本日も2部構成になります。最初に6月16日にいつか書こうとメモしておいた「2周遅れの経済理論」について書きます。次に、当ブログの記述について減税日本ナゴヤの済藤市議(済藤(さいとう)実咲市議:こうやると、検索ヒット率が上がるかな?)が当ブログの記述が「嘘」であるとおっしゃっていますので、その事実関係について述べます。
この3連休で現代経済学の教科書を引っ張り出してみたり、一橋出版の現代法学入門を読み直してみたり、「名古屋から革命を起す!」や「名古屋発どえりゃあ革命!」を読んでいたりします。前2冊はそんなに疲れませんが、後ろの2冊はどっと疲れました。髪の毛が真っ白になりそうです。河村氏が語るような減税を扱う「正しい経済理論」がドコカにあるだろうかとか探しておりますが無いですね。
「貯蓄投資バランス」を援用しても「(名古屋市にとって)市債は借金ではない」という話にはならない(勿論、名古屋市の市債を買った誰かにとっては、それは債権なので資産であることは明白だが、それは名古屋市当局でもなければ名古屋市民一般ではない。市債を所有する/できる特定の金融機関か、一部の名古屋市民にとってだけ、限定的に「資産である」と言える)のだが、どのように勘違いすれば「貯蓄投資バランス」からかくいうような誤解が生じるのか結局判らなかった。
(河村流減税論と、リチャード・クーのバランスシート不況論を接続させると齟齬が発生する理由については とりあえずなんとか「名古屋から革命を起す!」については読みきることができたが、個人的にも色々とやるべきことなどもあって今日だけで「名古屋発どえりゃあ革命!」を読みきることはできなかった。というか、このひとつ前のエントリーの様に「ウォールストリートを占拠せよ!」(Occupy WallStreet) について、アレコレ見ていて現実逃避してしまいましたとさ。
サッチャーーレーガンに連なる新自由主義の流れは、日本において小泉ー竹中改革と言う形で日本においても行政機構の改革が進められたんでしょう。そのテーマは「官から民」「民間の競争原理」であったわけです。
「民間企業において行われていた、自由主義の競争原理が高い経済効率をもたらす。行政機構、官僚体制は、自ら競争原理に身を晒そうとしない。これが行政サービスの非効率につながる。行政機構においても民間と同様の競争原理を持ち込めば、行政サービスはもっと安価に提供できるのではないか。またはもっと進んで、行政サービスも民間にできることは民間移転してしまえばよいのではないか?」というのが大筋の主張であると思う。
こういった流れの中で、日本においては公社が解体され、NTTやら郵政会社が生まれた。また、世界各地ではシティーマネージャ制度と言う形で民間に市役所などの行政サービスを移管すると言う試みも見られるし、米国においては刑務所やら軍隊まで民間移転されているわけだ。(刑務所については、若年者の収容施設についてマイケル・ムーアが映画「キャピタリズム」で取り上げている。軍隊の民間移転については、これも映画「ハートロッカー」で興味深く描かれている(バレット50口径のシーケンス))
果たしてこういった「行政の効率化」が人々を幸せにするのか。そういった懐疑が生まれて、公共的な政策。「大きな政府」に対する指向が生まれた。
これもマイケル・ムーアが映画「シッコ」で取り上げた米国内における医療保険の問題は、とりあえずは国民皆保険が成立している日本人にとっては驚きと恐怖だろう。
実際に、米国において失業とはこういった医療保障も失う事を意味する。つまり、本当に生死を分かつ可能性があるのだ。人間の命が貧富の差で左右される社会が人間の社会なのか、文明国の姿なのか。(こういった姿は、これも映画「ジョンQ」が描いていたな)
このような反省から、米国においては行き過ぎた競争原理に対する反省と懐疑が生まれている。それがオバマ政権を生んだ。しかし、実際に上位1%の富裕層が20%の所得を占有すると言われる米国において、オバマ政権成立の背景にも所謂「ウォールストリート・マネー」が影響を及ぼし、「ティーパーティ」と呼ばれる新自由主義的な思想が力を持ってオバマの改革を押しとどめた。オバマは自らを政権に押し上げた99%の一般国民と、この富裕層の間で揺れ動いている。
