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旧名古屋城国宝指定説明文に見る名古屋城の「本質的価値」

名古屋城には奇妙な特徴がある。

現存する様々な城郭、姫路城、熊本城、松本城犬山城。これらの城は当然のように城下の町を見守るように、城下を向いて建てられている。そして城下町からその城郭の最も壮麗な姿を見ることができる。

 ところが名古屋城は、城の南側に広がる城下町にそっぽを向けるかのように西を向いて建てられている。現在建て替えられている「ホテル・ナゴヤキャッスル」が、借景として名古屋城をいただき、その立地を西としたのには意味があるのだろう。名古屋城天守の最も壮麗な姿を見るには、西側から見るに限る。

 これは何故かといわれれば、名古屋城が建てられた背景を考えればわかる。

 名古屋城の築城が徳川家康によって定められたのは慶長14年(1609年)。関ヶ原の戦いがそれに先立つ慶長5年(1600年)で、天下の趨勢を決した大阪冬の陣が慶長19年(1614年)である。つまり名古屋城とは、小牧ー長久手の戦いに始まる、豊臣VS徳川の日本統一を賭けた戦略の中で、大阪城を本拠とする豊臣方に対する徳川方の防衛線として築城されたものなのである。大阪・豊臣勢が攻め込んでくるとすれば西側から、そのために南に広がる城下町をさておいて西を向いて築城されたのが名古屋城であった。

 そしてそのように攻め込んで来る大阪・豊臣勢に対して、徳川の勢力を誇示せんが為、戦国最後の築城技術の粋を結して築城された日本最大の天守が誕生する。名古屋城築城時の本質的価値は、その威容(外観)にあることは明白だろう。(その代わり、その中身はほとんどガランドウに作られた、外観さえ睨みが効けば良いのだから当然だ)

 結果として徳川と豊臣の戦いは大阪城において決し、名古屋城は一度も戦火に塗れること無く戦国は終わり、徳川幕府の治世そして明治維新を迎えた。

 その間、東海道五十三次の名古屋の街のシンボルとして、金のシャチホコは、輝き続け、その壮麗な姿は尾張徳川家の威光を示し続けた。(江戸時代の書物には、熱田神宮に参拝に訪れた人々や、東海道を旅する人々、七里の渡しから船に乗る人々まで、この金のシャチホコの輝きに驚かされている光景が描写されている、まさに「尾張名古屋は城でもつ」といわれる通りである)

 明治政府は一時期、全国諸藩の城を打ち壊す方針で居た。文明開化の風からみれば、戦国時代の遺物など因習固陋を示す存在であったのだろうし、なにより明治維新の際に佐幕派との内戦を経験した明治政府にしてみれば、国内に内戦用の砦を放置することは、戦略的にも危険であると判断されたのだろう。名古屋城も例外ではなく、一時は取り壊しの判断がなされた。しかし、ドイツ公使のマックス・フォン・ブラントと日本陸軍中村重遠大将の訴えによってこの方針は翻され、陸軍省の宿舎とされ、後に皇室の離宮としても使われる。

 江戸時代から、明治期のこうした離宮であった時代にわたって「名古屋城」とは、本丸御殿や二の丸御殿などを含めた堀内一帯を指すのであって、名古屋城天守はシンボルではあっても櫓としての機能ぐらいしかなかった。名古屋城天守はガランドウの建物であって、せいぜい物置ぐらいにしか使われておらず、誰も居住も使用もしていなかったのである。「天守閣」という言葉が使われるが、「閣」とは、人の出入りし、居住する建物を言う言葉であって、そうした使用をされてこなかった名古屋城天守建物に対して「名古屋城天守閣」と呼称することは、正確ではない。名古屋城の歴史的在り方を誤解させる誤った呼称とも言える。正確には「名古屋城天守」は「名古屋城天守」または、「名古屋城天守櫓」とすべきだろう。

 時代が下って昭和5年(1930年)宮内省所管の名古屋離宮は廃止され、名古屋城の所管も名古屋市に移される。東京の宮城から、京都の御所までお召し列車によって天皇陛下御一行が移動される際に、名古屋において一泊される必要があったところ、交通網の発達によって一泊の必要がなくなり、離宮が廃止されたのである。維持費の問題もあったようだ。

 そして同年、名古屋城(本丸御殿、二の丸御殿なども含む)は「国宝」に指定される。城郭建築としては「第一号」の指定となる。

 この国宝に指定された際の「理由」が知りたいと思い、様々に調べていたが見つからなかった。そうしたところ、現在「名古屋城天守有形文化財登録を求める会」の月例会の会場が「名古屋市市政資料館」であることに思い至り、何気なく資料室の職員さんに聞いてみた。すると「有るよ」とばかりにご提示いただいた。当時の書面そのものがこれになる。

表紙
綴表書き

 「史跡名古屋城指定地域綴 社会教育課」(史跡六冊の内五、永久)
資料綴では「受入番号、教S44」であり、誰でも資料請求すれば見ることができる。こういった博物資料こそ、もっと活発に展示する事もあって良いんじゃないかと思うけど、今のところこうして「単なる市政資料」として、直接参照できるというのはありがたいことだ。

