市民のための名古屋市会を! Ver.3.0

一人の名古屋市民が「地域委員会制度」「減税日本」に対する疑問をまとめるサイトです。(since 2011/3/3)

「正しい経済学」が導く減税の意味(補足:前編)

 明けましておめでとうございます。
 さて、昨年末のどん詰まりの頃に私の書いた「『正しい経済学』が導く減税の意味」(前編)(後編)がまだ難しいというご意見を受けました。
 この数式を咀嚼していただけば、「河村流減税政策」(※1)が経済政策としてどれほど効果が無い物なのか。つまりは、河村の説明が誤っているか。ご理解いただけると思うのですが、逆に「難しい数式を使って煙にまこうとしているんじゃないか」と思われるかもしれないので、そのような誤魔化しが無いという意味も含めて、もう少し噛み砕いてみましょう。
 まず、前提となる事柄を確認しましょう。経済学で「三面等価」という原則があるのですが「総生産と総所得と総支出は等しい」というものです。
 生産者が生産する物は商品として売られます。総生産量は総所得と等しくなります。
 (※2)(※3)
 そして、売り手にとっての所得は、買い手から見ると支出です。つまり、総所得と総支出は等しいということです。(※4)

 「総生産=総所得=総支出」

 次に起点となる数式をもう一度ここで確認してみます。
Y = C0 + c(Y-T)  + I + G

 この式で「Y」が「生産量(総産出量、これは国民総所得に等しく、総需要とも等しい) 」としました。つまり、上で言う「総生産=総所得=総支出」が「Y」に当たるわけです。経済を活発にするというのは、国や地方の「総生産=総所得=総支出」が増える事ですから、この「Y」が大きくなれば「経済は活発になった」と言っていいわけです。

 国や地方の経済にお金を支出するのは誰でしょうか?

 個人は衣食住などの消費をするためにお金を出しますね。
 企業も事業のための設備や備品、原料などを調達するために支出します。

 まず、このような止むに止まれぬ支出というのが必ず発生する筈です。これを「基礎消費」(※5)として「C0」で表現しました。

 その他には国や地方の行政機構がお金を出しますね。勿論、これらは税金が原資となっているのですが、その原資については後ほど触れるとして、国や地方が出すお金を「G」としておきます。

 このほかに企業や個人が行う「投資」という活動もあります。
 例えば「土地を担保にお金を借りて生産設備を都合する」と言うような場合。土地を担保に借り出したお金は、この段階では何と交換したわけでもありません。もしもお金を返せなければ、土地を差し上げますと言う約束が生み出したお金です。返済の時期が来れば清算しなければなりませんが、その期限までは借りたヒトの裁量で支出できるお金です。これを「I」とします。(※6)

 ここまでを数式にしてみるとこうなります。
Y _1= C0 +  I + G 

 つまり、基礎消費+投資+政府支出が総支出(の一部)を構成する。
 ここで、C0もIもGも誰かの裁量で決まります。Gは総理大臣か市長か財務官僚か判りませんが、そういった裁量で額が決まりますね。Iも投資をしようという資産家や資産管理者が額を決めます。C0は誰かのと言うよりも、そもそも決まっていると考えましょう。
 つまり、これらの要素は単純に足し合わせれば良いのです。

 さて、国や地方の経済に流通するお金、消費はこれだけでしょうか。違いますよね。ヒトは基礎消費以上の消費をしますし、企業も必要最低限の経費を使うだけではありません。(必要なだけの経費で企業運営をするのであれば、全ての企業は何の飾りも無い建物に収まりますか?やはりそれなりに建物に意匠を凝らしたりせめて受付ぐらいきれいに飾るでしょう)
 これらの消費はどのように考えるべきでしょうか。

 まず、これらの消費はその前の段階の売上げ=所得が原資となりますでしょう。つまり、「前回のY」が原資となります。売上げ=所得には税(等)がかかってきます。これが「T」です。つまり「前回の所得から税等を引いた金額」が基礎消費以上の消費を賄う原資となります。この「所得から税等を引いた金額」とは、つまり「可処分所得」ということになりますね。所得を得たヒト(や会社)が自分で処分(つまり、消費)することを許されたお金です。これを式で書いてみると「(Y―T)」ということになります。
 (このTがGの一部に回ります)(※7)