今回の「ウォールストリートを占拠せよ!」と言う運動はそういった富裕層へのアンチテーゼであり、貧富の差の見直し。行き過ぎた競争原理や社会的セーフティーネットの再検討などがテーマになっている。
大きな物語として、ソビエト連邦の崩壊から、社会主義政策への否定が生まれ、逆に無条件の資本主義、自由主義への信頼が起こった。その自由主義的発想を行政に大々的に持ち込んだのがサッチャーから小泉までの流れで、新自由主義者「河村たかし」もここに居る。世界では、そこから自由主義の反省が起こり、クリントンーオバマという底辺では「米国における国民皆保険」というテーマを持った修正的自由主義が起こったり。ヨーロッパでは民主社会主義が再検討されたり、北欧における高福祉社会が成功を収めたりしている。それに対するアンチテーゼが米国における「ティーパーティー」で、これが今の新自由主義と言われるものだ。ここで「河村たかし」君の立場は一周遅れたものとなっている。つまり、陳腐化している。そして今、その一周先に行っている「ティーパーティー」への反旗がウォールストリートをはじめ、世界中で巻き起こっていると言える。
ここで、河村たかし君の「名古屋発どえりゃあ革命!」から引用しよう。
「議員というのは国民のために減税を進めるのが当たり前で、増税を主張する議員の方がおかしい。大統領が増税を言い出せば、だいたいデモや暴動がおこる。増税をこんなに温かくうけとめてくれるものわかりのいい国民は、世界を見渡しても日本人だけなのだ」
こりゃ「嘘」です。
別の機会で河村たかし君は議会の事を「The Diet」ということから、英国における王室経費を審議するのが議会であって、そこでは減税を進め歳費を小さくする(Diet)のが議会の仕事であった。というような事を言っていますが。税が即ち王室の経費であった時代と言うのは何時の事なんでしょうか?何周遅れの話なんですか?
この話を受けて、税収を役人や議員が「わたくし」するような事を主張しますが、人件費や議員歳費が税収のいったいどの程度を占めるんですか?
こうやって実態以上に役人や議員の「既得権益」をフレームアップして「敵」と想定し、それを叩く事で一般的な人気を得る事をポピュリズムと言います。
そもそも、河村市長にだって「既得権益」はあるじゃないですか。それでなければあのビルやら、春日井市に50台からある真新しい特殊車両の存在理由が判らない。多くは述べませんが、フェアな議論とは思えません。
「 大統領が増税を言い出せば、だいたいデモや暴動がおこる」・・・は?
ご覧いただきましょう、まさに今起きている「ウォールストリートを占拠せよ!」における市民たち(99%の人々)の主張。
“TAX THE RICH”
“TAKE IT BACK Tax Wall Street”
まさに彼らが求めているのは「増税」です。富裕層に対する増税を求めているのです。
オバマが増税を言い出さないことから、デモや暴動が起きているんですよ。どうです?
この言葉と事実の見事なまでの相違。
「そりゃ違う、河村市長が言っているのは、全体に増税をかけるような主張なら、デモが起きると言っているんだ」と言われるかもしれない。確かにそうだ。
しかし、なら、河村市長のやった「減税」というのはなんだったんですか?
ありゃ、定率減税なので、富裕層に対して篤く減税される。逆に、市民税を払っていないような年金生活者や控除以下の低所得者層には一銭も返って来ない。
日本においても貧富の差は激しく、特に子育て世代ついては米国よりも日本の方が貧富の差が激しいと言うデータもあります。今、この社会に必要なのは「減税」ではなくて、「税の負担配分の再考」なんです。そして、それを語るのが本来の政治なんです。
河村市長が実施して、そして今も実現化しようとしている定率減税はこの貧富の差を広げようと言う政策なんですよ。
いいですか。今、6%の市民税を5.4%に引き下げるのが河村式減税ですよね。そしてこの歳入制限で行政改革を進めると。しかし、実際にはこんなものは「行政改革」ではありません。単に全体的にシーリングをかけて、全体の行政サービスを縮小させただけです。政策的な事業の見直し、方向性がなければ政治とは言えません。
まあ、それはこの際置くとしましょう。
しかし、ではいったい河村流減税政策において、「正当な税率」と言うのは幾らなんでしょうか?
「正しい経済理論」では何%が「正しい税率」なんですかね?