文部省からの通知には

国宝指定通知

発宗一八○号/昭和五年十二月十一日
文部省
愛知県名古屋市 御中
貴市所有の左記建造物本日国宝に指定せられたり
右通知す

と簡潔に綴られている。

続いて、天守を始め、堀の内の指定建造物の一覧が列挙されており、指定の理由も示されている。

国宝指定説明書 1of2
国宝指定説明書 2of2

名古屋城
 所在地
  愛知県名古屋市西区南外堀町樋ノ口町、堀端町、上名古屋町


 指定地積
  民有二十筆内実測二十二町一反九畝三歩四合六勺
  国有六筆内実測十七町一反三畝二十八歩七合


 説明
  もと柳丸城と称せし廃城の地にあり、慶長十五年徳川氏の築城にかかり、前田、毛利、黒田以下諸大名をして、役を助けせしめしが、その天守閣は実に加藤清正の経管に成り、五層楼の上に有名なる黄金の鯱を置けり、本丸は最近まで離宮たりしにより、その保存最も完全なるが、二丸三丸等は陸軍用地として兵管練兵場その他に使用せられ、今僅かに東御門及び旧奥御殿庭園の一部及び銃眼を有せる土塀等を存ずるに過ぎずといへども、尚城門跡城堀等旧規見るべきもの少なからず。


 指定の事由
  保存要目史跡の部第四に依る


 保存の要件
  公益上必要止むを得ざる場合の外現状の変更は
  之を許可せざることを要す
  旧建物は応急の修理といえども十分の注意を要す


 カタカナはひらがなに変え、旧字も読みやすく入れ替えた。適宜改行、句読点も補足した。旧字の読み間違い等あればご指摘いただきたい。

文中有る「柳丸城」は今川氏の古城のことであり、家康はこれを「柳丸城」の再建として築城させたようだ。

 この「国宝」指定の説明を要約すると。
徳川家康の指示により築城されたものであること。
・戦国の大大名、前田、毛利、黒田そして加藤清正らの築城したものであること。
・五層楼の壮大な城であること。
・有名なる黄金の鯱をいただいていること。
・保存最も完全であること。
・(陸軍への供用で)今僅かに東御門及び旧奥御殿庭園の一部及び銃眼を有せる土塀等を存ずるに過ぎずといへども、尚城門跡城堀等旧規見るべきもの少なくないこと。

整理すると、徳川家康の指示により諸大名が建て、その保存が完全である。
そして、五層を重ねた壮大な楼閣を有し、有名な金のシャチホコを載せた天守を含み。古を尋ねるべく「見るもの少なくない」となっている。


この国宝指定の説明を読むと、国宝となった名古屋城の「本質的価値」がよく分かる。

 名古屋城の本質的価値はその「外観」にある。そして国宝となった理由は、歴史的に保存が完全に行われてきたことである。

 日本の国宝に「レプリカ」はない。すべてオリジナルである。このように昭和5年に国宝に指定されていても、第二次世界大戦の大空襲によって消失してしまった建物は、国宝にはならない。レプリカは所詮レプリカでしか無い。(京都の金閣寺も同様である)

 こうした真実性については、もはや取り返しはできない。いくら金をかけようと、レプリカはレプリカ、インチキ政治家には、こうした真実性の重要さがわからないようだが、消失してしまった本物は、誰が何をやっても取り返せはしない。

 そしてこの国宝指定の説明にあるように、その建物の価値は「見るもの」であり、五層楼の壮大な天守であったり、有名な金のシャチホコであるのであって、それはすでに昭和の改修によって復元されている。

 昭和34年に行われた改修は、すでにこうした名古屋城天守の本質的価値の再現であり、その優れた外観復元こそ守り伝えていくべきものである。

「国宝第一号」であり、尾張名古屋の宝であった、名古屋城焼夷弾によって破壊するという、戦争の非文明を明かすものとして、失われた木造天守をレプリカで復元すべきではない。

 二度と、火災によって失われないように、昭和の再建者が再建した建物を尊重すべきである。

 現在の天守建物は壮麗な木造屋根を模して鉄骨鉄筋で造られているが、もはや現在ではこうした曲線の造形を造れる型枠工は居ないと言われている。昭和の職人の文化、事跡を残す意味においても、現在の天守建物は壊すべきではない。

 これこそが、慶長における築城、江戸期の大改修、そして昭和の第二次世界大戦と空襲の被害、さらにその復興を標す、歴史的建造物であり、昭和遺構として残すべき文化遺産である。

 今に至って木造でレプリカを作る行為は、こうした正しい歴史から、戦災による消失と、昭和の市民による再建という事実を歪め、歴史的必然もない木造レプリカによる建て替えは「本質的価値」を持ち得ない。

 どこまでも子ども騙しでインチキな行為であると指摘させて頂く。