史の中での誤った判断と感じざるを得ない。

 しかし、それは私の価値観と彼らセデック族の価値観が異なるからであって、この食い違いは何も問題は無い。この価値観の食い違いを認識することも、この映画の存在の意義なんだろう。

 つまり、大切な事は。
 自分の価値観は何であるかを明確に自覚する。
 その価値観自身が自分を作っている事を知る。
 その価値観は、しかしまったく主観的なもので、一切の客観性を持たないことを知る。

 自身の価値観を他に敷衍してはならない。
 つまり「自分の物差しで他人を計ってはならない」

 自分の価値観を他者に押し付けてはならない。

 それぞれの価値観が、尊重される。(勿論、他の価値観を排除するような価値観は、「認められる」が自ずと制限される)

 この価値観の多様性を受け入れることこそが、現代の知の指し示す文明の強度であり、人が文明的に生きていく方策に他ならない。文明が多様性を失い、価値観にバリエーションが亡くなった時、文明は力を失う。

 パンフレットの中に映画評論家の暉峻創三氏が「『セデック・バレ』が世界に懸ける橋」という文章を寄せている。その中に次のようにある。

 (略)固定化した二分方や属性(アイデンティティ)に縛られて世界を見るという価値観こそを、『セデック・バレ』は徹頭徹尾告発しようとしているのだ。放っておくと勝者がますます勢いを増して敗者を駆逐し、ある支配的な属性に帰属する者が少数派の異物を排斥していく方向に世界が進みかねない今、ウェイ・ダーションが他人から狂気の沙汰だと見られようとなお『セデック・バレ』という題材の映画化に固執した動機も、おそらくはこの固定化した価値観の転覆とその今日的意義にある。(略)

 そうか、映画自体が社会全体にまといつく固定的な価値観(常識や「お約束」)に満身の力を両腕にこめて、ブレンバスターか巴投げをかけようとしている映画に石井聰亙の『爆裂都市 BURST CITY』があった。

 「アポカリプト」+「アバター」+「もののけ姫」×『爆裂都市 BURST CITY』がこの映画なんだろうか。

 さて、ここから一気に話題は卑近なものとなる。他でも無い大阪の橋下知事だ。
 サイテーの人間ですね。

 「軍隊には慰安婦が必要だ」みたいな発言をしたわけだ。
 この名古屋の地でも、この橋下氏の下に付いて「維新の会」に近寄ろうとしている人々がいる。是非、マニフェストにでもこの慰安婦の件も加えてください。

 この人物は非常に幼稚だ。頭が弱い。
 このツイートを見て欲しい。

戦場での性をどのようにコントロールするかは軍をマネジメントする最大の課題だ。

橋下徹 on Twitter: "戦争になれば、世界各国の軍は、兵士の性の問題に頭を悩ます。この戦場での性をどのようにコントロールするかは軍をマネジメントする最大の課題だ。これは厳然たる事実。米軍だけは、自由恋愛の「建前」を貫いている。しかしそれは建前であることは皆知っている。"

 確かに兵站の一つの課題なんでしょうけど、性のコントロールが軍のマネジメントの「最大の課題」になったことは無い。軍事研究といえばオックスフォードなどが先駆でしょうけど、「性のコントロール」ってどんな取上げ方しているんでしょうね。
 少なくとも「最大の課題」などというのは単なるオーバートーク、嘘の類です。それなのに、続く発言が。

これは厳然たる事実

橋下徹 on Twitter: "戦争になれば、世界各国の軍は、兵士の性の問題に頭を悩ます。この戦場での性をどのようにコントロールするかは軍をマネジメントする最大の課題だ。これは厳然たる事実。米軍だけは、自由恋愛の「建前」を貫いている。しかしそれは建前であることは皆知っている。"

 嘘、嘘。

 この人物は嘘をついている間に、自分自身を洗脳でもしてしまうんでしょうかね?