なんだか、聞いていると「安ければ安いほど良い」ということになりはしませんか?
なので、ここで5.4%まで税率を下げたら、次は4.4%程度までは落としますか?
なんなら、もう「行政サービスはボランティア(無料/自費)で賄う。行政の仕事をして、市民や地域の人々に喜ばれるのは人としても満足な一生を送る大切なことじゃないかな。なら、議員もボランティア(無料/自費)にしたように、行政職員もボランティア(無料/自費)ということにしよう」としたらどうですかね。
学区で出してもらう段ボールや古新聞を王子製紙に持っていくのも、全部ボランティア(無料/自費)でやってくださいよ。
残念だねぇ。決定的にレベルが低いし。
わざわざある方から電話をいただいて、「済藤市議が『一名古屋人のブログ』に応えているよ」というので、何が書かれているのかと思いましたら。私が書いた事が嘘かどうかという話ですか?それも、松山市議と足を絡めていたという話とかヒルガミ旅行のディテールの話で。(参照→「一名古屋人さんのブログ内容のウソ(サイトーのブログ:10月10日)」)
非常につまらないですね。
こんなつまらない話よりも、いままで済藤市議の公約について考察した「新市議、さいとう実咲さんに告ぐ!(6月8日)」で取り上げた「道徳教育の必要性」であるとか。「済藤市議と鹿島市議にそれぞれ考えていただきたいテーマを1つずつ(8月23日)」で指摘した「言葉に対する軽視の問題点」について回答をいただきたいものですね。・・・実際に、こうやって書かれている記事自体が、文章として理解しにくい部分がありますし。
確認がてら細かい事ですが、重要でもありますから指摘してみましょうか。
14行目「貴方と繋がっている人の中で、問題があると判断してますから、関連にて失礼します」という文章は、41行目以降の記述「これを誤解してる人は確かにいたので、片隅で、いつどこで表に出るかなとは思ってた中で、貴方の記事で確認出来たので有難う
内容は6月定例会中の7月のもので、1ヶ月以上古いものが、この辺りで出る事も予想出来る点がありましたので。
…どちらにしても、これは減税日本ナゴヤの控え室から出たと確信出来るのが、残念ですけど」と合わせて推測することができますが、このままでは文意がつかみにくいと思います。
私でしたらこの14行目はばっさりカットして、「一つは、」以降を先ず書いて。
「『松山市議と足を絡めて云々』というような話をしていた人は確かに居たので、いつかどこからかは表に出てしまうのかなと思っておりましたが、貴方の記事という形で表に出ることで、私の危惧が真実だと確信できました。ありがとうございます。しかし、7月の出来事であって、一ヶ月も以前の「噂話」です。どちらにしても、 これは減税日本ナゴヤの控え室から出た話だと確信出来るのが、残念ですけど。」といったような記述の方が文意が通るのではないですか?もっとも、文意自体がこうでない場合は私の読解力不足なんでしょうが。
しかしこうやって見ていくと、松山市議との話において、私はお二人の行動を断定的に伝えてはいませんし、あなた自身の記述においても、そのような「噂話」自体は成立していたようですよね。つまり「そういった噂を立てられる事自体」を問題にしているつもりなんですけど、そう読み取れませんかね?
これは、どうなんでしょうか?
済藤さんと私の主観の違いなんですかね?後は、このブログや先方のブログの読者の方々に判断を委ねましょう。私にとっては枝葉以下のどうでも良い事ですから。
また、ヒルガミの旅行について則竹氏や他の落選候補が同行していたかどうかについては、わざわざ「(この辺り、まだ確認が取れていません)」と断り書きを入れてあるのですけど。
収穫が二つあります。
ひとつは、その旅行に則竹氏や他の落選候補もいたらしいということ(済藤市議の記述でこちらの信憑性が高くなっていますが、まだ、断定はしませんよ)
もうひとつは、5月中旬のタイミングで「則竹さんにナニカあったら、よろしくお願いします」と言われた事は否定されなかった。
ありがとうございました。
当ブログの内容の「嘘」として私の記述の信頼性(頼られる信頼性は求めていませんが)やら信憑性(これについても、ご自分で確認していただくように求めています)を毀損するためには、もっと論旨のキモの部分。「道徳教育」であるとか「言葉の重要性、意味」といったような論点で反論していただくように願うものです。