市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

トリクルダウン

 河村市長及び減税日本ゴヤの主張する減税の効果に「減税を行うことで、家庭や企業の可処分所得が増え、市民の生活支援や地域経済の活性化につながる」というものがある。
 減税によって可処分所得が増えれば、経済が活性化され、直接は減税の恩恵に預かれない階層にも恩恵が及ぶと言う主張である。

 これは、実は典型的な「トリクルダウン( trickle-down )理論」と言うべきだろう。

トリクルダウン理論(Wikipedia)

 神野直彦氏の著書「『分かち合い』の経済学」(岩波新書)の p.136 から、次のように書かれている。

 新自由主義にとって増税を容認することは困難である。富める者がますます富めるように、富める者の負担を軽減することにこそ、「トリクルダウン理論」を唱える新自由主義者のレーゾン・デートルが存在するからである。
 トリクルダウン理論とは豊かな者をさらに豊かにすれば、その御零れが滴り落ちるという理論である。トリクルダウン理論アダム・スミスの古き時代から唱えられている。しかし、それには二つの前提がある。
 一つは、富はいずれ使用するために所有されるということである。もう一つは、富を使用することによって充足される欲求には限界があるという前提である。そのため、豊かな者がより豊かになると、富によって充足される欲求には限界があるため、使用人の報酬などを引き上げるので、トリクルダウンが働くと考えたのである。
 ところが現在では、富は使用されるために所有されるわけではない。富を所有すると、富の前に人々が平伏し、人々を動かすことができるからである。支配する権力を獲得するために富が所有されると、トリクルダウンは生じることがない」


 同書の上記引用箇所の直前(p.134)に「『小さな政府』でも財政支出は抑制できない」というセンテンスがある。

新自由主義者の狙いは、富める者の富をさらに富ますことにある。『小さな政府』のドグマも、社会的支出のために富める者が相応の負担を貢納することを否定するための方便にすぎないのである。
 そのため『小さな政府』のドグマを掲げて減税を実施し、『均衡財政』のドグマを口実に、社会的支出を切り捨てようとする。しかし、そう容易に欺瞞の論理を貫くことはできない。
 『小さな政府』にしたところで、経済成長が実現するわけではないので、上げ潮派路線のシナリオのように、租税収入が想定どおりの自然増収を実現してくれはしない。しかも、仮にアメリカのように経済成長を実現したとしても、財政の支出を削減することは困難となる。
 というのも、『小さな政府』は格差と貧困を溢れ出させ、社会統合を困難にするからである。
(略)
 格差と貧困を溢れ出させてしまうと、社会統合を困難とする社会的亀裂を放置しておくわけにはいかない。(略)
 そうなると財政支出の削減には限界がある。もちろん、人間は利己的に行動するという前提を、新自由主義は否定することができない。そうだとすると、社会的亀裂が入り、犯罪行為や社会的逸脱行動が蔓延すれば、強制力を行使する社会的秩序維持機能を強化せざるをえなくなるのである。


また、同書 p.128
「小さな政府」のドグマの前提には、政府の支出は不生産的支出だという考えがある。


 ずばり、河村たかし「減税論」の46ページには左の図が載っており、47ページには「役所や議会という総務部が赤字だからといって、増税してそこにお金を増やしても、そのお金を使って新たな利益を生み出すことはできない。それよりも民間の産業部門にお金を回して経済成長していくことのほうが、日本という会社の繁栄のためには大切なのだ」という記述がある。

 既に述べたリチャード・クー氏をはじめとする、いわゆるケインジアン的「大きな政府」論者とはま逆というか、まったく「誤った経済理論」という以外にない。

 当時はこの程度で旭ヶ丘やら一ツ橋は入れたんだね。中京法律学校も。

 しかし、この「トリクルダウン理論」は酷い話だと思いませんか?