 さて、ヒトや企業は「可処分所得」をすべて消費に回してしまうでしょうか?そうはなりません。必ず一定の率で貯蓄されます。「可処分所得」がどの程度の率で消費されるか、つまり、市中に出回るか。それをあらわしたのが「c」(※8)です。

 「可処分所得」(Y―T)に「限界消費性向」( c ) を掛けた金額が市中に消費として出回り「総生産=総所得=総支出」(Y)を構成します。ここで出回らなかった分は貯蓄として蓄えられます。そして、その一定割合が「投資」(I)として市中に出回るわけです。

 以上の事をまとめて式にすると。
Y = C0 + c(Y-T)  + I + G
 となるわけです。「可処分所得」には「限界消費性向」の係数が係っていますが、その他の要素には係数は係っていません。そして、前回の総所得が可処分所得を構成し、全ての支出の総和が総支出(=総生産=総所得)となるわけです。

 この式の持つ意味について、そしてそれが示す「河村流減税政策」については、次回に続きます。

 さて、年の初めの一発目からわざと読む気も失せるようなガチガチの論点を展開してみました。実はこの議論がまだ難しいと言われた人に、同時に「実務的な政治の話は役人の話みたいで面白くない」というような事も言われたのですよ。ちょっと考え込んでしまいました。

 政治とは実務ですからね。そりゃ居酒屋政談、床屋政談の類は実務を離れて好き勝手を言っていれば良いのですけど、そんな事では実務は進みません。そして、子育て、教育、雇用、産業振興、介護、安心、安全と言う行政に求められる機能と言うのは、九割以上が退屈で目立たない、地味〜な実務の積み重ねなんですよね。

 実務と言うのは、地味でねちっこい努力が必要なんですよ。
 それは、喩えて言うなら石に滴り落ちる雨だれのようなもので、ポツポツと滴り落ちて石に穴を穿つ様な作業なんでしょうね。

 焦って槌やノミで無理やり石に穴を開けようとすれば、石自体が割れてしまうこともあるんでしょう。

 世間は、こういう派手な行動を好むのかもしれません。というか、耳目を集めるのはこういった派手な行動でしょうね。しかし、行政の実務自体、耳目を集める必要も無ければ派手なパフォーマンスも必要ありません。(※9)

 今日、そのような例をまた一つ目にしました。
 
 児童虐待防止関連対策(名古屋市公式HP)このページの下に平成23年7月14日に行われたと言う「児童虐待の根絶に向けた共同アピール」へのリンクがありますが中身が無くなっています。
 愛知県の当該コンテンツは残っています。(ここ

 ど派手に記者会見し、今でもことある毎に口にしているのでしょう。(元旦の大須熱田神宮でも口にした(※10)のかな?)しかし、児童虐待の根絶に、このような派手なパフォーマンスは必要ありません。地道な努力を重ねることが大切です。



※1:一般的な減税政策は、特定の支出とか、投資に対して控除を与えるような形で税を軽くします。こうすれば税を軽くしてもらうために、どうせ支出したり投資するのであれば、この税の軽減措置のある内にしてしまうというきっかけを作ることができ、支出や投資が活発化するからです。昨年末に大村知事などが提唱した自動車税の減免措置は、こういった形の減税で、自動車の消費を喚起し、つまりは自動車の売上げ、生産を増やしてもらおうという政策だったわけです。
 また、このような減税の財源は特に考慮されないのが普通です。つまり、財政的には赤字でも実施するか、そもそも財源がある場合に、選択肢の一つとして選ばれるのが「減税政策」なのです。
 「河村流減税政策」の誤りは、その財源を他の歳出カットで賄うとした点にあります。これでは経済学的に見ると。そもそも歳出で経済効果が生まれる分を削って、減税にまわすということになります。つまり、歳出の持つ経済刺激策を抑制してしまうわけです。
 逆に、いっそ公債を発行して(赤字にして)減税をするのであれば通貨流通量は増えます。(赤字でも「今」の通貨流通量は増えます。「将来」の通貨流通量を「今」使おうというのが、公債の発行ですから)
 しかし、公債の発行もせずに、単に減税だけするのであれば、この減税を受け取る一部のヒトや企業にとって可処分所得は増えますが、それと同額だけ、歳出を受け取るヒトや企業の売上げや賃金は落ちるということになります。