加えて僕が米軍に進言したのは、きちんと米兵の性的エネルギーをコントロールして欲しいと言うこと。これは時代を超えて、軍のオペレーションの最大の課題

橋下徹 on Twitter: "加えて僕が米軍に進言したのは、きちんと米兵の性的エネルギーをコントロールして欲しいと言うこと。これは時代を超えて、軍のオペレーションの最大の課題。そして法律上認められている風俗業の活用を持ち出したが、批判する人は風俗業を知らないだろうな。"

 最早、哀れという以外に無い。そもそも「何のためにこの発言をしているのか?」それがサッパリ判らない。
 橋下大阪市長の「慰安婦は必要だった」発言に関する海外報道まとめ - Togetter
 その一部
 Women Forced Into WWII Brothels Served Necessary Role, Osaka Mayor Says - The New York Times(NYT)
 404 Not Found(WA.POST)
 Japan WWII 'comfort women' were 'necessary' - Hashimoto - BBC News(BBC)
 Japanese politician calls wartime sex slaves 'necessary' - CNN(CNN)
 Bloomberg - Are you a robot?(BizW)

追記:
 http://www.liberation.fr/monde/2013/05/14/japon-les-femmes-de-reconfort-etaient-une-necessite-selon-le-maire-d-osaka_902722

 もうこれら記事の存在だけで充分「国」を「辱」めています。
 国辱ものです。

 しかし、こんな見識の低さはまだ問題として浅い、この人物のもっとも醜悪なところはこれです。

敗戦の結果として、侵略だったことを受け止めなければならない。戦争で負けるとはそう言うもの。これは中国、韓国との間の問題だけではなく、戦勝国全体との間の問題。もし日本の侵略を否定するなら、再度世界戦争を起こして日本が勝つしかない。馬鹿げている。

橋下徹 on Twitter: "敗戦の結果として、侵略だったことを受け止めなければならない。戦争で負けるとはそう言うもの。これは中国、韓国との間の問題だけではなく、戦勝国全体との間の問題。もし日本の侵略を否定するなら、再度世界戦争を起こして日本が勝つしかない。馬鹿げている。"

追記:読み直していますが、色々と酷い文章になってしまった。まことにすいませんね。
またこの部分は中島岳志さんのツイートが参考になっているのに、それを紹介し忘れていました。直接ではありませんが、橋下氏のこの一連のツイートに対して、中島氏がやはりツイッター上で感想を述べていますが、そのなかの一つに次のようなものがありました。

「勝ちさえすれば自分たちの論理を押し付けられる」という構造こそが、パール判事が問題視した点である。この東京裁判の構造を橋下氏は追認している。「負けたから侵略だった」という論理は、「勝てば侵略じゃなかった」という認識とコインの裏表の関係だ。

中島岳志 on Twitter: "「勝ちさえすれば自分たちの論理を押し付けられる」という構造こそが、パール判事が問題視した点である。この東京裁判の構造を橋下氏は追認している。「負けたから侵略だった」という論理は、「勝てば侵略じゃなかった」という認識とコインの裏表の関係だ。"

 結局、橋下氏の思考の根底には「勝者の独裁」があります。
 戦争で勝った者の正義が認められる。侵略だといわれるのも(その様態ではなく)日本が負けたから。

 大阪における様々な施策は、維新の会が多数を占めたのだから、府民、市民の多数の支持があるのだから、少数派は従うべきだ。

 最近、騒がしい武雄市の樋渡市長も同様の発言をしていた。

 そして、この名古屋においてはかの河村市長が、減税を掲げる自分が市長として選ばれたのだから、民意である、と。減税政策を進めるのでしょう。(ついでに、「庄内川矢田川堤防道路の封鎖」も公約なのだから実現化させるべきだ。それが民意なのだろうから)

 以前、この河村市長の従姉妹という人物(ナゴヤ庶民連の方)から地域委員会の決定について、凡そこう言われた事がある。「私たちが多数決で勝ったのだから、負けた方のことなど考える必要は無い」


 橋下市長、樋渡市長、そして河村市長。いわゆる新自由主義的改革派市長と呼ばれる人には、自分に対する否定的発言に耳を貸さないという共通点がある。「議論しましょう」と言いつつ、実は議論を怖がっている。

 そして、自身の実感が普遍的であるかのような勘違いと。
 「民主主義とは多数決で決めること」というようなアホな思い込みがある。
 民主主義はこういった幼稚な人々の存在を許容する。しかし、その存在は民主主義自体を自己融解させる。