 先ず、社会全体で「がんばれば夢は掴み取れる」とか「チャンスは誰にでも訪れる」といったような「機会均等」の幻想をばら撒きます。その裏では、社会から脱落した失業者であるとか罹患者を「弱者」として排除していきます。
 一定のセーフティーネットはこういった弱者排除に一役買います。

 そして、あたかも「自由競争原理」が有効に機能しているかのように見せかけて、その自由競争のメリーゴーランドを回させます。しかし、実際にメリーゴーランドを回しているのは「持たざる者たち」(99%の人たち!)であり、同じスピードでメリーゴーランドを回っているように見えても、すでに(生まれた時から)メリーゴーランドの上に乗って居る人々も居るわけです。

 ここで、戯画的なのは、この一段上のメリーゴーランドに乗って居る者も、もう一段上のメリーゴーランドを回すように強要されます。回さなければこの一段目からも落とされるのです。実は、この一段目のメリーゴーランド程度であれば、本当は「99%の内」なのでしょう。しかし、その下の層には落ちたくないから彼らは馬車馬のように二段目のメリーゴーランドを回すことでしょう。

 こうやって、メリーゴーランドは上の階層に行けば行くほど早く回転することでしょう。つまり、上の階層では豊富な経済と過大な貨幣が飛び交います。こうやって高速回転する経済社会は、すなわち膨大な消費社会であり、環境に対しても過酷な負担を強いることになります。

 「欲望」は塩水です。飲めば飲むほど喉が渇きます。けして満足は得られません。
 今回は0.6%の減税を求め、次にはもっと過大な減税を求めるのでしょうか。
 私たちは、ウォール街を占拠した彼らと同じ声をあげるべきなのではないでしょうか?

"The dirtiest word in corporate America is 'enough' "

「企業国家アメリカで最も口に出してはいけない言葉さ、もう、十分」




No1.アジェンデ政権崩壊と新自由主義の台頭
No2.二つの過剰と三つの危機
No3.トリクルダウン効果は成り立たない

「No.4 「イースタリンの逆説」(※1)、そして誰も幸福にならない」
「No.5 トリクル・ダウン効果からファウンテン効果(※2)へ」
は上がっていないようですね。(※3)

基調講演 脱「格差社会」戦略と医療のあり方  神野直彦



※1 イースタリン仮説は豊かな社会において、途上国よりも経済的な余裕はあるはずなのになぜ、逆に子供の出生率が減るのかといった議論に対してシカゴ学派と対立したリチャード・イースタリン(Richard A. Easterlin)の提示した仮説。
 「親の物質的生活水準に対する願望が上昇すると、育児に対する需要が減退する」としたもの(ざっくりなので、誤解されやすい表現を含む。あまり真に受けないように)
 イースタリン仮説はこのような先進国における少子化の議論で提出されたものと認識していたが、神野教授は以降の議論も踏まえ、もう少し幅広く「富が豊かになることと、人間が幸福を感ずることは比例するか」という幸福感全体に議論の射程を広げている。
 イースタリンは「確かに豊かになると幸福になるという相関はあるが、それも一定程度までで、一定水準を超えて富が豊かになっても、人間は幸福感を感じられなくなる」と述べている。

※2 ファウンテン効果 おお、こちらには「地域経済を育てる政策を行っていくことで生まれる経済効果のこと。地域から湧き上がる経済のイメージを、大地に湧く泉(ファウンテン)に重ねている」と非常に要領よく説明がされている。つーか、これ新潟市のパンフレットですな。
 所得の高い者が負担して、所得の低い者に再配分するといった垂直の再配分ではなくて(垂直再配分は所得格差を固定化し広げる傾向がある)所得の高い者、低い者の分け隔てなく一定程度の社会保障を用意する政策。勿論、「小さな政府」では実現できない。

※3 しかし、ここだけの話だけど。ここで「イースタリン仮説」の名前にぶつかるとは思わなかった。ちょっとドキッとした。この「イースタリン仮説」についてのシミュレータというのがあってね、な〜んて話をすると幾らでも書けそうだけど、完全に主題を外すので書かない。


追記:
橋下前知事と維新の会 マニフェストを嗤う

ポピュリズムの政治はいずこも同じ。
根拠なき議員定数の削減。つまり議会の安売りは既に論じた「ジャクソン流民主主義」の焼き直しである。
そして、?の「企業に儲けてもらい〜」は完全にこのトリクルダウンの議論ではないだろうか。



追記(11月28日):

  「『百年目』のトリクルダウン」 内田樹の研究室


減税論―「増税やむなし」のデタラメ (幻冬舎新書)/河村 たかし

¥756
Amazon.co.jp