 歳出を受け取るヒトや企業が全て名古屋市内の人々だとして考えると、実際に減税財源を賄うために、公園などの清掃事業の予算が削られているわけですが、これだけの売上げや賃金が市内の経済から消えている事になります。

 多分ですが、実際に公園清掃の作業員で幾人かは解雇されたかもしれませんね。公園清掃の作業員の賃金を削って、納税出来る程度には所得のある個人や、黒字を出している企業に「減税」という形でお金を回したのが「河村流減税政策」です。

※2:売り上げが立たなかった生産物は、生産物とみなさない。不良在庫として、売上げを構成する原価/歩留まりとしてみれば、総所得を構成する生産物だけが生産量を構成すると考えられます。

※3:生産者が製造原料として買った物品も、つまり誰かの生産物で、誰かの所得となっているわけです。

※4:経済とは交換なのですから、必ず二者以上の関係者がいます。この世にたった一人しか人間が居ないとするならば、経済は成立しません。いいですか、この所は特にしっかりと押さえておいてくださいよ。経済は二者間の関係で成立する。
 二者にとって、同じ事柄でも別の意味を持つ。
 売り手と買い手が居れば、売り手にとっては売上げとなり、所得となるが。
 買い手にとっては支出となる。

 国債を発行する売り手(発行者、政府)にとっては国債は借金となり、
 国債を買う個人や企業、銀行にとっては国債は資産となる。

 同じものでも立場によって当然ながら、別の意味を持つのです。だから「国債は借金じゃない・・・・人も居ます。買う個人や企業にとっては資産です。間違いなく。しかし、国債を発行する政府にとっては、国債は借金であり、その政府の債務に対して責任を持つ国民、個人からみても間違いなく借金となる」のです。常に、誰にとっても「国債は借金ではない」という主張は成立しません。

※5:この「基礎消費」という言葉は便宜的に私がここで言っているだけで、経済学の定義からは若干外れているかもしれない。(経済学では個人の消費について言うのであって、企業などは入っていないから)

※6:土地所有者が銀行に、土地を担保に借金も申し込んだとすると、借用書とお金が交換になります。この借用書自身も通貨と同じ働きをします。つまり、場合によっては物品の交換にこの借用書を使う事もできるわけです。通貨と言うのは国や中央銀行が振り出している「借用書」と解釈する事もできます。
 こうやって投資が活発に行われると、どんどん市中に「通貨(とともに、それと等価ののも)」が増えていきます。これを「信用創造」と言います。土地所有者は、所有しているだけでは経済的に何の意味もありませんが、例えばこうやってそれを担保にして借金をすれば(同時に借用書を発行すれば)経済を拡大する「信用創造」をする事になります。

※7:ヒトや企業の売上げからだけ政府収入が得られるわけではない。更に、公債によってGを拡大することもできる。

※8:「限界消費性向」です。所得が増加した分からどの程度の割合で消費に回されるかという比率。上で言った「可処分所得」(Y−T)が全て消費されるのなら、限界消費性向は1となる。式で表すと「(Y−T)×1」となる。一割が貯蓄に回されると限界消費性向は 0.9 となり、式で表すと「(Y−T)×0.9」となる。

※9:「耳目を集める」ことと「情報公開される事」とは違うでしょう。逆に「耳目を集める」ことがへんてこな情報に人々が群がり、結果として非論理的な政治選択をしてしまうと言う例は歴史上幾らでもあるでしょう。

※10:熱田神宮で口からでまかせを言ったのかな?それも元旦に。
 まあ、そんな罰当たりな奴の話はおいておいて、なんでもそのパフォーマンスに済藤市議も参加されたそうで(というネタを最初に持ってくれば人目を引けるんでしょうけどね)済藤市議は急いでいたのか、パフォーマンスが終了後、参拝もせずに戻っていってしまったそうです。愛国心はあるけど、神社とかは尊重しないのかな?まあ、信教の自由ですけど。